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第9話 白い背中(2)
「陽介?」
海の声で、はっと我に帰る。気づけば、服を着替えた海がそこにいた。襟元の伸びた白いTシャツに、くたびれたジーンズ姿。濡れた髪はタオルで拭いてもいないのか、毛先から雫が滴っている。
「大丈夫? 顔色悪い」
青い両目が心配そうな色を宿して、ぐっと陽介のことを覗き込んだ。白い頬が、日に焼けて少し赤い。
「あ、いや」
動揺を隠すように首を振る。
「少し目眩がして」
「水飲む? オレのだけど」
差し出されたペットボトルを受け取って、一口含む。買ったばかりなのか、よく冷やされたそれは陽介の頭を次第にクリアにしていった。冷たい感覚が喉を滑り落ちて、腹の底に落ちる。時間をかけて水分を摂った陽介の姿を、海はじっと見つめていた。陽介自身の髪が影になって、相手の表情は見えない。
「ありがとう、ございます」
「ん」
陽介が礼を言うと、海はニッと笑い、砂がつくのも構わずに陽介のすぐ隣の砂浜へ腰掛けた。
少しの間、波の音が二人の間を満たした。なにかを話さなければいけない、という思いと、なにも話さずにこのままいつまでもこうしていたい、という思いがないまぜになる。それは知りたいという渇望と、知らないままでいたい、と思う畏怖に似ていた。
「あの、海さん」
「うん」
「……海さん、は」
自分から話し始めたくせに、特になにも考えていなくて、当たり障りのないことを口にする。
「泳ぐのが好きですか?」
陽介が聞くと、海は少し考えるように空を見上げた。
「んーすきっていうか、余計なこと考えなくていーし」
「いつもここで泳いでるんですか?」
「そ。ここオレの秘密基地」
いーだろ、と笑う海の声色には、眠気が混じっていた。
ふと隣を見ると、海は砂浜に寝転んでいた。目を閉じて、全身で海風を感じているように見える。気づけば、陽介もそれに倣って寝転んでいた。
「誰もいなくて、きもちーから」
さらさらの砂を掴み上げては、指の間からそれを零れさせる手遊びをして、海は心地良さそうに鼻歌を歌った。知らない歌だった。
それから、少しだけ他愛のない話をした。この街のこと、天気のこと、喫茶店での仕事のこと、空を飛ぶカモメのこと。
先週の態度から、拒絶されていると思っていたが、海は陽介の問いかけには、少ないながらも海の言葉で返してくれた。
「見てこれ、ここの砂、たまに星みたいなのある」
過去の話はしなかった。未来の話もしなかった。ただ今のこの瞬間の話だけをした。陽介が、いまの海のことを、いまここで、陽介の隣で砂の上に寝っ転がって笑っている彼のことを知りたいと思ったから。
「ほんとだ」
「でこっちは、ちっちゃいカニ」
「カニ、ですかね?」
「こっちはエビ」
実際のところ、その砂が星の形をしていようが、カニにもエビにも見えなかろうが、陽介にはどうでも良かった。彼が嘘をついていようが、本当は陽介の過去に全て関わっていようが、瑣末なことだと思った。
出来るだけ長く、今の時間を一緒に過ごしたい。それだけが、とりとめのない話のとりとめのなさを形作っていた。
「オレ、そろそろバイト行くね」
「あ、はい」
たったそれだけの穏やかな時間が、どれくらい続いたんだろう。ほんの数分にも、ずいぶん長い時間にも感じられた。
どちらからともなく手を振った。さよなら、も、また、も言わなかった。言ってしまうと、約束になってしまうような気がした。約束になったら、もう海を見つけられないような気がした。
喫茶海猫へ向かう海の背中を見送る。白かったはずのTシャツの背中は、砂と潮水に汚れて茶色くなっていた。
海の背中が豆粒のように見えなくなってから——時計を見る。陽介がこの街に到着してから、1時間とちょっとしか経っていなかった。
頭の中が彼のことでいっぱいで、会いたいと願い続けた陽介の1週間と比べると、あまりに短い時間だ、と苦笑する。
「海」
誰も聞いていないから、その名前を口に出してみる。まだ舌には馴染まなくて、小っ恥ずかしさが付きまとう響きだった。
海。カイ。うみ。
いろんな名前と、いろんな一面があるこの人をもっとよく知りたい。綺麗なひかりの中にある底の見えなさを、掴もうとすると指の間からこぼれてしまいそうなあやうさを、もっと知りたいと思った。そう陽介に思わせるには、今日は十分過ぎるほどの刹那だった。
ふう、とため息をついて、陽介はもう一度腰を落とした。まだ、確かめていないことがある。
ショルダーバッグから取り出した、一枚の写真。失くしてしまうのも汚してしまうのも嫌で、今日は、この一枚だけを持ってきていた。
ジップロックに包んだそれの、裏面をなぞる。この1週間、なんども眺めて脳に刻んだはずなのに、いまはその輪郭があやふやになっている。
いま、これを裏返せば、陽介がいるこの場所とあのフィルムの写真の場所が一致しているのか、確かめることができる。そうすれば、海が本当に嘘をついているのかどうかがわかる。
少しの逡巡があって——陽介は、それを元通りの場所にしまった。いまはまだ、その時ではないような気がしたからだ。今日はただ、今日という日の海というひとを知れたことを、大切にしたいと思った。
自分の失われた過去が知りたいのか、海という人間そのものを知りたいのか。
陽介の中でなにかが、変わり始めていた。
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