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No.5「真っ赤な薔薇」
守紋様により左脚、右脚、左腕が封じられ、騎士団長の亡霊・ラユの手が触れる範囲はより狭まった。
けれど今夜の僕は、その冷たい指の動きにも、錆びた金属のような匂いにも、嫌悪すら感じない。
心が停止し、ただただボーッと真っ暗な天井を眺めている。
幼馴染であるゼフの手という温かさを知っていたからこそ、ラユの指を冷たく感じていたのだ。
本当はゼフに触られたかった。
だから、ラユの手が嫌で嫌でしかたがなかった。
でも僕が大切にしていたゼフの「熱」は、守紋様による副作用だったと聞いてしまった今、心の寄り処を失い、全てがグラグラと揺らいでいる。
(いっそのこと、ラユの問いに「はい」と答え、彼に抱かれてみようか……。そしたら、僕もラユも楽になるかもしれない)
ラユの冷たい指は、僕がいつもより嫌がらないせいか、どんどんと大胆になっていく。
ついにその指が陰部を這い始めても、もちろん快楽の芽は生まれない。
なのに身体の反射として、ほんの少しだけ、そこは芯を持ち始める。
心が弱った僕は、流されてゆく。
亡霊にされるがまま、流されてゆく。
そのとき。
今夜も瘴気に当てられ動けずにいた蝙蝠のホムが、闇夜の中にボワッと炎を吐いた。
精一杯の力を振り絞り、僕を守るために小さな炎を灯してくれたのだ。
その炎は、亡霊の親玉のような騎士団長には、まるで効き目がない。
それでも、僕は我に返ることができた。
急にゾッとして怖気が身体を駆け上る。
危うく、亡霊の思うままになるところだったから。
「や、やめて……。触らないで……」
いつもは金縛りにあったように全く動かない身体。
でも、守紋様が描かれた左腕、右腕、左脚は、鉛のように重いながらもゆっくりと動かせることに気が付いた。
これも守紋様の力のようだ。
だから僕は、左腕、右腕、左脚を少しずつ動かして必死に抵抗し、夜明けの鐘が鳴るまで、自分の身体を守りきった。
—
昼間。
夜の疲れを引きずった僕は、ゼフにも、勘の鋭いマチにも会いたくなくて、春の風が心地いい薔薇園を歩き回った。
広大な薔薇園は、きちんと区画整理され、手入れが行き届いている。
薔薇の花は黄色が最も多く、白や淡いピンクも咲き誇っていた。
いつも昼寝をするバルコニーからは死角となる、茂みの向こうまで歩いてゆくと、その区画だけ真っ赤な薔薇が植えられているのが目に入る。
(圧倒される美しさだ……香りもむせ返りそうなほど強い)
「あれ、ナリ王子。めずらしくこんな処までお散歩ですか?」
突然声を掛けられ振り返ると、使用人の中でも、庭を担当してくれている老人が水やりをしていた。
「はい。いつも薔薇の世話をありがとうございます。本当に綺麗で見惚れていました。黄色や白い薔薇もいいけど、赤はより力強いですね」
「でしょ。私もこの赤が好きですな。マチは「不吉な感じがして嫌だ」と、黄色ばかりを切り花にして、飾りますけどね。あぁ、王妃にも、黄色と白の薔薇をお手紙と一緒にお送りしておきましたよ」
そういえば数日前マチに、母上への手紙と薔薇の手配を頼んだんだった。
「赤い薔薇もこんなに美しいのに、なぜマチは、不吉なんて思うんだろ?」
「それは、ここが亡霊の出処だからですよ」
声を潜めて老人は言う。
「出処?」
「言い伝えによれば、百年前、ここで当時の城主の大切な方が亡くなったらしいです。それを知ると、これが禍々しい血の色に見えるのでしょう」
ラユのことだ……。
ラユは、正にこの場所で亡くなったのだ。
そして、城主は真っ赤な薔薇を植えた。
暖かい春の風が、強い香りとともに薔薇園を通り抜ける。
僕はこの光景を、百年前の城主の想いを、ラユに見せてあげたいと思った。
—
憂鬱だろうとなんだろうと、夜はまたやってきて、僕はゼフの前で下衣を脱いでいる。
今夜は、右脚に蔦の紋様が描き込まれていく。
「ナリ、身体の力を抜いて」
副作用という言葉の衝撃が消えない僕は、全身に力が入ってしまっていた。
「……うん」
深く深く息を吐き、目を閉じる。
「気持ちいいんだろ?我慢しなくていいんだって。副作用なんだから」
なんだろう。
その言葉に酷く腹が立った。
僕は彼の前で、そんな姿をさらすのが恥ずかしいと思っていたのに、ゼフにとっては何でもないことだったのかもしれない。
彼は目の前で、僕が気持ちよさそうにしてたって、眉一つ動かさないんじゃないだろうか。
僕はゼフに見せつけたくなった。
少しは僕を理解してほしくて。
右脚を這う筆の動きに意識を集中させれば、あっという間に気持ちが昂った。
目を閉じているから、まるでゼフの舌が僕の肌を舐めているような錯覚を覚え、呼吸が荒くなってしまう。
「んっ」
筆が鼠径部を撫でると、僕は思わず吐息をこぼし、ジクジクと熱の籠っている腰を揺らしてしまった。
「動かないで、ナリ」
注意をしてくるそのゼフの声色すら、僕の官能を引き立てる。
僕を押さえるため腹に置かれた、ゼフの筆を持たないほうの手が熱く、心を焦がした。
「……あぁ」
(どうして、どうして守紋様にはこんな副作用があるんだろう。僕だけじゃなく、他の人もこんな恥ずかしい思いをしているだろうか)
「できた」
その言葉に、僕は長椅子から身体を起こし、慌てて下衣を纏う。
そして、燭台とホムの鳥籠を持って、「ありがとう。おやすみ」とだけ告げ、寝室へ引き上げる。
結局、ゼフの顔を見る勇気はなかった。
彼がじっと僕を見ている気配を感じたから、尚のことだった。
—
寝室へ戻った僕は、膨らんでしまった欲望を自分の手で処理する。
そして、達した途端に自己嫌悪に沈み込んでしまう。
「あー、もう嫌だ。守紋様が描かれるのはあと三回。もう断ってしまおうか……。ねぇ、ホム、どう思う?」
問いかけても、シャンデリアにぶら下ったホムは、何の返事もしてくれない。
やがて夜が深まれば、いつものようにラユが現れた……。
「城主、私と契りを交わしましょう」
今夜もそう訴えてくるラユが、可哀想に見える。
ゼフへの感情をどう処理していいか分からない自分を惨めに思う気持ちと、重なったのかもしれない。
だから、大胆な行動に出てしまった。
守紋様により、両足、両手が動くようになった僕は、鉛のように重い身体をゆっくりと動かし、ベッドからどうにか降りる。
亡霊のラユは、そんな僕を背中から抱き込み、しがみついていた。
彼を背後に貼りつかせたまま、僕は扉を開け廊下へと出る。
ホムは心配するように羽をパタパタと動かしたけれど、亡霊の瘴気でそれ以上動くことはできない。
ラユを背負った僕は、ズルズルと足を動かし、真っ暗な廊下を進んで、バルコニーを目指す。
「ラユ、見せて、あげるよ。平和に、なった、世の中を。君の、大切な、城主が作った、綺麗な、薔薇園を……」
ラユは少しは分かってくれるだろうか。
どうか薔薇を見て「美しい」と感じてほしい。
「もうすぐ、だから、ね」
大広間まで時間をかけて辿り着き、バルコニーへ続く扉に手を掛けたときだった。
「馬鹿!なにやってんだ!」
燭台を持ったゼフが、凄い勢いでこちらに向かって走ってくる。
「おい、ナリ!今、誰と喋ってた!」
怒気に満ちた声で、彼は問う。
「だ、誰って、ラユだよ。見せてあげたいんだ、赤い薔薇を……」
どうしてそんなに怒るのかと、悲しくなり僕の声は段々と小さく萎んでゆく。
「ラユって、騎士団長のか?」
「見えるでしょ?僕に張り付いている彼が。ラユの意識はまだ百年前の大戦の中にいるんだ。だから、この景色を見……」
「見えないよ、ナリ。何も見えない」
「え?」
「俺には、ナリ一人にしか見えない。いいかナリ、よく聞いて。そいつの姿が見えるということは、オマエは騎士団長に連れて行かれそうになってる」
「ど、どこへ?」
「亡霊の国へだよ」
「ラユは人間になりたくて、僕のところへ現れたんじゃないの?」
「違う、ナリを連れて行こうとしているんだ。騙されるな。そいつは薔薇を見ても、綺麗だななんて思う感情は持ってない」
ゼフは怖い顔のまま、僕の腕を強い力で引っ張り、寝室へと連れ戻そうとする。
廊下の向こうからは、ホムが必死に羽を動かし、ゆらゆらと飛んで僕を迎えにきてくれた。
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