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第17話 夜のなか

 それから夜の間、二人でいた。  やまない雨の音が、少しずつ部屋の中の時間を溶かしていった。なにも話さずに、ほとんど動かずに、ただ同じ空気を吸って、同じ雨の音を聞いていた。  そうしているうちに、ふいに陽介の腹が鳴った。朝からほとんどなにも食べていない。どんなに重苦しい雰囲気があっても生理現象は正直だった。腹を抑えて俯いた陽介を見て、海が小さく笑った。頰が熱い。 「ちょっと待ってて」  部屋の隅にある小さなキッチンで、なにかを作業している。トースターに食パンを入れて、フライパンでなにか焼いているらしい。 「料理、するの?」 「たまにね。簡単なやつ」  海が料理をしている光景が妙に現実味を帯びていて、どうしても陽介の中のイメージと結びつかない。一人で泳いでいる海の消えてしまいそうな背中とも、幼い頃の泥まみれになっている姿とも違う。陽介の知らない海の姿がそこにあって、胃のあたりがきゅっと痛んだ。   「はい。パンしかなくて、なんか朝ごはんみたいだけど」  こんがりと焼けたトーストに、目玉焼きが乗っている。それが別々の皿に一つずつある。鼻先をかすめる香ばしい匂いに、また腹が鳴った。 「いただきます」 「はい、どうぞ」  なんの変哲もないパンと、なんの変哲もない目玉焼きだった。たしかに、朝ごはんの味がする。おいしい、そう呟くと、海は嬉しそうに笑った。  それから言葉も少なく、簡単な食事を済ませた。後片付けをする海の背中に、手伝おうか、と声をかけると、すぐだから、とそれだけ返ってきた。  食欲が満たされたせいで、頭が急に重くなる。まぶたが重くなり始めたことに、しばらく気づかなかった。  もう少しだけ、となにかに縋りたくなる気持ちを抱いた時には、陽介の頭は戻ってきた海の肩めがけて傾いていた。 「シャワー浴びる?」 「ううん」 「眠い?」 「うん……」  抗おうとしたが、海の体温と匂いが緊張をほどいて、それ以上抵抗するのが難しかった。  すぐ近くで、海の吐息の音がする。心臓の音がする。自分の身体から力が抜けていく。それを感じて初めて、全身に力が入っていたんだと気付いた。  瞼の裏が、じわりとあたたかくなる。 「海、俺……」 「どうした?」 「かばん」 「かばん?」  なにか、大切なことを話した気がする。海も、それになにか答えた気がする。あまり覚えていない。ずっと心地よい波の中にいるみたいで、意識を手放すのは簡単だった。  陽介の名前を呼ぶ声が、ずっと遠くの方に聞こえた気がした。 ** 「陽介、寝た?」  起こしてしまわないように、そっと自分の腕を陽介の下から抜き取った。身体を抱えてベッドに横にしてやり、布団をかける。  少しだけ、寝顔を眺めた。さっきまでの激情が嘘みたいに、穏やかに眠っている。小さな子供に戻ったみたいだった。  何度、この寝顔を見ただろう。子供の頃の眠れない夜も、泣いた朝も、ふざけあった昼も、ずっと海は陽介の横顔を眺めていた。ころころ表情が変わるのが、見ていてずっと飽きなかった。そういう些細なことだけ、覚えている。  その全ての過去をきれいに失って、それからちょっとだけ取り戻して、陽介は今、ここにいる。 「……はぁ」  そっと、髪を撫でる。細くて、柔らかい。それを耳にそっとかけると、んん、と少しだけ陽介が身じろぎした。起こしてしまったか、と思ったが、まだまどろみから醒めないらしい。  耳の裏にほくろがある。陽介もきっと知らない。海だけが、知っている。触れたくなって、やめた。触れてしまえば、海の中の小さな矜持ごと、覚悟が崩れてしまいそうな気がした。  余計なことを考えたくなくて、散らばった陽介の荷物を片付けることにする。ふと、陽介のショルダーバッグの口が開いていることに気づいた。  見てはいけないと思いつつも、先ほどの「かばん」という言葉が気になって、手を伸ばす。 「あ」  朝焼けの、海の写真だった。それから、海が撮った陽介の写真が数枚。ちゃんと持っていて、ちゃんと現像してくれたことが嬉しいのと、こんなものが残っていたら、誰でも気になってしまうだろう、と苦笑する。 『たまには俺に撮らせてよ』  他の写真は全部海が撮ったものだったが、最後の一枚だけは陽介が撮ったものだ。写真に写りたがらない海の代わりに、海を撮ってやると、そう言って笑っていた。あの笑顔を、声を、まなざしを、海はこんなにも鮮明に思い出せる。 「こんなに、きれいだったかな?」  あの日の陽介は、どんな気持ちでこれを撮ったんだろう。指先で写真をなぞる。  陽介の世界は、こんな風にきれいに見えていたんだろうか。波は、どんな風に聞こえたんだろう。 「ねえ、陽介」  海にとっては半年間も、そのあとの数ヶ月も、きれいな砂のようなものだった。掴もうとしても、指の隙間からこぼれてしまう。  幸せな夢から覚めたとき、夢の内容より、覚めてしまったという事実だけが残る。目を閉じても、もう戻れない。そういうものに、似ていた気がする。  朝が来たら、ちゃんとするから。今夜だけは、この幸せな夢に浸っていたかった。 「初めて陽介がこの街に来たとき、オレ、ほんとにびっくりしたよ」  たしかにあった二人の物語を、陽介じゃなくていいから、誰かに聞いて欲しかった。  海はゆっくりと、言葉を繋げた。  雨はまだ、やまない。

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