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第13話 忘れていること(2)

『海ちゃんが、火をつけたんだ』  その言葉が、耳の奥で反響する。  頭が痛い。今までのそれとは比べようもない激しい痛みに、吐き気すら込み上げる。 「ッ……」  頭蓋骨に無理やり穴を開けられているみたいな痛みだ。ぎゅっと手を握り込んでも、手汗でぬるぬるとすべる。  横隔膜が激しく脈動しているのがわかる。呼吸を落ち着けようと深く息を吸って、吐く。それを繰り返しても、全く楽にならないどころか、どんどん息苦しくなっていく。ちょうど、水の中で溺れている感覚に近い、と他人事みたいに思った。 「陽ちゃん、陽ちゃん……!」  湊斗の声が遠くに聞こえる。  がたん、となにかが落ちる音がして、左の頬が冷たくなる。それで、自分が床に崩れ落ちたのがわかった。  記憶の波が、襲ってくる。  形も大きさもまちまちな断片が、いくつもいくつも陽介の脳内で点滅して、ちょうど決壊したダムみたいに、押し寄せてくる。  自分も知らない自分の感情が降り注いで、陽介のなかの空っぽな部分に、詰まっていく。そこではじめて、記憶は感情の積み重ねで出来ているんだ、と気づいた。  あたたかい。つめたい。くるしい。いたい。たのしい。さみしい。かなしい。いとしい。  指先で触れると、断片は陽介に忘れていた記憶を、匂いも、音も、感覚も、感情も乗せて、映像よりもずっとリアルに映し出した。 『アンタなんか、産まなきゃよかった……!』  痛い。 『ほらあいつ、あの燃えた施設の……』  悔しい。 『湊斗、泣かないで』 『陽ちゃん、さみしいよ』  悲しい、寂しい。 『陽介、ごめん』  苦しい。  記憶の渦が、陽介を包む。そして、次第に鮮明になって戻って来たのは、「あのころ」の記憶だった。 **  古い木造の床が、軋む音がした。暗くて埃っぽい家の匂いの中に、微かな潮の匂いが紛れている。遠くの方で、子供の笑い声とも泣き声ともつかない声が、響いている。小さな陽介は、その廊下の隅で、膝を抱えていた。ぽろぽろと溢れた涙が、頬をぐっしょりと濡らしている。 『おかあさん』  泣いて、泣き疲れて声も枯れて、それでもまだ泣いていた。知らない場所に連れてこられた不安と、母親と引き剥がされた寂しさと、それ以外のいろんな感情をうまく処理できずに、ただそうしていることしかできない。  ふいに、足音がした。  顔を上げると、知らない子供がいた。陽介より、少し大きい。髪の色が薄くて、瞳が青い。こんなにきれいな色を、見たことがなかった。 『……だれ?』 『そういうおまえは、だれ?』 『ようすけ』 『ふーん』  少年は陽介をまじまじと覗き込むと、にっと笑った。 『オレ、カイ』 『カイ?』 『そ。うみって書いて、カイ!』  海という字は知らなかったが、海というものは知っていた。大きくて、広くて、きれいで、少しこわいもの。 『オレの方が年上だから、海兄ちゃんって呼んでいいよ!』 『海、兄ちゃん』  そう言って海は、陽介の頭を、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。突然やって来た、夏みたいだ、とそう思った。 **  夜だった。寝静まった他の子供達を起こさないように二段ベッドを抜け出した陽介は、こっそりと靴を履いて外へ出た。家を出るとすぐそこに、浜辺があった。夜のひんやりした空気が、頬を撫でる。 『寝れないの?』  浜辺に、パジャマ姿の海がいた。陽介が声をかけると、弾かれたようにこちらを向いた。靴は履いていない。裸足の足をぶらぶらさせて、陽介を見た。  暗闇の中で、海の両目が青く光った。そういう星があることを、図書室の図鑑で見かけた気がするが、忘れてしまった。 『陽介も』 『うん』  そう言って海は、陽介が隣に座ることを許してくれた。空は暗くて、星は見えなかった。波の音だけが夜の中で静かに響いていた。 『……学校のしゅくだいで』 『うん』 『名前のゆらいについて、聞きましょうって、おれ、わからないから』 『うん』 『くやしくて』  本当は悔しかったのか、寂しかったのか、恋しかったのか、わからない。陽介を施設に預けていなくなってしまった母親に向ける、複雑な感情を表現する語彙力を、当時の陽介は持っていなかった。  陽介の丸い頭を、海が抱き寄せた。 『オレが教えてあげる。この間、ガッコで習ったから』  少し得意げな口調だった、と思う。 『ようすけの陽は、太陽の陽だよ』  海の体温が、あたたかかった。撫でてくれる手の感触が、好きだった。海の舌の上で自分の名前が転がるのが、好きだった。 『太陽の陽に、魚介の介』 『ぎょかいって?』 『……お魚ってこと』 『おれ、お魚あんまり好きじゃない』  うえ、と声に出すと、海は大袈裟に笑った。あまりに大きい声だったから、同時にあっと口を塞いで、それからくすくす笑った。 『春の日に生まれたから、陽介。そういうことにしよう』  それから、陽介と海は夜に部屋を抜け出して、並んで波の音を聞いた。星が見える夜もあったし、月が見える夜もあった。  その日は、月が見えない夜だった。いつものように施設を抜け出して浜辺に来ると、海はいた。やっぱり靴は履いていなかった。  海は陽介が来たのに気づいて小さく微笑むと、そのまま視線を海の方に戻した。その日は波も風も穏やかで、二人の呼吸音以外、何も聞こえなかった。  海兄ちゃん、と呼びかけかけて、やめた。かわりに陽介はそっと横目で海の横顔を見た。  海はただ、暗いばかりの海を眺めていた。いつもと少し様子が違う。陽介の存在をまるごと忘れているみたいにぼんやりしていた。隣にいるのに、半分だけずっと遠いところにいる、みたいな感じがする。 『いかないで』 『え?』 『いかないで、海兄ちゃん」  不意に口を突いて出たことばに、陽介自身が一番驚いた。海の困惑した目が、陽介を射抜く。そのいろが、いまにも夜の中に溶け出してしまいそうで、陽介はたまらなく不安になった。息を吸うたびに苦しくて、この両目を捕まえて、ずっと陽介しか見えない場所に閉じ込めておきたいと思った。  その感情が名指す言葉を、幼い陽介は知らなかった。 『行かないよ。オレは、どこにも行かない』  それはまるで、自分に言い聞かせている言葉みたいに聞こえた。それから海は少しの間沈黙して、そのあとふっと笑った。 『ほら、ここにいる』  海の指先が、陽介の頭を撫でる。少しの間そうやって、海は今度は両手で陽介の頬を包んだ。海が一人で外で過ごした時間の長さを証明するように、指先は冷たくなっていた。 『もう寒いから、早く布団戻りな。ほら、こんな冷えてる』 『海兄ちゃんは?』 『オレはもう少し、ここにいる』  それは少しだけ、陽介を突き放すような音に聞こえた。

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