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第14話 忘れていること(3)

 空に、星が弾けた。子供の笑い声が響く。空気は澄んでいて、指先は冷たい。渚沙が湊斗の手を引いて、笑っている。ああ、これは、“あの日”の記憶だ。 『僕が留守番してるから、先生方、子供たちを連れて行ってあげてくださいよ』 『でも……』 『いいからいいから』  あの年は、いつもギリギリの人数で運営している施設のスタッフの数が、たまたま多かった。たしかあの日のちょっと前から臨時の職員の人が来ていて、それで人手が足りたから、陽介たちは初めてあの花火大会に連れて行ってもらえた。  海は来なかった。お祭りや騒ぎが大好きで、こういうのに真っ先に飛びつくと思っていたのに、理由を聞いても行かない、とだけ返ってきた。  少し後ろ髪を引かれながらも、見たことない花火に心が躍った陽介は、湊斗と渚沙と他の子供達と連れ立って会場へ向かった。 『陽ちゃん、大丈夫?』 『具合が悪いなら、先生に言って一緒に帰ってもらう?』 『いや、いいよ。みんな楽しんでるし、もう三年生だから』  結局、人混みと硝煙のにおいに具合が悪くなって、途中で一人で施設に戻った。二段ベッドの下で休んでいると、すぐに眠気がこみ上げて、眠ってしまった。  次の記憶は、煙だった。  目が痛い。息ができない。誰かが叫んでいる。身体が熱い。視界がぼんやりと歪んで、柱が、赤色に呑み込まれて、音を立てて壊れていく。  左腕が、焼けるように痛い。 『陽介ッ、なんで、ここに……!』  誰かが叫んでいる。誰かの背中が陽介に覆い被さる。熱い、痛い。恐怖と混乱の中で、海の名前を呼んだ、気がした。そこで記憶は終わった。  後から、施設の先生たちから説明があった。海が施設に火をつけたこと。海と陽介と留守番をしていた先生が火傷をしたこと。もうこの施設にはいられないから、みんなはバラバラに別の場所に行くこと。  小さな子供たちには少しぼかして、陽介と渚沙と湊斗には、しっかりと事実が告げられた。他の子供達より大きかったからかもしれない。海と特に仲が良かったからかもしれない。湊斗は渚沙の影に隠れて泣いて、渚沙は怒っていた。  火事から、数日後。  知らない大人に連れられて、久しぶりに海の顔を見た。ひどくやつれていたように見えた。その顔を見た瞬間、陽介は海に掴みかかっていた。  脳の奥が沸騰したみたいに、熱い。それなのに身体の中心が底冷えするほどに冷たい。感情の濁流が陽介を呑み込んで、身体の制御を奪っていくような感覚に、眩暈がした。 『なんでッ……!』  お前のせいだ、と思った。そう口にした気がする。ひどい言葉で罵って、頬を叩いた気がする。  陽介を落ち着かせようと大人たちが宥める声、湊斗と渚沙が陽介の名前を呼ぶ。それらのすべてが、頭の中に入ってこない。  お前のせいでみんなバラバラになる。裏切り者。なんでそんなことをした、なんで。なんで一言も、陽介になにも教えてくれなかったんだ。  なにをされても何も言われても、海は例の青い目で、何も言わずにじっと陽介を見つめていた。  だから、腹が立った。泣きたくなった。陽介はこんなに海のことで頭がいっぱいなのに、涼しい顔をして全てを受け止めて、まるで初めからこうなることがわかっていたかのように諦観だけを抱いてそこにいる。 『どこにも行かないって、言ったのに』  海のことが好きだった、と自覚したのは、この時が最初だった。  だから、情けなかった。こんなことになる前に、海を止められなかった。海の話を聞いてあげられなかった。何も知らなかった。いつも陽介ばかり海に救われていて、いつも陽介ばかり海に縋って。肝心の海はいつも、大切なことをなにも教えてくれない。  後悔と怒りと恋慕と虚しさが、陽介の中でぐちゃぐちゃになって、海を責める言葉で昇華するしかやり方を知らなかった。 『ごめん』  弁明も言い訳もなかった。ただ光を失った双眸がぼんやりと宙に二つ、浮いていた。死んでいるみたいだ、と思った。 ** 「ッ、はぁ、はっ……」  鼻先に微かにコーヒーの匂いがした。視界の隅に、先ほどまで陽介が飲んでいたコーヒーカップが転がっている。床にうずくまる陽介の肩を、湊斗が何度も叩いている。 「陽ちゃん……」  遠くから聞こえていた湊斗の声が、すぐ近くに戻ってくる。陽介に店内の視線が集まっているのを感じた。 「大丈夫」  湊斗の手を借りて、身体を起こす。元の椅子に戻ると、額を汗が滑り降りていくのがわかった。店員に一声かけてこぼしてしまったコーヒーを片付けてもらうと、やっと心音が落ち着いた。  こつん、と軽い音を立ててガラスのコップが置かれる。湊斗が水を持って来てくれたのだ。その手は、微かに震えている。 「ありがと、ごめん、心配かけて」 「ううん」  湊斗がそっと陽介の顔を覗き込む。不安と、それから、何かを待っているような目だった。  陽介は少し考えてから、口を開いた。 「思い出したよ」  湊斗の目が、大きく見開かれる。それから、なにかの糸が緩んだようにふっと解ける。いまにも泣きそうなのに、必死に涙をこぼすのを堪えているような、そんな表情に見えた。 「全部じゃない。でも、思い出した。海のことも、海がしたことも」 「そっか」 「ねえ、湊斗。俺は半年前、この事件についての話を聞きたくて海に会いに行った。そうだよな? 俺はなにか言ってなかった?」  きっと半年前の陽介は、なぜ海が施設に火をつけたのか、その真相に迫る断片を知ったのだろう。そしてそれを確認するために、海に会いに行った。 「わかんない。ただ、陽ちゃん、海ちゃんの居場所を見つけたから会いに行くって、血相変えて。で、でも、海ちゃんがどこにいるかは僕も今も知らなくて」  それだけ言って、湊斗は俯いた。指先でテーブルの縁をなぞりながら、自分を納得させるように、小さく頷いた。 「あのさ、湊斗。俺、見つけたんだよ」 「……え!?」 「ごめん、言ってなかったよな、実は退院した後、何回か海と会ってて、今週末も会うと思う、たぶん」 「たぶん?」 「約束してるわけじゃ、なくて」  たどたどしい陽介の説明を、時折驚いたり悲しんだりしながら、湊斗は静かに受け止めた。 「僕は陽ちゃんの味方だよ。陽ちゃんと、……海ちゃんの。二人とも、大好きだから」 「ありがとう」  陽介の中に、いくつもの心がある。  いまの陽介が抱く、海に対するほのかな気持ちと、少しの迷い。それから、記憶の中の痛みと、憎しみに近い怒りと、たしかな恋心。  それらに対して、湊斗がそっと背中を押してくれた、気がした。  そっと、スマホを見る。  今週の土曜日は、雨の予報だった。

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