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第8話 白い背中(1)

 かたたん、かたたん、かたたん。  窓の外を、景色が流れていく。最初は見慣れた都会の街並みだったが、次第に高層ビルが少なくなり、代わりに緑が増えた。やがて遠くの方に海が見え始める。それは遠すぎて、青というよりも、黒のように見えた。  海と出会って、次の土曜日。陽介はあの街に向かっていた。約束にも満たない小さな誓いを果たすために。  4月も半ばになって、すっかり差し込む光は柔らかい。ぼうっと外を眺め続けているうちに、だんだん思考がぼやけてきて、瞼が重くなる。まどろみと覚醒の間で、陽介はこの1週間のことを思い出していた。電車の足音と、大学の雑多な喧騒が耳の奥で混じり合う。 『で、結局見つかったの? その人』  蓮の声が、頭の中で響く。それは数日前の会話だった。 『んー、見つかったって言うか、ほんとにその人かはわかんないんだけど』 『なんだそれ』  実際のところ、陽介はどこまでを蓮に話すべきか迷っていた。蓮はあくまでただの友人だ。だが、他に適切な距離感で話せる相談相手がいないというのも事実としてある。半年間連絡を無視し続けたという負い目もあって、結局その言い訳代わりに近況報告をしている。 『でも、会いにいくんだ?』  陽介がぎこちなく頷くと、蓮はにやつきを隠そうともせずにひゅー、と口笛を吹いた。 『そんなんじゃないから』 『え、そうなの?』 『たぶん……』 『たぶん!?』  相手は男だったし、と言いかけて、やめた。 『でも、いい顔してるよ、お前。前よりずっとカッコいいわ』 『俺はずっとカッコいいだろ』  今度飯奢れよ、という蓮の軽口に、おう、と返して、陽介はキャンパスを後にした。  ガタン。  大きく車体が揺れて、それを契機に一気に現実に引き上げられる。弾かれたように起き上がると、電車内は変わらず一人きりだった。ほんのりと、額に汗をかいている。  停車駅を見る。陽介が降りる予定のあの街に繋がる駅だった。慌てて荷物をまとめて降りる。ホームに降りた途端に潮の香りが陽介を包んだ。街に歓迎されたような気持ちになって、陽介の気分は高揚した。  街は相変わらずだった。今日は天気がいいからか、街全体がひかりに照らされて輝いているように見えた。  陽介の足は、自然とあの場所へ向かっていた。テトラポットの重なりを横目に、防波堤を歩く。一歩進むたびに、鼓動が高鳴る。会いに来た、また。あの海に、海に。  そしてその場所に、その人は、いた。  いた、というより——見つけた、と言うべきか  少し離れた海の中に人影があって、それが規則正しく動いている。波の間からときおり白い腕が伸びて、空を掻いた。飛沫の隙間から色素の薄い頭が見え隠れしている。息継ぎのタイミングだろうか。  浮き上がる白い肩甲骨が、水面の間で揺蕩う蝶の羽のように見えた。  陽介は防波堤の階段を降りて、砂浜に足を踏み入れた。裸足になって、波打ち際まで歩く。冷たい水が足元を洗って、砂がさらさらと流れていく。泳ぐにはまだ冷たすぎる水温だと感じた。  どれくらいの間、そうしていたんだろう。じっと見つめる陽介の視線に気づかずに、海は泳ぎ続けていた。それはなにかから逃げているようにも、なにも考えずに波に身を任せているようにも見えた。  青い海と青い空の間を泳ぐ、白い背中。  そこだけ時間が止まったみたいに静かだった。  きっと自分に絵画の才能があったなら、この瞬間を絵にしただろうな、とぼんやり思った。  ふと、くるりとターンをして海がこちらを振り返る。濡れた前髪の間から、目が合った。一瞬彼はそこで動きを止めて、こちらへ向かって泳いできた。 「いつから来てたの?」  海岸に上がった海は、ごく気安い様子で陽介に語りかけた。  水滴が肌の上を滑り落ちる。濡れた髪が額に張り付いて、首筋を伝って雫が落ちる。細いが、引き締まった身体。筋肉があるというよりは、痩せている、に近かったが、病的なものではない。白い肌に、水滴が光っている。なんだか見てはいけないものを見た気がして、陽介は思わず視線を逸らした。 「陽介?」  反応のない陽介に、海が不思議そうに首を傾げる。陽介は自分の頬が熱くなっているのに気づいて、相手に、気づかれていないだろうか。 「さっき、来たところで。邪魔したなら、すみません」 「もう上がろうと思ってたから、いーよ」  泳いだ直後だからだろうか。憑き物が落ちたような感じで、先週会った時よりも空気が柔らかい。 「待ってて、着替えてくるから」  待ってて。  その言葉で、拒絶されていないことを感じ取って、思わずほっとした。  海は近くに無造作に置いていた服とビニール袋を掴むと、少し遠くの方へ向けて歩き出した。陽介は黙ってその背中を見送る。  背中にも、水滴が光っていた。  白い肌、細い肩、肩甲骨の——そこで陽介の視線が、止まる。  そこに広がっていたのは、肩甲骨から肩、背中の大部分にかけて植え付けられた、凄惨な瘢痕だった。白い肌に似つかわしくない、ピンク色のケロイドの痕。古い傷跡のようだ。羽をもいだ痕のようにも見えた。  陽介の左腕にも、同じような痕がある。  なぜだろう。海の背中の痕を見た瞬間、何かが引っかかる。 「っ」  頭の奥が、ずきりと痛む。偏頭痛を最大まで強くして、頭の奥に集約させたような、刺すような痛み。海は、そのことに気づかない。背中が、どんどん遠くなっていく。  花火の音。なにかが燃えるにおい。誰かの悲鳴。自分を守るように覆い被さる誰か。そして、遠くなっていく背中。いつかも夢で見た記憶の断片が、降り注いでくる。 『待って、いかないで』  子供の声が、頭の中で割れるように響いた。

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