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第21話 過ごした日々(2)

 瞼の裏に直接、熱が落ちてくる。少し熱すぎるくらいのそれを頭から浴びて、潮の匂いとべたつきを洗い流して、やっと冷静さを取り戻せた気がした。  先ほどまでのことを、順に思い出す。    発熱のせいで朦朧とした様子の陽介を半ば強引に家まで連れ帰ったこと。水を飲ませてからベッドに寝かせたこと。毛布が規則正しい呼吸を刻むのをしばらく見守ったこと。眠っている陽介の睫毛が長くて、思わず触れそうになったこと。 「っ……あつ」  シャワーを止めると、不自然なくらいに海の周りは静かになった。心配だったからだ。放っておけなかった。それだけだ。薄っぺらい壁を一枚隔てた向こうに陽介がいる。その事実だけが現実味を帯びていない。この感情ごと、洗い流してしまえたらよかった。  濡れた髪もそのままに部屋に戻ると、きっちりかけたはずの毛布の一部が蹴飛ばされていた。元通りにして、タオルを乗せた額に触れる。氷水で冷やしたはずのそれはもうぬるくなっていた。替えてやらないと。それから、起きた時になにか口にできるように、食べ物を用意しておいてやらないと。できるだけ音を立てないように冷蔵庫に近づくも、中には何もなかった。  ベッドの端に腰掛けて、眠る陽介の顔を眺める。身体はまだ熱を持っていて、定期的にこめかみや首筋に浮かんだ汗を拭ってやった。  こんなにまじまじと顔を見たのは、再会してから初めてかもしれない。目も、鼻も、唇も、あの頃の面影を残しながらも、大人のそれへと変貌を遂げている。海の知らない陽介の時間が刻まれていた。自分で手放したくせに、それがひどく惜しいような気がした。  陽介の住むところからこの街まで、どれくらいかかるのかは知らない。大学や、おそらくバイトもこなしながら毎日のように海の元を訪れるのは、並大抵のことではないのだろう。無理をさせてしまっている、と思った。  ちくりと胸を罪悪感が刺す。同時に、嬉しさのような気持ちが同じところに小さく灯った。こんな感情を、抱いていていいはずがないのに。  そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。ふと、うなされるような気配がして、陽介の眉間に皺がよった。 「いかないで」  掠れた声だった。注意して耳を傾けていないと、思わず取りこぼしてしまうほど小さかった。目の前の海に発しているのか、夢の中の誰かに発しているのかはわからない。縋るような、ちょうど子供が母親に甘えるような声色だった。 「どこにもいかない」  そっと、投げ出された手を握る。体温の高い手のひらが、弱々しく握り返されたような気がした。 「ほら、ここにいる」  そうしていると、陽介の眉間の皺が緩んで、少しずつ規則正しい呼吸が戻ってくる。そのことにひどく安心した。  同時に、胃の奥の方が軋むような気がした。いつの日だったか、同じ言葉で同じように嘘をついたことを、思い出したから。  ふいに泣きたくなった。郷愁にも似ていた気がする。でもどうやって泣けばいいのか、やり方を思い出せなくなっていた。この十年間で、海は自分の気持ちにずいぶんと鈍感になってしまった。 「オレはどこにも行かないよ」  この手を離さないといけない。そう思ってもうまく身体が動かなくて、結局夜の間中、そのままでいた。   **  次の日、まだベッドに横になっている陽介を置いて、昼過ぎからいつも通りに海はケンゴのところに出勤した。しかし、あまりにも上の空だったせいか、一時間ほど店に立った頃にもういいから帰れと追い返されてしまった。海が家に戻っても、陽介はそこにいた。  次の日も、その次の日も陽介はいた。次第に体調は良くなっていったが、追い出すきっかけも理由も掴めないまま、気づけばそこにいるのが当たり前の空気感があって、夏の間中、二人で暮らした。  陽介は海が朝の海水浴の時間に家を出ると着いてきて、浜辺に座ってそれを眺めていた。勤務時間になるとまた黙ってついてきて、あのテーブル席に座ってコーヒーを飲んでいた。いつの間にか、陽介はカップをつまむ仕草も板につくようになっていた。海は多くを語らなかったし、陽介もなにかをあえて海に問いただすようなことはしなかった。  ひび割れた思い出を無理に直すというより、もう一度新しく組み上げるような、そんな時間がそこにあった。四六時中一緒にいたが、夜だけは別の寝床で眠った。 「これなんですか? オモチャ?」 「使い捨てカメラだね。僕らの時代はよくこれで撮ってたけど、今もまだあるんだねえ。懐かしい」 「ふーん。ここ押せば撮れる?」 「うん。室内で撮るならここでフラッシュ焚いた方がいいよ」  ある日の営業中、ケンゴの昔馴染みだという男がやって来た。カメラマンをしているらしい。話の流れで海がスマホを持っていないことが伝わると、彼は残念そうな顔をして、なぜかおもちゃのような使い捨てカメラを海に押し付けた。 「人は毎日いろんなものを忘れていくけど、目にうつるものだけは写真で残せるから」  芸術家らしくそれだけ告げて、男は店を去っていった。  写真を撮られるのが苦手で、それがスマホを持たない理由の一つでもある海にはピンと来なかったが、そのとき頭に浮かんだのはここ数日の、陽介と過ごした日々のことだった。  ふと、視界の隅に陽介の姿がうつる。テーブルの上に飲みかけのコーヒーカップを置いて、小難しい顔して、分厚い文庫本を覗き込んでいる。  海やケンゴの会話などまるで気にも留めていないといった様子でそこにいた。窓から差し込む光がその顔半分を照らして、白く光っているように見えた。そこだけ時間の流れがゆるやかで、止まっているようにすら錯覚する。  気づけば、指先がシャッターを押し込んでいた。ほんの刹那、店の一角がまばゆい光に包まれる。 「うわ、なに」  突然の閃光に迷惑そうな顔をして、陽介が顔をしかめる。 「カメラもらった! 今日から陽介のこと撮る」 「はあ?」 「あれケンゴさん、今撮ったやつはどうやって見るの?」 「ああこれね、すぐには見られないよ。全部撮り終わってから、現像っていうのをしないといけない。ここでフィルム巻いて……そう、あと26枚だね」  ケンゴの言う通りにカメラを操作すると、表示されていた数字が26に変わった。そんな些細なことに少しだけ感動する。撮れる枚数に制限があることが気に入った。すぐには見ることが出来ないというのも良かった。 「なんで俺なの?」 「いーじゃん、なんでも!」  なにかを残したいなんて、思ったこともなかった。考えたこともなかった。  海が死ぬ時に何かを残せるなら、それは陽介がいいと思った。

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