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第20話 過ごした日々(1)
翌日、お昼過ぎに陽介は来た。
「いらっしゃいませ」
いつもと同じように言えた、と思う。陽介はちらりと店内を見渡すと、自分の他にはケンゴしかいないことを確認して、少し気まずそうに会釈した。
テーブルかカウンターかどちらがいいか聞くと、陽介は少し迷うような素振りを見せて、テーブル、と小さく答えた。
「ご注文は?」
「ブレンド一つ」
「ブラックでいいですか?」
「はい」
本当はブラックで飲めないくせに、とからかいたくなるのをぐっと堪える。これは陽介にとっても海にとっても言い訳のコーヒーだ。だから別に味はなんでもいい。それでも、出来れば美味しく飲んで欲しいと思ったから、少しだけ飲み口が軽い豆にした。
出したコーヒーを飲んだ陽介が、少しだけ意外そうな顔をした。それから、確かめるように二口目を口に運ぶ。それをカウンターの内側からそっと見ていた。見ていたいと思った。
それから先の五日間、陽介は毎日来た。時間帯はバラバラで、朝に来ることもあれば、昼に来ることもあった。夕方に来て、一時間だけいてすぐに帰ることもあった。
その時間帯のズレから、海の知らない陽介の日々が垣間見える気がして、気づけばこの店に来ない陽介の日常の余白を想像していた。
だいたい陽介はテーブル席に座って本を読むか、ノートを広げて勉強をしていた。
「それ、何読んでるの? 教科書?」
「あ、そうです。大学の。授業はもうないんですけど」
「へええ。僕も大学、経済学部だったよ。まあ陽介くんみたいに真面目じゃないから、遊んでばかりだったけど」
たまに暇を持て余したケンゴが話しかけていたが、海は最初の挨拶と注文ぐらいで、ほとんど会話らしい会話はしていなかった。
気にならなかったと言えば嘘になる。
大学では、なにを学んでいるんだろう。どんな友人たちとつるんで、なんの話をするんだろう。生活費はどうやって賄っているんだろう。バイトでもしているのだろうか。それなら、どんなバイトをしているんだろう。
コーヒーを挽きながら、そんなことをつらつらと考えた。
直接聞けば、きっとすぐにわかる。でも海の中の小さなプライドが、それをさせなかった。
時折、陽介も似たような顔で海を見つめる時がある。それに海は、気づかないふりをした。
その次の日、火曜日。店は定休日だった。休日はたいてい、朝の海水浴を終えた後、しばらくぶらぶらと海沿いを歩く。今日は海水浴を済ませたところでふと陽介のことを思い出した。
陽介は、今日も来るだろうか。
来て、もし店が空いていなかったらどう思うだろう。昨日、明日は休みだからと伝えておくべきだった。
一度思いついてしまうと頭から離れなくて、少しの逡巡ののちに、気がつけば足が喫茶海猫の方に向かっていた。
「いない、か」
海が店の前に来た時には、陽介はいなかった。まだ来ていないのか、もう来て帰ったあとなのか、今日は来ないつもりなのかはわからない。そのことに落胆している自分に気づいて、頭を掻く。潮水に濡れたままの髪がべたついて指に絡まった。
どうせ家に帰ってもやることなんてないし、と自分に言い訳して、店の前にしゃがみ込む。少しだけ待って、もう来なければ、今日が定休日だと知っていたことにして帰ろう。それくらいの軽い気持ちだった。
照りつける太陽が肌を焦がして、額に浮いた汗が肌の上を滑り降りていく。空気がそのまま肌にまとわりつくような暑さの中で、どれくらいの間そうしていただろう。着ていたシャツの背中が汗で濡れるほど時間が経った頃、少し遠くの方に、見慣れた背格好が見える。
「あ!」
思わず立ち上がって手を振ってしまってから、しまった、と思う。案の定陽介は、海がそこにいることに気づいて目を丸くした。
「え、なにしてんの」
「いや今日定休日だから」
「待ってたの?」
「待ってたっていうか……待ってたけど」
狼狽える海の顔をまじまじと見て、陽介はそれからにっと少年のように笑った。
「俺のこと待ってたんだ」
瞬間、頬が熱くなったのは、日焼けのせいだ。
「待ってない! もう帰る。じゃあ」
「なんで?」
「なんでってそりゃ、オレと陽介が一緒にいたらおかしいでしょ」
「せっかく休みなんだし、今日は付き合ってよ」
陽介がそういう頼み方をすると、海が断れないことを知っていて、そういう聞き方をする。そのことに腹を立てながらも、「どうせ暇だから待ってたんでしょ」と追い討ちをかけられては、言い訳の言葉も出てこない。
その言葉に観念して、結局しぶしぶ街を案内することになった。ちいさな街だ。見るところもなければすることもない。街を一周して暇を持て余した頃、海を見に行こう、と呟いたのは陽介の方だった。
「あっつー! オレ、ちょっと泳いできていい? いいよね」
「お前のそれ、下海パン?」
「そ!」
呆れたように笑う陽介をおいて、また海に入る。朝よりもずっとぬるい波が海の体を洗った。
「陽介も入ったら? ここ、誰も来ないよ」
「俺はいいかな」
この時間帯に海に入るのは、久しぶりのことだった。浜の方を窺うと、陽介は座ったままこちらを見ている。しばらく波に身を任せたくなって、そっと目を閉じた。
少し泳いでから浜へ戻ると、陽介は変わらずそこにいた。体育座りをして、目だけが少し遠くを見つめている。
海を見つけて、おかえり、と陽介が微笑んだ。その顔には少し疲労のあとが滲んでいる。今日は朝から振り回しすぎたかもしれない。
「ごめん、疲れた?」
「少しだけ」
「なんか飲み物買ってくる。何がいい?」
「ううん、いい」
少し間があって、砂で汚れたTシャツを手に取るためにしゃがみこんだ。その背中に、陽介の声がかかる。
「それ、背中のやつ。火事の時の。あんまり隠したりしないのな」
「ん? うん」
「守ってくれた」
不意に陽介の指先が、海の背に触れた。その体温の熱さに、冷えた肌がびくりと反応する。陽介の手のひらが、そっとその傷痕を覆うように広がった。
「覚えてんの?」
「うーん、うっすら」
「忘れてくれていいのに」
痛まないはずの古傷が、陽介の体温の下で脈打つみたいだった。
「俺ガキだったから、殴ったりして、ごめん」
「しょーがないよ。オレでもそうした」
「でも、むかついたのも、お前のこと嫌いになったのもほんと。いまもそう」
「なに、すごい素直じゃん」
「でも、また会えて嬉しかった」
こつん、と額が背に当たる。なにかに縋りたがっている体温が、やっと寄る辺を見つけたみたいだった。
「ずっと会いたかった」
陽介は昔からそうだった。意地っ張りで頑固で負けず嫌いで、誰よりもまっすぐで、それなのに心の内側はあまりにも柔らかい。だからその手を引いてやりたいと思った。それは今も変わっていない。
「あれ、陽介」
このまま絆されてしまおうか、と海の気持ちが傾きかけたその時、ふと陽介の体温がやけに高いことに気付く。陽介が触れているところが温かい。いや、温かいというよりもむしろーー
「もしかして熱ある?」
熱のせいか潤んだ目が、海のことを見上げた。次の瞬間に海の中に浮かんだのは、放っておけない、というただそれだけのことだった。気づけば、陽介の額に手を伸ばしていた。
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