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おまけ⑤ 暁を焦がすバニラ 前編
三月、決算月。不動産業界が最も過熱するこの時期、宮尾は多忙の極みにいた。
自身の数字は早々に叩き出していたが、同じチームの同僚や部下は、ひいひい言いながら見込み案件をかき集めている。結果、部下たちの案件の壁打ちやアポへの同行、それに付随する膨大な事務作業によって、宮尾の時間は容赦なく圧迫されていた。
その日は、三月だというのに真冬のように冷え込む一日だった。
時刻は二十一時を回ったところ。世間は華やかな金曜の夜を迎えているが、大世不動産のオフィスでは大半の人間が青い顔でPCに向かっている。宮尾も同様だった。定時後のこの時間しか、自分の仕事を片付ける余裕がない。
先ほど、夜のアポの後に部下と駆け込んだ家系ラーメンが、胃の中で重く主張している。タフさには自信のある宮尾だが、こうも連日残業が続けば肉体が先に音を上げる。
(……吉永さんのご飯が食べたい)
恋人が作る、優しくて消化に良い手料理。もう二週間近く、吉永の顔を見ていない。
オフィスに漂う、煮詰まったコーヒーとエナジードリンクの匂い、暖房のむわっとした空気に辟易してきた頃、デスクの上のスマホが控えめに震えた。
画面を確認した瞬間、宮尾の目が生き返る。先ほどまでの死んだ魚のような様子から一転、鮮やかな手つきでPCを閉じると、立ち上がってコートを羽織った。
「あれ、宮尾さん上がるんですか」
「うん。目がかすみまくって限界だから帰るわ。後よろしく」
そう言い残し、軽い足取りでオフィスを飛び出していく。
残された面々は、その背中を見送りながら確信に満ちた顔を見合わせた。
「あれ、絶対彼女ですね」
「いいなあ。俺も全てを放り出して、誰かの胸に飛び込みたい」
その夜、日付が回ってもオフィスの灯りが消えることはなかった。
小走りでオフィスビルを出ると、冷え切った街灯の下に、今最も会いたかった男が立っていた。
「吉永さん!」
声をかけて駆け寄ると、吉永が気づいてふわりと手を上げる。
「遅くまでお疲れ様、宮尾くん」
「お疲れ様です。吉永さんも仕事だったんですか?」
「いや、さっきまで近くで友人と飲んでいてさ。ちょうど終わったから」
そう言う吉永の白い頬は、冷たい夜風のせいか、あるいはアルコールのせいか、ほんのりと朱に染まっている。
約二週間ぶりの恋人を前に、今すぐ抱きしめて口付けたい衝動に駆られたが、ここは職場の目と鼻の先だ。宮尾は辛うじて自重した。
そんな彼の葛藤を知ってか知らずか、吉永がそっと手を伸ばしてくる。冷たい手のひらが、宮尾の火照った頬をそっと包み込んだ。
「酷い顔色だね。まともに眠っていないんでしょう?帰ってゆっくり休もうか」
その優しい言葉に、宮尾の胸の奥で、子供のような我儘が頭をもたげた。まだ帰りたくない。せっかくの逢瀬なのだ、少しだけでいいから、この人と「華金デート」がしたかった。
「吉永さん、明日、休みですよね?」
「うん。休みだけど……」
「俺も休み、もぎ取りました。……久しぶりのデート、付き合ってください」
吉永の手を強く引き、夜の街へと歩き出す。吉永は一瞬呆れたように笑い、それから愛おしそうに歩調を合わせた。
華やかで喧騒に満ちた駅前から、高架沿いに少し歩くと、古き良き下町の情緒が残る静かな路地へと景色が変わる。
目立たない雑居ビルの半地下に、ひっそりと佇む扉が宮尾の目的地だった。
重い木製の扉を押し開けると、そこはまるで外から切り離された異界のようだった。美しく磨き上げられた一枚板のバーカウンター。壁際に整然と並ぶ無数のボトル。照明は極限まで落とされ、等間隔に灯されたキャンドルの炎が、互いの顔を仄かに浮かび上がらせている。店の奥には、一際目を引くダーツマシンが二台置かれ、楽しげに若者たちが集っていた。
「ケンイチさん、こんばんは」
「お、ミャオくんじゃん。久しぶり」
カウンターの奥にいた店主と、親しげに言葉を交わす。どうやらここは宮尾の昔からの行きつけらしい。
席に着くなり、宮尾の目がカウンターに置かれた一本のボトルに釘付けになった。
「何これ。見たことないラベルですね」
「それね。ちょっと珍しいバーボンなんだ。飲んでみる?」
宮尾が食い気味に「ぜひ」と目を輝かせる。
静かに目の前に差し出されたのは、繊細なカットが施されたロックグラスに揺れる、深い琥珀色の液体。
吉永と短くグラスを合わせ、少しだけ口に含む。
途端、吉永は小さく目を見張った。
グラスを傾けた瞬間に広がるのは、完熟した洋梨を思わせる濃厚でフルーティーな香り。それが口内に滑り込んだ瞬間、まるで上質なバニラビーンズや焦がしたカラメルのような、香ばしく甘やかなコクが圧倒的な厚みを持って押し寄せてくる。喉を通り過ぎた後には、ローストアーモンドを齧ったときのような芳醇な余韻が鼻腔を抜け、じんわりと腹の奥を温めた。ウイスキー特有のトゲが一切なく、どこまでも滑らかで、いくらでも飲めてしまいそうな極上の液体。
「……おいしい」
吉永の呟きに、隣の宮尾も深く深く頷いていた。
「疲れた身体に、美味い酒が……沁みる……」
一口ずつ、宝物を味わうように飲み進め、そのたびに感動に打ち震えている恋人を見て、吉永はたまらず声を上げて笑った。
宮尾はポケットから使い慣れた電子タバコを取り出すと、親指で軽くデバイスを弄んだ。小さなインジケーターの光が、薄暗いカウンターに一瞬だけ青く浮かび上がる。
そっと唇に咥えて吸い込み、ふう、と吐き出された白い蒸気。それはバーボンの持つ甘やかな余韻をなぞるように、微かにバニラの香りを孕んでキャンドルの炎の向こうへと溶けていった。
上等な美酒と、彼が紡ぎ出す微かな紫煙に浸り、穏やかな会話を楽しんでいると、奥のダーツスペースから声がかかった。
「良かったら、一戦やりません?」
先ほどの若者の一人だ。
「チーム戦したいんですけど、一人足りなくて。良かったら是非」
「……俺、あんまり上手くないけど、いいの?」
「全然オッケーです!」
宮尾が、伺うように吉永に視線を向ける。吉永が微笑んで頷くと、彼は少し嬉しそうに若者たちの中へ混ざっていった。
グラスを傾けながら、その様子を眺める。上手くない、などというのは真っ赤な嘘で、宮尾の投げる矢が綺麗に狙った場所を射抜くたび、場には大きな歓声が沸き起こった。
「ミャオくんと、仲が良いんだね」
声をかけてきたのは、バーのマスターだった。どこにでもいそうな中肉中背の男だが、その瞳だけは、全てを見通すように静かで澄んでいる。
吉永が曖昧に微笑むと、マスターはグラスを磨きながら小さな笑みを浮かべた。
「あの子がここに誰かを連れてきたの、初めてなんだよ。最初に来た二十歳の頃から、いつだって必ず一人だったからさ」
「……そうなんですか」
吉永は意外に思った。こう言ってはなんだが、手慣れたデートコースの一つにでも使っているのだとばかり思っていたからだ。
「ここに来る時のミャオくんはさ、いつも全人類を敵に回したような、張り詰めた顔をしてたんだよね。きっと、ここが彼にとって唯一の『逃げ場』だったんだと思う。それがさ、数ヶ月顔を見せないと思ったら、随分と毒気の抜けた顔をして、大切な人を連れてくるもんだから」
驚いちゃったよ、とマスターが笑う。
薄暗い店の奥から、若者たちの声に混じって、宮尾のはしゃいだ笑い声が聞こえてくる。
酒のおかわりを頼みながら、吉永は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。自惚れでなければ、自分は宮尾にとっての「安心できる場所」になれたのだろう。
そして、彼が自分をこの店に連れてきた意味。
彼にとって極めて個人的で、誰にも触れさせたくなかったであろう聖域。そこで二人でグラスを交わし、時間を共有する。それは、宮尾が心の最も厚い外套を脱ぎ捨てて、自分を丸ごと受け入れてくれている証左に他ならなかった。純粋な喜びが、吉永の心を満たしていく。
「吉永さんもやりましょうよ!」
いつの間にか戻ってきた宮尾が、吉永の腕を引いた。
「俺はあまりやったことがないよ?」
「じゃあ今からやりましょう」
ぐい、と引かれる腕。その強引さと、有無を言わせない傲慢なまでの態度が、あまりにも彼らしくて愛おしい。薄暗い空間の中で、吉永には、宮尾のいる場所だけがひときわ眩しく輝いて見えた。
◇
店を出たとき、世界はすでに夜の帳を取り払い、藍色のグラデーションに染まっていた。もうすぐ始発が動き出す時間だ。
酔った頭で「とりあえず駅へ」と考えた吉永だったが、同じく心地よく酔った恋人に、その行く手を阻まれた。
「吉永さん、そっちじゃないですよ」
「え?」
首を傾げる吉永に、宮尾はいつもの不敵で、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いいもの見せてあげますから。付いてきてください」
大人しく連れ立って辿り着いたのは、夜明け前の多摩川の河川敷だった。
この時間、周囲には人影ひとつない。二人は自然と指先を絡ませ、湿った冷たい土手をゆっくりと歩いた。遠くからかすかに川のせせらぎが聞こえ、隣からは、秘密を打ち明けるような小さな声が流れてくる。
「昔から……しんどくて、どうしようもない時は、あの店に一人でこもって、最後にここに来てたんです。誰もいない時間にポツンとここにいると、本当に世界に一人きりになったみたいで。そうやって、孤独に浸りながら自分を慰めてたんですよね」
宮尾が自嘲気味に笑う。吉永は何も言わず、ただ繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「今日はね。俺の中の、一番弱くて、みっともない部分を、吉永さんに見てほしかったんです。ずっと一人きりだった場所に、今、吉永さんと一緒にいる。……なんだか、昔の孤独な俺が、ようやく成仏できたような気がします」
「成仏って。幽霊じゃないんだから」
顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。
冷たい朝の風が、アルコールで火照った身体を心地よく冷ましていった。
辿り着いたのは、車通りもまばらな大きな橋の中央。
二人は欄干に身を寄せ合い、肩を並べて東の空を見つめた。
深い藍色のベールの向こうから、一筋の鮮烈な光が差し込む。世界に、ゆっくりと色彩が戻ってくる。徐々に空が白み始めると、朝のランニングをする人や、犬の散歩をする人の姿が、ぽつぽつと現れ始めた。
希望に満ちた、新しい一日の始まり。
そのまばゆい光の中で、広い世界の片隅にいるちっぽけな恋人たちは、互いの体温を確かめ合うように、優しい口付けを交わした。
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