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第18話 再会した日(1)
世界の端から、朝が目覚めていく。
オレンジ色に染まり始めた空の切れ目を眺めながら、海はよし、とつぶやいた。海面に、朝焼けの光が残っている。
「うえー、つめた!」
季節は夏だといっても、明け方の水温はまだ刺すように冷たい。頭まで潮水に浸かると、まだ寝ぼけていた脳を強引に叩き起こされるような感覚になる。
そのまま、手足を動かす。この習慣がいつから始まったのかは覚えていないが、もうなにも意識しなくとも勝手に動くくらいには、海の身体に動作が染み付いていた。
波が寄せて、返す。寄せて、返す。その流れに身体を任せる。少しずつ波と海と、身体が一体になって、頭が空っぽになっていく。こうやっていると、自分と同じ名前を冠した海と、ひとつになれるような気がした。ひとつになりたかった、が正しいかもしれない。
海がこの街に来てから、もうすぐ三年が経とうとしていた。
**
「ケンゴさん、おはよう」
からんからん、ドアベルが小気味いい音を立てて鳴る。カウンター席に座って新聞を読んでいたケンゴが、海の姿を見て髭を笑みの形に歪めた。
「おはよう、うみ」
バイトのシフト自体は午後からだったが、他にやることもないので、大抵泳いでシャワーを浴びたらここに来る。店自体、昼前からしかやっていないのに、この人はいつもこんなに早く来てなにをしているんだろう、と思う。思っても、口にはしない。
うみ、という名前で呼ばれることにもだいぶ慣れた。
「新しい豆買ったんだよね。試してみる?」
「どこの?」
「グアテマラ」
「グアテマラ、ってどこ?」
「中南米かな。メキシコの隣」
「ああ、メキシコは知ってる」
ミルがカリカリと回る音、立ち上る湯気、それからコーヒーの匂い。それらが、潮の匂いにつつまれている。この街に来てからの海の世界の全てだった。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
差し出されたコーヒーカップに口をつける。朝の海水浴のせいで冷えた身体が、内側からほっと解けるような感じがした。いつもの豆よりも、口当たりが軽い。
「うーん、ナッツ? キャラメル? なんか甘い感じがする」
「わかるようになったか、コーヒーの味が」
「これかなり浅煎りだよね? もうちょっと煎った方がいいんじゃないかな」
「参考にするよ」
海の世界はシンプルだ。朝に海水浴をして、昼は喫茶店の準備を整えながら客が来るのを待つ。それから夕方までコーヒーを淹れて、日が落ちるのと同時に家に帰る。そういう風に、単調で変わり映えのしない日々を生きている。
いつだったか、ケンゴが言ったことがある。名前ごと自分の過去を捨てるつもりなら、いっそ人生ごと捨ててここで生き直してみるといいと。
いまの海は、生き直しているというよりも、緩やかに死に向かっているだけだと思った。そして、別にそれも悪くないと思う。
「いらっしゃいませ」
ケンゴと無駄口を叩いているうちに、少しずつ店が混んでくる。混んでくると言っても、都会のチェーン店のような目が回る忙しさではない。いつもは手ぶらで無駄口を叩くのを、カップを磨きながら喋るのに変わるぐらいだ。
「バイク、売ろうと思ってさ」
「ああ、あのオンボロ? 乗らないの?」
「まあもう10年前の型だしさ。そろそろ部品も生産されなくなるし。廃車にしてもいいんだけどね」
なんだかやけに言い訳じみた言い方をするんだな、と手を止めずに厨房のケンゴを盗み見る。ぱちり、と目と目が合った。
「誰か、乗ってくれる人がいるといいんだけど」
「そうだね」
「うみ、免許取りなよ」
「ぜったいいや」
それが目的か、と肩で大袈裟にため息をつくと、「そんなに拒否されると僕もショック」とため息が返ってきた。提供するナポリタンを受け取るときに、もう一度わざとらしくため息をつくと、今度はケンゴが肩をすくめた。
小さな金属の音が、来客を告げる。空気が動いて、若い女性が二人、せわしなく入ってきた。高校生くらいだろうか。
「あ、あの!」
入店した途端、二人は海の姿を見て、歓声に近い声をあげた。
笑みの形に作った接客用の表情が固まる。海の経験上、このタイプのお客様はよかった試しがない。後ろに引っ込みたい、そうケンゴに目配せをするも、ちょうどまたフードのオーダーが入ってしまったところだった。
「一緒に写真撮ってくれませんか?」
「ごめんなさい。オレ、アイドルとかじゃないんで」
「本当に目が青いんですね! ハーフですか? クォーター?」
「……おばあちゃんがフランス人で」
「そうなんだ!すごい!」
「ご注文は?」
彼女たちの無邪気とも取れる好意的な視線。海はそれらがたまらなく苦手だった。不躾に向けられる視線たちは勝手に海に期待をして、それが自分の期待に沿わないものだとわかるやいなや、正反対の感情を向ける。
「この間は、おじいちゃんがアメリカ人だったよね」
「さすがにネタ切れ。てか、見てるなら助けてよ」
「これくらい、いまのうみなら余裕だろ?」
「まあそうだけど」
彼女たちを、カウンターから少し遠いテーブル席に案内する。作業に戻る海の背中を、痛いくらいの視線が追いかけた。
「最近多いよね。うみ目的のお客さん。飲み物、出してこようか?」
「いいよ、行かなかったからそれはそれでめんどくさいし、ケンゴさんがきらわれるよ」
この視線を向けられるたびに、何も知らないくせに、と仄暗く思った時期もある。いまはそれも通り過ぎて、何も感じなくなった。
海の昔話とか、祖母どころか母親の顔も知らないこととか、自分のルーツがどこにあるかあいまいな不安定さとか、そういうものを、世間はいちいち考えない。だから海も気にしない。そう思えるようになると、いっそのこと気持ちが楽だった。
結局その日の午後は、居心地の悪い視線を浴びながら働くことになって、普段より少し疲れた。
夕暮れ、閉店時間。あまり儲けることを考えていないケンゴは、いつも気分で店を閉める。今日は少し早い。片付けをしながら店に差し込む夕方のひかりを眺めていると、背後でまたドアベルが鳴った。
「すみません、今日はもう閉店で」
振り返ると、そこにいたのは知っている表情をした、見知らぬ青年だった。
あまりおしゃれに気を配っていない感じの、自然な黒髪。アーモンド型の目は、迷子みたいな表情をしている。その奥に、眩しいくらいの意志の強さが隠れている。
手に持っていたカップを、思わず取り落とす。乾いた音を立てて、陶器が割れた。
同時に、がちゃりと、胸の奥でなにかが音を立てた。
「陽介?」
思わずこぼれた名前は、ひどく懐かしい響きをしていた。
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