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第5話 誰かのまなざし
その後、大学の教務課に行った。
陽介は二月の上旬にすでに復学届を出していたらしい。息を切らしながら駆け込むと、事務員は少し資料を確認して、
「復学の手続きはもう終わってますよ」
そう事務的に返事をした。
「ですから、履修登録さえすれば、前期の授業は受けられますよ」
「俺、夏休みに休学届を出して、春休みに復学届も出したってことですよね?」
そう、自分が手続きしたはずのことを聞く陽介に、記憶喪失の事情を知らない職員は怪訝そうに「そうですが」と答えただけだった。
「うーん陽介クンの足取り、掴めずか~」
「お前ちょっと面白がってない?」
「え!? いや、ぜんぜん!」
蓮の運転で、大学近くの家電量販店で使い捨てフィルムの焼き増しを頼んだ。てっきり数日かかると思っていたが、2時間ほどで出来上がるという。
現像済みのフィルムを持って現れた陽介に、店員は事務的に会員証があるか聞いた。一度フィルムを預かる関係で、会員証がないと印刷ができないらしい。
ない、と答えようとして、念のため財布の中を見る。予想外というかなんというか、その店舗の真新しい会員証があって、少し声が掠れた。
「3月19日に、同じものを現像されていますよね」
また、陽介の知らない記憶だ。これほど続くとうんざりしてくる。店員の言葉を頭の片隅にひっかけながら、陽介は店を後にした。
「しかし、あの陽介が半年休学してでもやりたかったこと、ねえ」
駐車場に止めた車の中でアイスコーヒーを啜りながら、蓮が言った。
「それは俺が一番疑問に思ってるよ」
自分の過去の行動に対して、まるで理解できない。「大学に通う」ということに対する陽介の重さは、同級生とは比べ物にならないという自覚はある。
同じようにコーヒーを啜りながら遠くを眺めている陽介をからかうように、蓮は陽介の横腹を小突いた。
「やっぱさ、恋だよ」
「……はぁ」
「全部捨ててでも一緒にいたいって思う相手、見つけちゃったんじゃない?」
そうじゃなきゃ説明がつかない、とニヤニヤする蓮は心なしか楽しそうだ。
「そうだったら嬉しいよ、俺は。ほら、お前モテるのにそういう話あんまりしないだろ? 学部でなんて呼ばれてるか知ってる? 僧侶だよ、僧侶」
「はは、じゃあ今度誰か紹介して」
「あ、言ったな! じゃあサークル入れよ、サークル」
蓮は陽介をただからかっているだけではない、とわかる。これは彼なりの優しさで、この蓮という男はそういう男だ。陽介は彼のそういうところに、救われている。
「ちょっとは元気出た?」
「なんだよそれ」
「さすがに落ち込んでると思って」
養護施設出身だということは話したが、それ以上の多くを語ったことはないのに、蓮はいつもこうだ。深く聞かず、でも分かってくれている。そういう距離感が、陽介には心地よかった。
恋愛というものは、いまだによくわからない。今までは、恋愛よりも優先度の高いものの方が多かった。それこそ高校時代は奨学金のために勉強を最優先にした。その結果、19歳になってもいまだに交際経験はない。
蓮とたわいない話をしているうちに、写真を引き取る時間が来た。
「俺、ちょっとトイレ行ってくる」
封筒を手にした陽介が車に帰ってくると、入れ違うように蓮は車を後にして、店の中に消えていく。おそらく一人で見たいだろうと気を遣ったのだろう。彼なりの気遣いに感謝しつつ助手席に戻ると、深くため息をついた。
少しだけ、指先が震えた。
この中に、失われた陽介の半年がある。かもしれない。それはたしかな期待と、かすかな恐怖だったかもしれない。
1枚目を見て、あっ、と声を出した。
喫茶店かどこかで、本を読んでいる陽介の姿だ。真剣な顔で、写真を撮られたことに気づいていないみたいだ。
2枚目、海辺を歩く、陽介の後ろ姿だ。
3枚目、笑っている、陽介の横顔。
26枚目まで目を通してから、再びふうとため息をつく。全て、陽介をうつした写真だった。寝顔の写真すらあった。この写真を撮った人物と陽介がただならない関係性だったことは、容易に窺える。撮られた日付や場所はバラバラだったが、『誰か』がまなざした陽介が、ささやかでたしかな日常の営みが、そこにあった。
顔が熱くなる。自分はこんな顔で笑うのか。
照れて、呆れて、怒って――こんな剥き出しの感情が、本当に自分の中にあったのか。
決して上手な写真ではない。
ぶれていたり、構図がめちゃくちゃだったり、暗すぎたり明るすぎたり。
それでも写真を撮った『誰か』が陽介に向けるあざやかな感情が、フィルム独特のノスタルジックな手触りから伝わってくる。
そしてそれは、きっと自惚れではなく。
『やっぱさ、恋なんじゃない?』
なぜだか、泣きそうになった。
同時に、くるおしいくらいの愛おしさが込み上げる。陽介はこの感情を、知っている。
「あ」
27枚目、海の写真だった。
まだ完全に目覚めていない朝の、青白い夜明けとのあわいに、海がある。寒々と光った水面に、太陽の細かな光が砕けて、いくつもの破片に割れて、キラキラと光っている。
高画質のカメラのように、決して綺麗に撮れているわけではない。それでも伝わってくるほどそれは美しい光景だった。
この景色を、陽介は見たのだろうか。
一人で見たのだろうか、それとも。
この写真にも、やはり『誰か』の痕跡は、ない。
落胆よりも、もっと強い感情が陽介の中に渦巻いていた。
この写真の海を見たい。この場所で自分がどんな想いを抱いたのか、知りたい。
こんなあたたかい写真を撮る人に、こんな優しい感情を向ける人に、会いたい。
指先で写真の海を撫でる。
陽介を引き止めるように、頭の奥がしくりと痛んだ。
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