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第12話 忘れていること(1)※

 夜の中で、なにかが光っている。  よく目を凝らしてみると、それは男の白いうなじだった。短い襟足が、汗でしっとりと濡れて、そこに張り付いている。それをかき分けるように鼻先を寄せると、甘やかな声が脳の奥に響いた。 『ようすけ』  甘えるような、ねだるような、いまにも泣き出しそうな。そんな官能的な声色だった。  次第に、輪郭がはっきりしてくる。白いうなじは白い背骨に繋がっていて、そこから丸い肩に、背中に、広がっていく。ひどく身体が熱い。触れた肌は汗ばんでいて、触れたところから溶け合ってしまいそうな、そんな熱を孕んでいた。 『っ、ん』  背中に広がる火傷の痕に口付ける。その男は、そこですら感じ入るみたいに身体をひくりとくねらせた。男の指が、なにかを耐えるみたいにシーツに皺を作る。男の両目に滲んだ涙が、雫になってぽろぽろと落ちる。それがまるでスローモーションみたいに見えた。 『あっ、ようすけ、よ、すけ』  その世界には音がなかった。無声映画を遠くから見ているような、ひどく客観的な感覚だった。  ただ、男の薄い唇から紡がれるあえやかな嬌声だけが、耳朶の奥を揺らしている。男が声を上げるたびに、たまらなくなる。もっと暴いて、揺さぶって、めちゃくちゃにしたい。そんな加虐心がふつふつと胸に灯る。ーーそこで、男に覆い被さっているのが自分の身体であると気づいた。 『あ、あ、それすき……っ、すき、もっと』  ぽろ、とまた、雫が落ちた。  四つん這いになった男が、首を傾げてこちらを見る。青い双眸が欲の色に濡れて、その視界の中に、自分がいる。  男の赤い口内が、誘うようにひらかれる。長い舌がそこだけ別のいきものみたいに伸ばされる。  そこに、甘い蜜に誘われるように、唇を寄せた。舌と舌が絡む、その瞬間  ーー目が、覚めた。 「ッ……」  全力疾走した後のように肩で息をしながら、濁った思考が覚醒するのを待った。全身に汗をかいているせいで、身体がつめたい。なのに、身体の内側は熱がこもっているみたいに暑かった。 「ゆめ……?」  まどろみと現実の間にいながら、先ほどまでの光景を考える。白いうなじ、汗ばんだ肌、そして。  あれは、紛れもなく海だった。  自覚した途端、たとえようもない羞恥心と罪悪感が込み上げる。自分の中にこんなわかりやすい欲があったなんて、信じられない。信じたくない。 「最っ、悪」  きっと昼間、恋だの好きだの話をしたせいだ。もう一度寝直そう、どんどん覚醒してくる頭を無理やり寝かしつけようと枕に顔を押し付けたところで、下半身の違和感に気づいて一気に全身から血の気が引いた。スウェットごと下着をずらして中を確認する。想像する限り最悪の事態が起きている。  陽介も年頃の男子なわけで、それなりに性欲もある。一人で処理する事もある。それが最近事故のあれこれやや、授業、土日も街へ行って帰って余った時間で勉強をしていたら、そんなことをしている時間がなかったのも、事実だ。だから、しょうがない、なんて。  誰に言い訳するでもなく頭の中で考えて、いっそ服を脱ぎ捨てた。  手早くシャワーを浴びて、新しい下着を身につける。洗面台の鏡に映った自分は、ひどく疲れた顔をしていた。  海に対する申し訳なさのような感情が広がる。あの人を、そんな目で見たくなかった、というのに近い。そんな目で、見るべきじゃなかった。あの美しいひとをけがしてしまった、という罪悪感が、腹の底に溜まる。  と、同時に、こういうことを考えたり感じたりする自分がひどく場違いなように感じる。自分がそんな欲望を他人に向けることが、ゆるされていないような。  ぱしん、と両頬を叩いた。  もう今日は寝よう。一旦忘れてしまおう。  今日は湊斗に会いに行く、そして、大切なことを、聞く。そのことだけ、考えているべきだ。 **  結局あまり眠れないまま、朝が来た。こういう日に限って一限からびっちりと授業が入っている。真面目に授業を受けて、蓮や同じ学部の学生たちと軽口を言っていても、陽介の心は今日ばかりは少し遠いところにあった。  湊斗の働く花屋は、駅からすぐ近くのところにあった。閉店間際に訪ねると、湊斗は店の奥で花の水替えをしていた。陽介の顔を見て、少し照れくさそうにはにかんだ。閉店作業に少し時間がかかるから、あとで落ち合うことを約束して、その場を離れた。  見慣れないエプロンをつけた湊斗の姿が、やたら大人びて見えた。 「陽ちゃん、いつの間にブラックで飲めるようになったの?」 「へ?」 「前はミルクと砂糖、ないとダメだったでしょう?」  陽介の前に置き直したコーヒーは二杯目だ。湊斗を待つ間に、近くのコーヒーチェーンに入ったから、そのままそこで合流することにしたのだ。 「そうだっけ?」 「そうだよ」  湊斗の注文したキャラメルラテがテーブルに置かれる。それらを挟んで、少しだけ世間話をした。話が途切れたタイミングで、湊斗は陽介に向き直った。 「今日は、なにか聞きたいことがあるんでしょ?」  話の大方の予想はついているのか、目には真剣な光が宿っている。本当は陽介から切り出すべきなのに、気を使わせてしまった。と、少しの居心地の悪さを感じる。 「海ちゃんのこと?」 「まあ、そう、だけど」 「……そんなところだと思ったよ、渚沙もいないし」 「渚沙は、その話をしたくない?」  前回病室で会った時の渚沙の様子を思い出す。それがあったから、あえて湊斗にだけ声をかけた。 「したくないっていうか、やっぱり、まだ、怒ってるんだと思う」 「怒ってる?」 「怒ってるとも、ちょっと違うのかな」  そこで少し言葉を切って、湊斗はテーブルの上でぎゅっと手を組んだ。 「教えてほしい、湊斗の知ってること、なんでもいいから」 「施設が無くなって、僕らは親戚に引き取られることになって、去年家を出るまで、なんていうか……あんまりいい感じではなかったから。だから、渚沙はいまだに海ちゃんのことをゆるせてなくて」  陽介が言葉にする前に、湊斗が遠慮がちに指を組み替えた。からん、とコップの中で氷が鳴る。 「陽ちゃんは、どこまで覚えてるの?」  そして、探るような視線が陽介の方に向けられる。不安と、少しの好奇心と、それから、責めるような色が混じっている。 「記憶喪失とか関係なく、あんまり、昔のことは覚えてないんだけど」  喉が渇く。ぬるくなったコーヒーを啜る。苦い。思い出したくない、に近いのかもしれない。 「4歳の時、施設に来た」 「うん」 「たぶん同じぐらいの時期に渚沙と湊斗が入ってきて、たしか二人は、両親が事故で亡くなったって」 「……うん」 「それで……それから、しばらく一緒に暮らしたけど、小学生ぐらいのときかな、施設がなくなって……」  ずきん、と頭の奥が痛み始める。でも、ここで止めるわけにはいかない。奥歯を噛んで痛みをやり過ごしながら、湊斗を窺い見る。先ほどとほとんど変わらない様子でそこにいて、握りしめた指先だけが白くなっていた。 「そのあたりのことが、うまく思い出せない」  湊斗が、小さくため息をついた。 「そう、だよね」  少ないことばの端から、落胆が伝わってくる。もしかして自分は、ものすごくひどいことをしているんじゃないか、という気にさせられる。   「どこから、話せばいいのかな」  湊斗が小さく笑う。それは、少しだけ寂しそうな笑みだった。 「僕らが9歳の時、施設で火事があった」 「火事?」 「そう、あの、花火の日」  頭の中に、花火のイメージが広がる。  入院中に見た、あの夢と同じだ。子供の笑い声と泣き声と、それから、襲いかかる火の粉。  ああ、あの夢もそういえば、湊斗の口から、事件の話が出た後だったっけ。 「あの街では、毎年冬に花火大会があった。いつもは見に行けないけど、その年は人手が足りたから、みんなで見に行ったんだ。すごく、楽しかった」  ふわりと、本当に懐かしそうに湊斗が微笑む。 「陽ちゃんだけ、先に帰った。気分が悪くなったって」 「俺が?」 「そう。陽ちゃん、火が苦手でしょ」  火。炎。目の前に広がる、赤い色。  自分の心臓の音と呼応するみたいに、頭の奥がドクドクと音を立てる。目の前がかすむ。 「それで、火事が起きた。古い建物だから全部燃えて、それで僕たちは離れ離れになった。陽ちゃんは、巻き込まれて怪我を、して」 「……火事の、原因は?」  ごくり、と湊斗が息を呑む。この先のことを話すのを、ためらっているみたいに見えた。陽介の頭痛は激しさを増して、目の前が白と黒に点滅する。 「言って、湊斗」  陽介が促すと、湊斗はのろのろと口を開いた。カフェ店内のざわめきが遠くなる。自分の呼吸の音と、心臓の音と、それだけが耳の奥にこだまする。   湊斗がもうほとんど氷が溶けて水みたいになったラテを啜る音が、やたら長い時間聞こえていたような気がする。 「海ちゃんが、火をつけたんだ」

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