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第15話 雨と嘘(1)

 その日は予報通り、朝から天気が悪かった。重たい雲が空を覆っていて、昼なのにどんよりと薄暗い。そんな中で、海はいつも通りに泳いでいた。  規則正しく動く背中は、なにかに駆られているように見えた。  あの日湊斗と別れてから、ずっと考えていた。なぜ、幼い海が施設に火をつけたのか。なぜ、陽介のことを知らないふりをしたのか。自分は今、海をどう思っているのか。この先、この関係をどうしたいのか。  いくら考えても答えの出ないことを、それでも考え続けることだけが、海に近づける唯一の術であるように感じられたから。 「あ、陽介」  海岸沿いに座り込む陽介を見つけて、陸に上がった海が、片手をひらひらと振っている。上半身にTシャツを着て、下半身は海パンのまま。その表情が柔らかいことは、きっと陽介の自惚れではないのだろう。  ーー会えて、嬉しい。そんな感情が読み取れるぐらいには、陽介は海を知っているつもりだった。 「あの、海さん」 「なに?」 「俺、話したいことがあっ……」  海が笑っている。屈託のない笑顔で。自分がこれからしようとしていることは、この人からこの笑顔を奪うことなんじゃないのか。そう思った瞬間、次の言葉が告げられなくなった。  じくりと、切れ味の悪いナイフで刺されたみたいに、胸が痛んだ。  全て知ったら、陽介は、海を許せるんだろうか。 「なに? 話したいことって」  頭の中で、いくつもの言葉が溢れては消えていく。ちょうど波の間に生まれては消えていく泡沫のように。 「あの、だから……えっと」 「変なの」  しどろもどろになる陽介を見て、本当におかしそうに、また海が笑った。幼い記憶の中にある笑顔と重なる。と同時に、陽介が海を責め立てたあの日の、冷たい無表情が頭の中で交差する。 「なんで」 「え?」 「なんで、そんなふうに笑えるんだ」  海の表情がぴくりと固まった。  ああきっと、次の言葉は海を傷つける。そう思ったら、声帯が固まってうまく言葉が出てこない。  「知りたい」。陽介を突き動かしていたのは、きっといつでもこの想いだったはずだ。自分の失くなった過去を知りたい。失くなった過去の中で、陽介に向けられた温かい視線の正体を知りたい。目の前にいる海という人間のことを、知りたい。  それなのに、いざ目の前にして、足がすくむ。  陽介の中に巣食う臆病な自分が、このまま過去の感情に知らないふりをして、忘れたままでいろとささやく。——海が、そうしたように。そうすれば、先週までの海と陽介のように、現実から目を逸らして、くだらないことで笑っていられる。  ああ、きっと。だから海は、嘘をついたんだ。  いくら考えてもわからなかったこの男の本心に、少しだけ触れられた気がした。 「オレ、笑ってたかな?」  同じじゃないか、と思った。海のことを知りたい。海ともっと一緒にいたい。海と話がしたい。海にふれたい。それは確かに恋と同じかたちをしていて、そんな感情を抱いた陽介が、海の嘘に甘えていただけなんじゃないのか。  記憶をなくしている間に抱いた恋心と、なくした記憶のなかにあった後悔は、どちらの感情が強いんだろう。  陽介が答えを出す前に、雨が降り始めた。 **  降り始めた雨は、瞬く間に勢いを増した。大粒の雨が髪を濡らし、肌を濡らし、そのまま陽介と海の間に生まれた妙な空気ごと押し流してしまった。 「うわっ、やば」 「ケンゴさんとこに行きますか?」 「ケンゴさん、今日休み!」 「ええ!」  雨音に負けないように声を張りあげながら、とりあえず街の方に向けて走り出す。着ていた服はあっという間にびしょ濡れになって、身体の体温をじわじわと奪った。海がTシャツを脱いでそれを傘がわりにしたが、すぐに意味をなさなくなる。 「どっか雨宿りできるとこ知りませんか!」  このままだと風邪を引いてしまう。陽介が声を張り上げたのと、海が立ち止まったのはほとんど同時だった。 「オレんち来る?」 「え、なんて!?」 「オ、レ、ん、ち! ここからすぐだから!」  海に引っ張られるように、狭い路地を走った。雨音の中で、自分の心臓の音が妙によく聞こえた。 「おじゃまします……」  海の暮らすアパートの部屋は、意外なほどに殺風景だった。  ぐっしょりと濡れた髪と服を絞りながら、狭い玄関から中を覗き込む。そこから先はすぐ部屋になっていて、普通のワンルームのように見えた。 「荷物、少ないんですね」  必要なものだけが必要な場所にある。生活感がほとんどなくて、整頓されているというよりは物がないといった方が正しい気がした。 「寝に帰るだけだから」 「なんか意外、かも」 「そう? ほら、髪拭きな」 「うわ」  入り口の中で所在なさげにしていると、ばさりとバスタオルを頭に被せられる。突然視界が塞がれたことと、鼻腔に広がる海のにおいに困惑していると、頭上からあはは、と笑い声が降ってきた。 「着替え用意しとくから、シャワー浴びてきな。ちゃんと拭かないと風邪引くぞ」 『陽介! ちゃんと拭かないと風邪引くぞ!』  いつかの記憶の中の海の声と、いまの声が重なる。これはいつの、なんの記憶だっけ。そうだ、海はいつもそうだった。いつでも陽介や、他の子供達の先頭に立って、こうやって世話を焼いていた。どうして気づかなかったんだろう。どうして忘れていたんだろう。  寂しさとも違う。懐かしさと喪失感が混ざり合って、あたたかくて、少し痛い。​​​​​​​​​​​​​​​​ 「どうした? ほら、冷えるから服脱いで……」  海の手が、陽介の服の裾にかかる。小さい子供にしてやるように、陽介のそれを脱がせようとしたところで、ぴたりとその動きが止まった。  服の裾から、陽介の脇腹が少し覗いている。別にただの白い男の腹だ。海は見てはいけないものでも見たみたいにそれをすばやくしまった。 「後ろ向いてるから、脱いじゃって。シャワーはそこ。服は、洗っとくから」 「海兄ちゃん」  思わずその呼び方が、口をついて出た。海の濡れた肩が、ぴくんと震える。  陽介の中で、確かな均衡を保って存在していたはずの天秤が、大きく傾いた。 「こっち向いて」 「向かない」 「なんで?」  陽介は、ほとんど破り捨てるみたいにシャツを脱いだ。雨で濡れた肌が、室内の空気に冷やされてひんやりしている。今はもう痛まないはずの脇腹が、陽介の鼓動に合わせて、熱を持ってじくじく痛む気がした。 「初めて会ったとき、俺のこと知らないって言った」 「……知らない」 「そんなわけない」 「っ、ほんとに」 「ここにこの傷があるって知ってるのは、海兄ちゃんだけだよ」  ばっ、と海が振り返る。青い光が、大きく見開かれて、それからゆっくり瞬きした。 「誰にも見られたくないってことを知ってるのも、海兄ちゃんだけ」  海の手を取る。そのしろい指先を、自分の剥き出しの脇腹に這わせると、海は抵抗するように首を振って顔をしかめた。  陽介の脇腹には、火傷の痕がある。それは、あの施設の火災で負ったものではない。施設に来る前、繰り返し母親にタバコの火を押し付けられたあとが、鱗のように積み重なっている。それ以外にも陽介の身体には、ひどい虐待の傷痕が残っている。だから今でも、半袖で街を歩く勇気がない。  醜くて、汚くて、実の母親にすら愛されなかった過去を思い出すみたいで、陽介はそれが大嫌いだった。  自分の一番柔らかくて、一番もろい部分。渚沙も湊斗も、蓮も、知らない。これを知っているのは、世界でただ一人だけだ。   「もう、知らないなんて嘘つかないで」

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