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第11話 きみを知るために(2)

 5回目の土曜日。ゴールデンウィークが終わり5月も中旬を迎えると、気温が25度を越える日も増えてきた。昼過ぎにいつもの海沿いに着く。やっと海水浴に最適な気温になったのに、その日の海は泳いでいなかった。視線は波よりもさらに向こう、水平線の彼方に向けられている。強く吹いた風が海の髪を舞い上げた。色素の薄い髪がカーテンみたいになって、海の顔を覆ってしまう。 「今日は泳がないんですか?」 「うん」  隣に腰を落としても、海は何も言わなかった。 「この間はありがと。ケンゴさんも助かったって」 「俺も、楽しかったんで」  それ以上会話はなかった。  海はじっとなにかを、考えているみたいだった。しばらくの間、そうやって二人でいた。その日は天気が良くて、空は海よりも青く、波は砂よりも白かった。  陽介も海のことについて考えた。  知りたいことはたくさんある。聞きたいこともたくさんある。それらの言葉を全て飲み込んで、ただ、じっと目の前の人のことを考える。贅沢な時間だと思った。  海も、陽介のことについて考えていてくれればいいのに。  そうやってじっとなにかを考えるのに飽きると、二人で並んで街を歩いた。海は目的があるようなないような足取りで、小さな路地に入り込んでいく。路地の先は行き止まりに繋がっていたり、また別の海岸沿いに出たりした。  歩き疲れると自販機で炭酸飲料を買って、公園のベンチに座った。少し話をした。陽介は大学の話をして、海は喫茶店の話をした。 「陽介」  ふと、海が陽介の名前を呼んだ。不意にこぼれてしまった、と形容するに相応しいような言い方だった。 「ん?」 「よーすけ、いい名前。春みたい」  また、海の舌の上で名前が転がる。初めて会った時も、似たようなことを言っていたな、と少し懐かしい気がした。 「そう、っすか」 「うん」  炭酸の泡がはじける。陽介の名前と一緒に。  実を言うと、陽介はそんなに自分の名前が好きじゃない。けれど、海が誉めてくれるなら、いいものな気がしてくるから、不思議だ。ほんの少し、頬が熱くなる。 「海も、いい名前だと思います。きれい」 「きれいじゃないよ」 「そんなことは……」 「オレのは、|海《うみ》に落ちてたってだけの|海《カイ》だから」  なにを返せばいいのか、咄嗟に言葉が出てこなかった。  海は、よく笑う。よく冗談も言う。見た目のきれいさに反して少年っぽいところがある。人懐っこくて、誰とでもすぐに打ち解ける。初めて会った時のはかなげな印象よりも、いまの印象の方がずっといい、と思った。けれどその中に、どうしても他人に踏み込ませない一線がある。だからこそ、気になった。知りたいと思った。  このときの陽介は、海という人間のほんの上澄みの部分だけを見て、彼を知った気になっていた。本当の彼の底の深さを、何も知らなかった。だから、ほんの少し、浮かれていたんだと思う。  帰り道、不意に、指先が微かに触れ合った。ためらうように離れたあと、どちらの指が、先に絡まったのかわからない。風が吹けば簡単にほどけてしまうようなつながりのまま、一メートルだけ歩いた。たったそれだけの距離なら、相手に気づかれないとでも言うように。  触れただけの指先が、まだ、熱を持っている。 **  次の週の火曜日、二限の講義。  講義室の前方スクリーンに映し出された文字に、ノートを開きかけた手が止まる。ごくりと飲み込んだ唾の音が、部屋中に響いたのではないかと思えるくらい、陽介の脳内に大きく鳴った。 『被虐待体験が児童の心理発達に及ぼす影響』  教授の声が遠くなった。言葉は聞こえているのに、意味として入ってこない。配られたレジュメの内容が頭に入ってこない。  心理学の一般教養の講義で、他の学生はみな暇そうにしている。同じ学部の学生は少なくて、知らない顔ばかりだった。誰も、陽介に注目している人間なんていない。  だから、大丈夫。そう思うのに、部屋中の全ての視線が自分に向いているような気がして、吐き気がした。誰に見られているわけでもないのに、長袖の袖口を、隠すように指先でそっと引っ張った。  そうやってなんとか90分間を耐えて外へ出ると、強い日差しが陽介を刺した。二限の後は昼休みに入る。気の早い夏の気配に浮き足立った学生たちの、たわいのない言葉の束が、容赦なく陽介のことを置き去りにしていく。  同じ学生の皮を被って必死に同じフリをしても、そっち側には行けないんだと、世界から拒絶されているように感じる。そんなはずはないのに、全ての雑踏が陽介を避けて、過ぎ去っていくように感じた。  大きく深呼吸をする。座り込みたくなる気持ちをぐっと堪えて、立ったままで呼吸を整えた。 「お、陽介じゃん」  過ぎ去っていく生徒の中から、誰かが手を振って来る。目を凝らしてみると、それは蓮だった。昨日も同じ授業を受けたのに、ひどく久しぶりなような気がした。 「飯まだ? 席無くなるぞ」  蓮の声に引っ張られるように、陽介は歩き出した。  学食に着く頃には、陽介はだいぶ平静を取り戻していた。サバ焼き定食を載せたトレーを持って、あらかじめ取っておいた窓際の席へ座る。  トレーを持ったまま席が見つからずに困惑している一年生を横目に見ながら、そういえば去年の陽介たちもあんな感じだった、とすこし懐かしくなった。 「で、最近どうなの?」 「どうって?」 「毎週通ってんだろ? もうチューぐらいした?」 「ぶっ」 「うわ、きたね」  定食の味噌汁を口に含んだところで予想外の言葉が降ってきて、思わず噴き出す。すかさず差し出されたティッシュで口を拭く。 「いやまじで、そういうんじゃないから」 「でも何回目よ」 「……来週で、6回目?」  蓮は大袈裟にやれやれと両手を挙げたと思うと、名探偵よろしくびし、と陽介の眼前に箸を突きつけた。 「もーね、それは恋よ。俺にはわかるね」 「違うって」 「違わないね」 「いろいろ、複雑なんだよ」  「なんだ、マジで違うの? 俺はてっきり恋の悩みで元気ないのかと思ってた」  先ほどの授業終わりのことを言われている、とすぐにわかった。こういうとき、蓮はいつも、こともなげに陽介の内側に入り込んでくる。  ぎゅ、と箸を握る。気づけば口から言葉が溢れていた。 「相手、男だし」  陽介としては、わりと重い告白のつもりだったのだが、蓮は特に驚いた様子もなく、ふうん、と言って唐揚げを口に放り込んだ。 「でも、好きなんだろ」 「……恋とかなんとかって、俺にはよくわからない。だから多分これはそういうんじゃないと、思うけど」 「もっと知りたいなー、とか、触りたいなーとか、チューしたいなー、とか、そんぐらいお前だって思うだろ? 男だろうと女だろうと関係なく」  脳裏に浮かんだのは、あの日、海の指に触れた日の、指先に残ったあわい熱の感触だった。じん、と胸の奥が熱くなる。 「わかんなくて」  ただ、陽介は、今胸の中に生まれ始めているこの感情と、うまく折り合いがつけられていなかった。  この、海に対する感情が。今の自分が今の海に向けているものなのか、過去の自分が過去の海に向けているものなのか、時々わからなくなる。 「あの人に対して気持ちが動いてるのが、今の自分なのか、過去の自分なのか、自信がなくなる」  自分の胸と頭の両方に声をかけても、なにも答えが返ってこなかった。 「思い出しても同じ気持ちのままでいられるのか、自信がない」  唐揚げに伸びかけた箸を止めて、蓮がじっと陽介の表情を窺った。騒がしい学食の席のなかで、蓮と陽介の座っているところだけ、時間がゆっくりに感じられた。  やっぱり忘れて、そう茶化そうとしたとき、蓮が口を開いた。 「過去も今も、どっちもお前だろ」 「いや、それはそうだけど」 「難しく考えすぎ。もっと自分のこと、信じてもいいと思うけど」  蓮はなにも知らないからそんなことを言える、なんて言い返すことはできなかった。陽介が頭の中で肯定して欲しかった部分を、真っ直ぐに指摘されたような気がしたから。 「はいこれやる。魚ばっか食ってるからグズグズ悩むんだよ」  特大の唐揚げを押し付けられながら、陽介は自然と勇気づけられている自分に気づいた。記憶喪失に遭った後も変わらず接してくれる友人がいること、ありがたいと思った。 「ありがと」  そして頭に浮かんだのは、二人の友人の顔。入院中に会ったあの日以降、結局会えていない。もし、海との関係をこのまま進めるなら、一度ちゃんと会って話すべきだと思った。  蓮と別れた後、少し迷って、メッセージアプリの個人チャットを開く。湊斗に、今日この後会えないかと打つと、少し既読の時間が続いた後、『明日なら』と返信があった。  

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