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第16話 雨と嘘(2)

 雨が降っている。薄暗くて狭い部屋の中で、それらの音だけが響いている。そんな中で、陽介はただ目の前の人のことをじっと見つめていた。雨音が、部屋の中を満たす。海が陽介に触れている肌の部分が、じんわりと温かい。  陽介は海だけを見ていて、海は陽介だけを見ている。雨の落ちる音以外、なにも聞こえない。雨音ごとこの部屋だけが切り抜かれて、世界で二人きりみたいだ、と思った。  薄い色の毛先から、ぽたりと雫が落ちる。 「オレのこと、思い出した?」  いつも通りの調子で海が笑う。でもそれは、声色だけいつもと同じで、表情だけが違っていた。痛みを堪えて、子供が泣き出す寸前のような、そんな笑い方だった。 「どこまで?」 「昔、一緒に暮らしてた。花火の日に、海が施設に火をつけて、それで」  そこまで言って、海がゆっくりと頷いた。もうそれ以上、言う必要はないと言わんばかりだった。 「この半年のことは?」 「……まだ」 「そっか」  海はすっと立ち上がって、床に落ちてしまったバスタオルを大切そうに拾い上げた。そしてそれを、陽介の身体にかける。その仕草は、陽介の身体を労るための優しさだけを宿していた。 「じゃあ、もう会わない」 「は?」 「会わない方がいいと思う」  その言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。  もう会わない。その言葉を聞いた途端、じわじわと腹の底からほの暗い感情が込み上げた。 「なんで?」  海は、何も答えない。 「じゃあなんで、嘘ついたんだよ。なんで、知らないふりしたくせに、海だなんて名乗ったんだよ。なんで」  一度口をついて出た言葉が止まらない。ずっと、頭の中で言葉が渋滞していた。考えがまとまる前に次の考えが来て、全部が中途半端なまま積み重なっていく。積み重なった端から海にぶつける言葉になって崩れていく。 「会いたくないならちゃんと突き放せよ。中途半端に関わって、それでやっぱり俺が思い出したからもう会えないって、ふざけんな」  違う、こんなことが言いたいわけじゃないのに。陽介の頭の中に浮かんでいることと、逆のことばかりが口から出てくる。  海はちゃんと、陽介を突き放そうとしたじゃないか。それでも興味を持って、会いたいと思って、会いに行ったのは陽介の勝手だ。海は一度だってまた会おうなんて言っていない。わかっている。わかっているのに、海を責める言葉が止まらない。 「ごめん」  『ごめん』  その言葉が、耳の奥で反響して、あの日の海の声と混じっていく。ああ、やっぱり、この人はすべてを知っている。そう思ったら、自分でもうまく制御の利かない感情で胸がいっぱいになった。苛立ち、に一番似ていた気がする。  海の手首を掴んだ。それに対して、なにか言われた気がする。でもそれどころじゃなかった。気づけば海の身体ごとベッドに突き飛ばしていた。 「ちょっと、痛ッ」  抵抗する海の両手首をまとめて押さえつける。ほんのりと恐怖に色づいた青色が陽介を射抜いて、一瞬だけ動きを止めた。でも、ここで止まるつもりはなかった。 「やめて、陽介」  頭のどこかで、陽介が何をしても、海はそれを許してくれる。そういう甘えみたいなものがある気がした。これはきっと、幼い陽介の記憶だ。陽介の中の記憶が、海に甘えている。そんなものが存在していることが、無性に腹立たしかった。 「やめない、こうでもしないと、ちゃんと話してくれないだろ」 「こんなに強くしなくても、オレは逃げないから」 「いやだ」  海が本気で足掻けば、陽介程度の腕力では簡単に抜け出せてしまうだろうことが簡単に想像できた。それでも海は抵抗しない。その理由がなんとなく思い当たって、またイラついた。 「離さない」  手首を握る手に力を込める。海の顔が少しだけ歪む。痛いのか、それとも別の理由なのか、判断がつかない。部屋が暗くて、光を反射しないせいか、今日は瞳の色が青よりも紺色に近く見える。夜の波が砕けたみたいな色だ。 「絶対離さないから」 「陽介」 「ッ、そうやって、名前呼ばれるたびに、俺がどんな気持ちになるか!」  薄い唇が、ぎゅっと引き結ばれた。束の間、二対の視線が絡む。陽介は海だけを見ていて、海は陽介だけを見ていた。感情の読めない海の目は、長く見ていると引き込まれそうになる。慣れないことをしたせいで、心臓は嫌な音を立て続けているのに、ずっと、このままでいたいとすら思った。 「オレも同じだよ」  ふと、海は結んだ唇の隙間からふっと息を漏らした。そして観念したように目を閉じた。 「……だから、陽介に呼ばれる名前は、海がよかった。ほんとただそれだけだから」  それが陽介が先ほどぶつけた言葉に対する返答だと、気づくのにすこし間があった。 「ちゃんと話す。話すから、これほどいて」  海の両手を解放すると、陽介が力いっぱい握っていたそこはほんのりと赤くなっていた。海はじっとそのいろを見つめると、すぐに視線を陽介に戻した。その手のひらが、陽介の二の腕に触れる。 「身体、こんなに冷えてる。ほらオレの服……も濡れてるか、どうしよう」  ちょっと待ってて、と言って海はするりと陽介の脇をすり抜けていく。また逃げられる、と焦燥する陽介の心中とは反対に、海は二人分の着替えを抱えてすぐに戻ってきた。 「はいこれ着て。話はそれから」  差し出されたスウェットの上下を、少し躊躇ってから受け取った。袖を通すと、海の匂いがした。少し大きい。知らない柔軟剤と、知っている海の匂い。遠い記憶の中にある温かさと、いまここにいる海とが少しずつ、ゆっくりと混ざり合う。 「よし」  陽介が着替えを済ませたのを見て、海は満足そうに笑うと、ベッドに腰を落とした。陽介もそれにならう。 「なにから、話そうかな」 「海の話が聞きたい」  海は少しだけ考えてから、口を開いた。 「|間宮海《まみやかい》。21歳。赤ちゃんの時に捨てられたから親は知らない。施設に火をつけて、児童自立支援施設ってところに入ることになった。で、いろいろあって、いまはうみって名前でこの街に住んでる。……どう? 陽介の記憶と合ってる?」  どこかで練習したかのようにすらすらと海は言葉にした。同時にどこか他人の人生を口にしているような、乾いた空気がある。  陽介は、少しの間黙っていた。それから、言葉にする代わりにゆっくりと頷いた。 「俺は、この半年間、本当に海と暮らしてた?」 「……暮らしてたよ。この部屋で」 「ほんとに?」 「ほんと」  思わず、部屋の中を見渡した。もしここから海が消えてしまったら、途端に誰の部屋だったのかわからなくなりそうだ。それくらい、なにもない。自分で、いなくなる準備を常に整えているみたいに思えた。 「俺の記憶だと、俺は海のこと、憎んでた。だから、わからなくて」 「うん」 「俺と海は、その」  どういう関係だったの。それをどんな言葉で聞けばいいかわからなかった。海は、初めて戸惑ったような顔をした。視線が、足元に向く。しばらくの間、雨の音だけが響いていた。 「オレさ、もっとうまくやれたよね」  なにが。そう口にする前に、陽介の視界の中に、海が入ってくる。この人はいつも、行動にも言動にも脈絡がない。じっ、と目を見つめられたら、もうそれ以上何も言えなくなる。 「もっとちゃんと無視したりすれば、陽介も今のオレに懐かなかっただろ。陽介のいう通りだよ。全部中途半端で、でも、オレさ」  海の指が、陽介の頬に触れる。指先が慎重に肌をなぞる。耳をくすぐって、後頭部までまわる。陽介の身体のかたちを確かめるように。強く触れれば、陽介の輪郭が変わってしまうとでもいうかのように。ひどく優しくて、指先に熱がこもっている。  それが、質問の答えみたいだった。 「お前のこと、かわいくて仕方なかった」 「っ……」 「陽介が会いにきてくれて嬉しかったよ」 「じゃあ、なんで、もう会わないなんて言うんだよ」  海の指先に触れた。捕まえて、逃がさないように。陽介のそこにも、同じ熱がこもっている。 「オレのせいで、いつも陽介が傷つくから」 「なに言ってんのかわかんない」 「この火傷だって、バイクの事故だって、記憶喪失だって、全部オレのせい」 「海の、せい……?」  陽介は少しの間、海の言葉を呑み込もうとした。  火傷のことは、わかる。でも事故は、記憶喪失は。それがどうして海のせいになるのか、陽介には理解できなかった。でも、海が冗談で言っているようには思えなかった。 「オレが、陽介をこの街から追い出した。その帰り道で、陽介は事故に遭ったんだよ」 「じゃあ、記憶喪失は」 「オレが忘れてくれって言ったから」  海の言葉の端から、後悔と自責が滲んでくる。きっとそれは、幼かった海が、施設に火をつけたあの日からずっと抱えていたものだ。  この人は、どれだけ長い間、こんなものを一人で抱えていたんだろう。 「オレが、陽介とオレが過ごした時間を無かったことにして欲しいって、そう思ったから。だから全部、オレのせい」 「海は、俺と過ごした時間をなかったことにしたかった? 半年前も、今も、それは変わらない?」  忘れたかったのは、海の方だったと言いたいのか。そして海は緩慢な動作で陽介の指から自分の指を離すと、そっとそれを陽介の膝の上に置いた。 「お前といるのは、苦しいよ」 「でも、俺は、海といたい」  海は陽介の言葉を聞いて、また笑った。表情と言葉と感情が、全部バラバラになっているように見えた。そういうふうに、見たかったのかもしれない。 「いいよ、オレ。陽介が望むなら最後になんだってしてあげる。したいならキスも、エッチしてもいいよ」 「違う、そんなこと求めてない。なんでそんなに話が飛躍するんだよ」 「じゃあ何をしたら、陽介はオレの前からいなくなってくれる?」  それが本当に、海の願いだというのだろうか。 「陽介、お願いだから、オレを許さないで」 「海、俺は」  突き放すような言葉が、陽介の口を封じて、それ以上なにを言わせないようにした。  陽介は、海になにを言いたかったんだろう。 「今度こそ、全部忘れて」  忘れてしまったからって、失くしてしまったからって、なかったことにはならない。でも、自分の心は記憶よりもずっと素直で、海のことを恋しく慕う気持ちで満たされている。  それなのに。砂浜を歩いた後みたいなざらつきが、心にこびりついて離れない。  

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