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第7話 海辺の街(2)

 地図によるとその場所は陽介が最初に目指していた海岸沿いとそう変わりなかった。濃い潮の匂い。波が寄せては返す音が繰り返し響いて、陽介の耳朶を心地よく揺らした。  土曜の昼だというのに人はまばらで、遠くの方から子供の笑い声が聞こえてくる。時間の流れが、ゆっくりに感じられる。陽介が幼少期を過ごした海辺の街も、ちょうどこんな風にゆるりとした時間が流れていた。懐かしさに、少しだけ頬がゆるんだ。  積み上げられたテトラポッドを横目に、防波堤を歩く。磨き上げられた海の中に、光がある。太陽の粒が反射して、砕けたダイヤモンドみたいに見える。透き通っているわけではない海なのに、どうしようもなく美しく見えた。  波の音を聞きながら、目が覚めてからこれまでのことを考えた。  身に覚えのないバイクの事故、入院、半年間の記憶喪失。  そして、失った記憶の時間にぴったり当てはまるような休学期間。誰とも連絡を取らずに、スマホにも残されていない半年のこと。  覚えていない昔のこと。事件と、“カイ”のこと。  それから、いましがた聞いた“うみ”のこと。  フィルムカメラが遺した、“誰か”がまなざした陽介の姿。ファインダー越しに伝わってくる強い感情のこと。  陽介だけが世界から強引に切り抜かれて、身体の一部を奪われて、無理やりもとの世界に押し込まれたような、そんな感覚だった。  自分は今、なにを一番知りたがっているんだろう。苛立ちにも似た焦燥が、陽介の脳内をぐちゃぐちゃにして、巧妙に真実を隠しているようにすら感じられた。  そこから5分くらい歩いた頃だろうか。不意に視界が開けて、砂浜が見えた。防波堤の一部が階段になっていて、テトラポットがそこだけ砂場に降りられるように左右に避けて道を開けていた。  導かれるように、足を向ける。  そこに立っていたのは、ひとりの男だった。  グレーのパーカーとジーンズの裾を捲って、膝下まで海に浸かっている。ときおり波を蹴飛ばして、自分が作った飛沫を追いかけるようにまた波を蹴り上げた。  彼が脱ぎ捨てたであろう靴と靴下は、少し離れたところに二つ、石のように転がっていた。 「あの!」  考えるより先に、声が出ていた。  男の肩が揺れる。声の主を探すように、ゆっくりと振り返る。  薄い茶色の髪が、陽光に照らされて金色に見えた。驚くほどに白い肌と、通った鼻筋は、どことなく異国の血を感じさせる。陽介より少し年上だろうか。整った顔立ちは中性的で、少女のような少年のような、どこか儚げな印象を受けた。  一際目を引くのは、その青い瞳の色だった。それがより一層、彼を浮世離れしたもののように見せた。  青い双眸が、さまようようにあたりを見渡した。そして陽介の姿を視界にとらえて、微かに見開かれた、ように見えた。 「俺のことを、知っていますか」  言ってしまってから、あまりにぶしつけな言葉だったと気づく。男は感情の読めない顔で陽介をじっと見つめている。恥ずかしさに、顔に火が上がった。 「あ、すみません、急に話しかけたりして、俺、陽介って言います。太陽の陽に、魚介の介で、ようすけ」  男は黙ったまま陽介を見つめている。その青い瞳に、何が映っているのかわからない。陽介がふたたび口を開きかけた時、男は水からあがり、ゆっくりと近づいてくる。数メートル先で、足が止まる。 「陽介」  男の舌の上で、音が転がる。  それだけで、ふっ、と空気が和らいだように感じた。 「あの、うみさん、ですよね」 「そーだけど」 「やっぱり」 「ここはどうやって見つけたの? けっこー遠かったと思うけど」 「喫茶海猫っていうカフェのマスターに、教えてもらって」 「ああ、ケンゴさん……」  形のいい眉が、グッと寄る。聞いてはいけないことだったのだろうか? でも、聞くなら今しかない、と思った。   「実は俺、今、記憶喪失で、俺とあなたが一緒に住んでたって聞いて、詳しく教えてほしくて」   「記憶喪失って、全部?」  ぶっきらぼうにも思える口調で、返答があった。波の音が、一際大きく聞こえた。陽介の言葉を急かすようだった。 「えっと、半年くらいなんですけど、それ以外にも忘れてることがいろいろあるっていうか」  陽介の返答を聞いて、彼はぐしゃぐしゃと頭をかいたあと、今度はびっくりするぐらい愛想良く微笑んだ。 「ごめん、人違いじゃないかな。オレは君のことを知らない」  期待で膨らんだ風船が、じわじわと萎んでいく。萎んでなくなってしまう前に、なにか言葉を発さなければいけない、そんな焦りが、陽介の口を開かせた。 「あの、うみさん」  うみさん。その呼びかけに、その人は一瞬動きを止めた。 「オレ、うみじゃないよ。この街では、そう呼ばれてるだけ」  そう言い捨てると、彼はくるりと身を翻してまた脚を海に浸けた。陽介は、慌てて追いかける。  その足元で、白い泡が弾ける。白いつまさきが塩水に洗われて、砕けた水滴がすがりつくようにくるぶしを濡らしている。 「オレの名前はねー」  心臓が跳ねる。全身に血液がまわる。頭がくらくらして、裸足の裏に、じっとりと汗をかく。わからない、わからないのに。 ああ、知ってる。  まるで、波のかけらを切り取って、閉じ込めたみたいな。朝焼けに染まる飛沫の、一瞬のきらめきを取り出して瞳の形に押し込めたような。 「海って書いてカイ」  そんな青いひかりを、知っている気がした。 「(カイ)、さん」  たどたどしく口にしたことばに、海はゆっくりと振り返った。じっと真っ直ぐに、陽介を見つめる。次の言葉を待っているみたいだった。なにかを 、期待しているようにも見えた。日に焼けて赤くなった白いうなじに、少し汗をかいている。 「ん?」 「いや、俺を知っているかもしれない人が、同じ名前かもしれなくて」 「まあ、そんな珍しい名前じゃないもんなー」  きっと、思い込みたいだけだ。 この人が、自分の探している『誰か』であってほしい。この人があまりにきれいで、うつくしくて、目が離せないから。  そう思いたいのに、陽介の中で、ある意味失礼な仮説がゆっくりと膨らんでいく。それは次第に大きくなって、陽介のことを呑み込んだ。 「あの、海さんは俺のこと、知らないん、ですよね」  海はじっと陽介を見つめた後に、目を細めた。肯定にも否定にもとれる仕草をした後に、彼はゆっくりと、でもたしかに首を頷いた。 「すみません、同じこと、何回も聞いて」  それは逡巡のようにも見えた。少しの間、波の音が二人の間を彷徨う。  それ以上、彼はなにも話さなかった。話そうとしなかった、というのが正しいのかもしれない。  風が吹いて、少し砂が舞った。思わず目を細める。悪くなった視界の中で、白いTシャツの背中が、ぼやけて見えた。 「記憶、戻るといいね」  その瞬間、むくむくと膨らんだ仮説が、パチンと音を立てて弾けて、確信に変わった。この人は、嘘をついている。  この人は、きっと陽介のことを知っている。  知っていて、知らないふりをしている。知らないふりをしているくせに、本当の名前を教えてくれる。そんな歪な矛盾を抱えて、陽介に向かって柔らかく微笑んでいる。なんで、そんな風に笑うのか。その理由が知りたくなった。  だから、この人の嘘に、騙されたい、とそう思った。 「また、会ってくれますか?」  海がぎゅ、と目を細めた。それは頷いているようにも、首を振っているようにも見えた。 「オレね、スマホ持ってねーの」 「え?」 「だからもし陽介がオレを見つけられたら、また会えるかも」  なぜこの人が下手な嘘をつくのか、陽介にはわからなかった。陽介が、この人のことを忘れているから。写真を見せて強く問い詰めれば、もしかしたら本当のことを言ってくれるかもしれない。けれどそれは、今の陽介が望む答えにはきっとならない。 「きっと見つけます」  だから、嘘を嘘だとわかったまま、この人を知りたい。そう、強く思った。

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