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おまけ④ 赤のハーモニー

 放課後の美術室には、油絵の具の重たい匂いが立ち込めていた。  開け放たれた窓から入り込む春の風が、向かいに立つ男の肌を粟立たせる。  高校生の宮尾は、古い木の椅子をガタつかせながら、スケッチブックに視線を落としていた。  数メートル先に立っているのは、先ほど初めて言葉を交わした水泳部の先輩だ。上裸のその肉体は、少年期を抜けたばかりの若者特有の瑞々しさと妖艶さが、危ういバランスで同居していた。  宮尾は校内では「絵に没入する変人」として知られていた。  放課後になれば、校内の至る所を練り歩き、琴線に触れた人間を片端から描き殴る。ハードルを越える陸上部員、無心で楽譜を追う吹奏楽部員。そして、肉体が最も激しく躍動する水泳部。  勝手に練習場へ侵入して追い出されそうになっていた宮尾を、この先輩が助けてくれたのだった。 「俺、モデルになってもいいよ」  穏やかに、けれどどこか拒絶を孕んだその瞳は、怒りや悲しみで濡れているように見えた。だからこそ、宮尾は彼を描きたいと思った。  静寂の中、二人分の呼吸と、鉛筆が紙を削る音だけがこだまする。  ふと、沈黙を破ったのはモデルの先輩だった。 「宮尾くんは、どんな画家が好きなの?」  宮尾は、今まで「被写体」としてしか見ていなかった先輩を、改めて「人間」として見た。内に抱く激情が鳴りを潜めたその顔は、どこまでも透明で静謐だ。  宮尾はわざとつっけんどんに返した。 「……言っても、わかんないと思います」 「わかんなかったら、今教えてよ」  案外、我が強い人らしい。毒気を抜かれた宮尾は、教室の隅の棚から数冊の画集を抜き出し、先輩に差し出した。  彼は興味深げにページをめくり、やがて楽しそうに一冊を掲げた。 「俺、この人の絵が一番好きかも。カラフルなのに、なんだか落ち着く」  受け取った画集の表紙を見て、宮尾の口角が自然と緩む。 「マティス。……俺が一番好きな画家です」  ◇  頬に触れる柔らかな感触に、宮尾は目を覚ました。見ると、アンリが前足でたしたしと宮尾を叩いている。 「……起こしてくれたのか。ありがとう、アンリ」  今日は平日のど真ん中。機動型の不動産営業マンである宮尾は、不定休を利用して吉永の家に転がり込んでいた。映画を見て、絵を描いて、アンリと戯れているうちに、深い眠りに落ちてしまったらしい。 (懐かしい夢を見た気がする)  時刻は昼をとうに過ぎている。別室で仕事をしているはずの吉永の様子を見ようと、宮尾はアンリを抱えて廊下を進んだ。 「吉永さん、入っていい?」 「どうぞー」  襖を開けると、壁一面を埋め尽くす本棚が目に飛び込んできた。モニター二台に向かい、暗号のようなコードを打ち込んでいた吉永が振り返る。 「お昼、何か用意しましょうか」 「あー、助かる。お言葉に甘えようかな」  吉永にアンリを預け、何気なく本棚を眺める。専門書やビジネス書の並びの中に、見覚えのある背表紙を見つけた。  ジョルジュ・ルオー、藤田嗣治、岡本太郎。そして――。 「……マティス」  脳裏に、先ほどの夢が鮮明に蘇る。あの時、先輩に差し出した画集。俺が一番好きだと言った、色彩。 「ここにあるの全部、俺が好きな芸術家だ」  驚きに目を見開く宮尾に、吉永はアンリを捏ね回しながら、困ったように笑った。 「バレたか。恥ずかしいな」  どの画集も角が丸くなっており、十年の間、幾度となく読み返されてきたことを物語っていた。 「本当に、全部覚えてたんですか?十年前の、たった数日のことですよ」 「そのたった数日が、当時の俺には救いだったんだよ」  吉永の慈愛に満ちた眼差しに、宮尾は体の力が抜けるのを感じた。  自分は今の今まで忘れていた。けれどこの男は、十代の終わりの眩い記憶を、途方もない時間、大切に、大切に宝箱にしまい続けてくれていたのだ。  宮尾が泣き出しそうな顔をしているのに気付いて、吉永が手招く。素直に寄ると、ぐっと腰に腕を回された。見下ろす吉永の顔は、雄弁にその感情を叫んでいた。 「宮尾くん。俺は過去の君だけじゃなく、今の君が好きなんだよ」  真っ直ぐすぎる愛に、視界が滲みそうになる。宮尾は顔を背けて誤魔化した。 「……業務時間中に、よくそんな恥ずかしいこと言えますね」 「恥ずかしくなんてない。……宮尾くんは?」  宮尾は椅子に座る吉永に覆いかぶさり、そのこめかみに唇を落とした。 「俺も……全部ひっくるめて、今の吉永さんが好きです」  至近距離で二人が重なろうとした時、吉永の膝の上からか細い声がした。見ると、アンリが不満そうな顔で二人を見上げている。 「あ、ごめんアンリ。おやつにするか」  宮尾はアンリを抱き上げ、ふと、その名を手繰り寄せた。  宮尾の一番好きな画家。色彩の魔術師、アンリ・マティス。 「……ええ!アンリって、そういうこと?」 「そういうことだよ。今まで気づいていなかったんだ?」 「じゃあ、俺があの時ピカソを出してたら……」 「この子は今頃パブロだっただろうね」  宮尾はアンリに顔を埋め、燃えるように熱い頬を隠した。吉永の愉快そうな笑い声が部屋に響く。  本棚の中では、あの時二人を繋いだ「マティスの赤」が、十年の時を経てなお、鮮やかに呼吸を続けていた。

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