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第19話 再会した日(2)

 そこに立っていたのは、あの日、海の頬を殴って泣いていた男の子と、同じ目をした青年だった。  この10年間、一度だって忘れたことはない。胸の奥が雑巾でも絞るみたいに締め付けられる。  なにかを話さないといけないと思った。けれど、笑いかければいいのか、謝ればいいのか、それとも別のなにかなのか、うまく見つけられない。感情をしまっておいた箱が突然ひっくり返されて、どれを取り出せばいいのか途方に暮れている、そんな感覚に近い。 「海、だよな」  知らない声だった。海の記憶にあるものより、低い声だったから。  陽介の視線が、海の頭のてっぺんに向いて、上から順につま先まで動いた。そして、顔の高さまで戻ってくる。海のかたちを確かめるようだった。その視線に、かたちが変わったのは陽介だけではないと当たり前のことに気づく。 「とりあえず、入ったら」  自分でもびっくりするぐらい乾いた声が出た、と思った。陽介の目がじっと海の両目を見つめて、首が小さく縦に動いた。  陽介を奥のテーブル席に通してから、割ってしまったカップを手早く片付けて、二人分のコーヒーを淹れる。未だふわふわと漂っている海の意識に反して、身体は染み付いた動きを正確に反復した。  その様子を黙って見ていたケンゴは「僕は裏で作業してるから帰るとき教えて」とそれだけ告げて奥へ行ってしまった。 「コーヒー飲める? あれだったら別のやつでもいいよ」  淹れてしまってから、先に聞けばよかった、と少し後悔する。 「……飲める」 「砂糖とミルクここに置いとくから、使って」  陽介はシュガーポットを開けて、そのまま閉じた。ミルクピッチャーにも触れて、結局コーヒーには注がれなかった。少し間があって、骨ばった指がカップの取っ手をつまむ。コーヒーを飲むことに慣れていない人の仕草だ、と思った。 「あんま見られると、緊張するんだけど」 「あ、ごめん」 「ここ、長いの?」 「もうちょっとで3年になるかな」 「そっか」  彼は、海の記憶にあるものとは大きくかたちを変えていた。背はずいぶん伸びたし、喉仏も出ている。顔立ちに面影は残っているが、海がこの人を陽介だと結びつけたのはそれだけではない。あの頃と同じ、真っすぐな目をしていたから。 「陽介は背が伸びたね」 「そりゃ、10年経ってるから」 「声変わりもしたし」 「前は、してなかったんだっけ」 「うん」  陽介がいる。変わったもの、変わっていないもの、変わっていて欲しいと願ったもの、それらを抱えて、確かにいまここに存在している。それだけがやけに現実感を伴っていない。答える陽介の声に緊張がこもっている気がして、カップを持つ手が、少し震えた。 「渚沙と湊斗は元気?」 「元気だよ。二人とも」  お互いに核心に触れないように、ぎこちなく世間話をした。それが過ぎてしまうとテーブル席に漂うのは重苦しい沈黙だけだった。治りかけたかさぶたに触れるときのような、ためらいがあった。  最初に沈黙を破ったのは海だった。 「なんで、ここがわかったの?」  海の問いかけを受けて、陽介は気まずそうにバッグからスマートフォンを取り出した。 「これがバズってたから、たまたま見かけて」 「バズ……なに?」 「だから、海の動画がSNSで出回ってて、調べたらここだったから」  陽介が画面に映したのは、たしかに喫茶海猫の店の中を撮影したものだった。カウンターの中でコーヒーを淹れている海の姿だ。テロップのようなものがいくつも動画の中を流れていく。 「これ、誰でも見れるやつなの?」 「まあ基本的には」 「へえ……」  SNSはおろか今はスマホを持っていない海には、それがどういうことなのかピンと来なかったが、誰にも居場所を告げていない海が陽介にみつけられてしまうくらいには、誰でも見れるものなんだろう。  もちろん、こんな動画が撮られていることなんて知らなかった。居心地の悪さに思わず鳥肌が立った肌を隠そうと、腕を組む。 「一目で、海だってわかった」 「オレ、そんな変わってない?」 「そういうことじゃ、なくて」  陽介はそう歯切れ悪く言って、その歯切れの悪さを誤魔化すようにカップを口に運んだ。 「……急に来て、ごめん。先に店に連絡すればよかったんだけど」  なにかを話そうと思って、口を開く。けれどそれは明確な言葉にはならなくて、そうしているうちに、陽介の言葉に上書きされてしまった。 「海、俺は、あの日のことが知りたい」 「あの日、って」 「あの火事の日、ほんとはなにがあったのか」  一瞬で、頭の中に氷水をぶち撒けられたみたいに、脳内が冷えた。それで初めて、自分が少し浮かれていたと気付かされた。 「それを聞いて、陽介はどうしたいの?」  それはほとんど、八つ当たりに近かった。狼狽に気づかれないように、手のひらを握り込む。 「ただ、知りたいだけ」 「知ってどうするの」 「わかんないけど、海のことを見つけたら、なんかじっとしていられなくて」  気づいたら、ここにいた。そう呟く陽介の冷静な声のトーンが、じわじわと耳朶を揺らす。黙って座っていることが耐えられなくて、ほとんど手をつけていない自分のカップを持って立ち上がると、手首を掴まれる感触があった。 「待って」  陽介の体温が、肌越しに伝わってくる。冷房に冷やされたせいで、指先はかすかに冷たい。でも手のひらは、凍った海の心を溶かすように、温かかった。このまま絆されるわけにはいかないと思った。 「なにか理由があったから、あんなことしたんだろ」 「ない、理由なんて」 「海」 「ムカついたから。どうせ親はいないし、一生貧乏のままだろうし、だったらもう全部どうでもよくなった。だから火をつけた。あのとき警察の人にもそう言ったよ」 「違う」  陽介はなにか確信めいたものを持って、真っすぐに海を見つめた。その視線を、見返すことが出来ない。視界がぼやける。 「俺の知ってる海はそんなことしない」  もう全てを話してしまいたくなった。きっと陽介は許してくれる。受け入れてくれる。それでも海が陽介の手を振り払ったのは、かすかに残った、海なりの小さな矜持だった。 「じゃあ、陽介の知ってる海は死んだよ。陽介もそう思って生きていって。オレはもう二度と陽介にもみんなにも会わないし、だから海のことは全部忘れればいい」 「忘れられるわけない」  陽介は、そう言うと、息をするのが苦しそうな顔をした。泣きたいのに、泣くのを我慢しているときの顔だ。こういうところだけ、なにも変わっていない。それが余計に、海の内側を冷やしていく。 「帰って。ここには二度と来ないで」 「いやだ」 「そんな子供みたいに言われたって」  まだ、陽介の奥に、幼い憧憬が灯っている。その事実が、海をまた少し絶望させた。だから、もう遠ざけるしかないと思った。 「燃えた施設は戻らないし。過去は無かったことにならない。だったら別に、いまさらなにも知らなくていいよ」  突き放すように言ってから、黙ってしまった陽介を見て、少し言い過ぎたか、と思わず怯む。陽介は叱られた子供みたいに俯いて、ぎゅっと唇を噛み締めていた。 「それでも、海が話してくれるまで毎日来るから」 「話すことなんて何もない」 「じゃあ毎日コーヒー飲みに来る。そうしたら俺はお客さんだし。それならいいだろ」  ほとんど叫ぶみたいにそう言って、立ち上がった。足早に出口に向かっていく背中を呆気に取られて見送る。 「明日も来るから!」  ばたん、と乱暴にドアが閉まる。残されたドアベルの空虚な音だけが、店の中に響いて、それから聞こえなくなった。しばらくの間、それを聞いていたと思う。 「ガキ。コーヒー、ほんとは飲めないくせに」  思わず、腰が抜けてその場にへたり込む。緊張からか安堵からか、また少し指先が震えた。  捨てたはずの過去が、ずっと前に手放したはずのものを連れてやってきた。そしてその過去は、また海に会いに来ると言う。  それに喜んでいる感情に気づいて、また少し自分が嫌いになった。

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