10 / 26

第10話 きみを知るために(1)

 それから陽介は、毎週土曜日に海の街を訪れるようになった。一時間半、電車に揺られる。改札を抜けると潮の匂いがして、それだけで少し息が楽になる。友人たちとの日々や、大学での勉強も嫌いではなかったが、この街に来ると陽介はやっと自分を取り戻したような感じがした。 **  3回目の土曜日。4月も下旬に差し掛かり、日差しにも強いひかりが混じり始める。あの海岸へ行くと、前回来た時と同様に、海はそこにいた。やっぱり、いた、というよりも見つけた、が正しいかもしれない。  腰を下ろして、海の規則的なクロールを眺める。 「また来たんだ」  潮水に濡れた髪を絞りながら、海が言う。また来た。それだけ陽介が呟くと、海はふっと笑った。それから、隣に座って話をした。先週よりも、少しだけ長く話をした。空の色とか、風の匂いとか、近くの定食屋の食べ物の話とか、そんなことをとりとめもなく話した。とてつもなくくだらないことを言って、腹を抱えて笑った。  そのあとは、二人とも腹が減ったので、定食屋に行った。海はカツカレーを、陽介はしょうが焼き定食を頼んだ。  あとから思い出しても、何の話をしたのか、よく覚えていない。あの定食屋が美味しかったのかも覚えていない。海が、自分の顔ほどもあるカツに苦戦しているのを横から笑いながら眺めていた景色と、大学生の腹でも余るほどにその定食屋のボリュームがすごかったことを記憶している。  帰りの電車の中で、海の笑い声が耳触りの良い波の音みたいに耳の奥に響いていたことだけ、覚えている。 **  4回目の土曜日。その日は、世間はGWに差し掛かっていた。  いつものように海岸へ向かったが、そこで泳ぐ海の姿は見つけられなかった。今日は、見つけられないのかも知れない。ざわつく心を抑えつけて、一人で砂浜を歩いた。  それから、自然と陽介の足は喫茶店海猫へ向かった。扉を開けると、店の中は珍しく混んでいた。観光客らしい家族連れが二組、奥の席には、若い女性の二人組と、カップルが一組。それだけでささやかな喫茶店の中はいっぱいになっていた。 「いらっしゃいま……」  海が注文を取り終わってカウンターの中に戻る途中で、陽介と目が合った。あっ、と少しだけ目が見開かれて、彼はそのまま呼ばれて注文を取りに行った。  カウンターの奥で料理をしているケンゴに一言声をかけて、陽介は未だ手をつけられていないカップの山に向き合った。注文を取り終わった海はなにかを言いたそうにしていたが、その視線は店内のにぎわう声にそのまま流れてしまった。  手際よく洗い物をさばきながら、横目で海のことを盗み見る。賑やかな店内といえど慌ただしさはなく、時間はゆっくりと流れていた。この店の雰囲気がそうさせるのかも知れない。  海の手が、ミルを回す。カリカリと、豆が削れる音。店内に漂う芳醇なコーヒーの香り。フィルターを折る、海の指先には迷いがなく、お湯をゆっくりと細く注ぐ動作も洗練されていて無駄がなかった。  陽介がまだ見たことのない海がそこにいた。泳いでいるときの海の絵画のような輝きも、ぼうっと遠くを眺めているときの消えそうなあやうさも、ない。  ただ、一人の人間としてそこにいる。静かに、佇むように、喫茶店という世界の景色に溶け込むように。それでいて、生の実感を伴ってなまなましく。勝手に海という存在を神格化していた自分に気づいて、恥ずかしくなる。  陽介の視線に気づいて、海が小さく微笑んだ。陽介にしか気づけないほど小さな笑みだった。海の生きる世界の片隅に陽介が存在することを、許されたような気がした。  夕日が差し込む時間になると、店内はだいぶ落ち着いた。陽介もすることがなくなって、カウンターにぼーっと座っている。 「はい」  かちゃん、と小さな音を立ててコーヒーが置かれる。海が陽介を労うために淹れたコーヒーらしい。 「ありがとう、ございます」  一口含む。前にケンゴに淹れてもらったものよりも味わいが軽くて、どことなくフルーティーな感じがした。陽介の礼に海は照れくさそうな表情を浮かべて、ゴミ出してくるから、と両手に袋を抱えて店を後にした。 「助かったよ、陽介くん。ありがとうね」  店の片付けが一段落したらしいケンゴが、カウンター越しに笑いかけてくる。 「いや俺は、本当に何もしてないんで」 「うみとは、どう?」 「うみ……ああ」  海のことだ、と気づくのに少し時間がかかった。 「最近、毎週来てくれてるんでしょ?」  そう把握されているのがなんとなく照れくさくて、曖昧に返事をしながら、コーヒーで誤魔化す。二口目は少し苦かった。 「なにか思い出した?」 「特には、思い出せてないです」 「そっか」  この人は、陽介と海のことをどれくらい知っているんだろう。聞いてしまえば簡単なのに、聞いてしまうのが、怖い。聞けば全て終わってしまう気がして。  陽介の逡巡を察してか、ケンゴがおもむろに口を開いた。 「うみは僕が拾ったんだ」 「え?」 「初めて会った時は、酷かった。常識もお金の稼ぎ方も知らなくて。コーヒー淹れるのも下手くそだし」 「それは、どのくらい前のことですか?」 「……もう、3年と半年ぐらい前になるかな」  自分の3年前を思い出す。ちょうど奨学金をもらって大学に進学することを決めた頃だ。自分の人生を変えたくて、必死だった。海は、どうだったんだろう。どんな風に、生きていたんだろう。知りたい、という思いが、ちりちりと火のように心に灯る。 「過去を全部捨てたいって言うから、じゃあ名前を変えてここでやり直しなよって言った。ここはいい街だから。……陽介くんは、あの子を(カイ)って呼ぶよね」 「海さんが、そういう風に名乗ったので」  ケンゴが、すっと目を細める。光が眩しいみたいな、幼い子供が愛おしいみたいな、そんな表情だった。 「陽介くんは、あの子が捨てたくなかった過去の一つなんじゃないかな」  その話をしてくれたのは初めてですか、とは、聞けなかった。  その日の帰りの電車で、袖口に染み込んだコーヒーの匂いが、やたらと強く感じられた。  

ともだちにシェアしよう!