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第22話 言いたくなかったこと(1)

 朝起きると、隣のベッドは空だった。自分の布団を畳んでから、かつて自分の寝床で今は陽介の寝床になっているそこに横になる。体温は残っていない。ずいぶん前に起きたらしい。布団にはかすかに陽介の匂いが残っている。  小さな流しには、昨日の朝に使ったマグカップが二つ。並んで置いてある。昨日もそうだった。それを軽く洗って、布巾の上に伏せておく。  その布巾の横に皿が置いてあって、ラップをかけた白い綺麗な三角のおにぎりが4つ、身を寄せ合うようにして並んでいた。  陽介が握ったのか、とまだ寝ぼけている頭がひらめいた。思わずそれに手が伸びたのと、玄関ががちゃりと開いて外の光が差し込んだのは同時だった。 「あ、こら」 「これうまい。中なに?」 「おかか。もー、せっかく海苔買って来たのに」 「じゃー海苔だけ食う」 「だめ。明日もまた作るから」 「ケチ」  陽介に怒られながら朝食を済ませて、身支度を整え、外に出た。朝の澄んだ空気が胸の中を満たす。いつもの場所に向かう道すがら、くたびれたTシャツ姿の陽介の背中を追いかけた。  近ごろの陽介からは、明日とか明後日とか、そういう言葉が当たり前に出てくる。まるで未来が、絶え間なく続いていくことを信じて疑っていないみたいだ。  少し前を、海の記憶にあるものよりも大きくなった背中が歩いていく。  海はその背中に向けて、カメラを構えた。  無造作な黒髪は、寝癖なのか、風に乱されたのかわからない。  ファインダー越しに見える後ろ姿に向かって、少し迷った後に、シャッターを押した。 **  その日の朝も、陽介はいなかった。  前回と違ったのは、おにぎりの代わりに「一度家に帰る」と走り書きが残されていたことだった。  海はその大人びた字を流し読みすると、そっと流しの横に戻す。ずっと昔から陽介のことを知っているはずなのに、紙の上に書かれたそれは妙に新鮮に見えた。  それからは、いつもと同じ一日が流れた。  泳いで、出勤して、店の仕込みをして、営業して、帰路に就く。ほんの数ヶ月前までそれが当たり前だったのに、陽介のいない世界は少しだけ色を失くして、静かに感じるから不思議だった。  ふと、上を見ると、空の端が赤く染まっていた。ちぢれた雲の隙間から、金色の光が降りてくる。無意識にカメラを構えて、シャッターは押さずに下ろした。今の感情を残したくなかった。 「あれ、寝てたの」 「や、寝そうになってた」  それから数時間後、陽介が帰って来た。鍵の音で、はっとうたたねから目覚める。自分の想定より長く寝てしまっていたらしい。それが恥ずかしくて、たわいのない嘘をついた。 「弁当買って来たの?」  ふと、鼻先をかすめる香ばしい匂いに首を傾げる。 「いや、バイトして来たから。お得意さんにもらった」 「え、陽介バイトしてるの」 「言ってなかったっけ? ウーバー」 「ウーバーってなに?」 「そこから?」  めんどくさそうに陽介は言って、結局それが何なのかは教えてもらえなかった。  どうやら陽介はそのバイトの中で仲良くなった食堂の老夫婦に良くしてもらっているらしい。帰りにいつも陽介の分の弁当を持たせてくれること、今日は海の話をしたら二人分包んでもらえたことを話してくれた。  それがなんとなく気恥ずかしくて、弁当を開ける。焼き魚定食と、しょうが焼き定食。自然としょうが焼き定食の方を陽介に差し出すと、少しだけ怪訝そうな顔をされた。 「陽介こっちでしょ」 「俺、もう魚食べれる」 「じゃあどっちがいい?」 「……しょうが焼き」 「ほら」  そうやってたわいない話をしていると、腹の底に溜まっていたわだかまりが溶けていくのを感じた。それを感じて初めて、陽介の不在が案外堪えていたことに気づいた。 「動かないで」  海の気配に顔を上げかけた陽介を制する。陽介は箸を持って首を傾げた微妙な姿勢のまま止まった。 「なに?」  ファインダー覗く。まつげも、首筋も、指先も、全部が近い。シャッターを押す。少しのひかりが陽介を包んで、そして静かになった。 「こんなの撮っておもしろい?」 「うん」  陽介の箸がもう一度動き始める。一度止まった世界がもう一度動き始めたみたいだ、と思った。海の世界と同じだ、とも思った。思っただけで、口にはしなかった。 「そういえばさ、大学ってそんなに休み長いの?」 「休学してるから。今日手続きして来たとこだけど」  あまり間を空けずに、陽介が答えた。 「休学?」 「大学、しばらく休むってこと」  ちらりと海の方を見て、陽介は箸を止めずに話を進めた。海の手に握られた箸は、とっくに止まっている。 「オレ高校も行ってないから、わかんないけど、大学って入るの大変なんじゃないの」 「別に」  背中に変な汗をかく。動きを止めた海を窺うように、陽介も箸を動かす手をとめた。弁当の中身は、半分以上無くなっている。 「なんか頭のどこかでずっと、勉強で誰かを見返してやりたかったんだと思う。でも、今はそう思わない」 「それって」 「俺が、いまの海といたいと思った。それだけだから」  そう、なんでもないことみたいに言って陽介は、視線を自分の弁当に戻した。つられるみたいに、海も自分の弁当に視線を落とす。  テーブルの端に使い捨てカメラがある。海が残したいと思ったのと、陽介がここに留まっている理由は、同じなんだろうか。 「海は、ここに来るまでどうしてた? 高校行かないで」  先ほどの話題の端を僅かに引き伸ばして、陽介が言葉を繋げた。自立支援施設を出た後、地元の中学に戻ったこと。それから、この街に辿り着くまでの生きているのか死んでいるのかわからない時間のこと。それらが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。 「言いたくない」  自分でも、ぞっとするほど冷たい声が出た、と思った。 「言いたくないなら、聞きたくない」  また興味がない風を装って、陽介がそう言った。建前のようにも、本心のようにも聞こえた。  プラスチック容器の中の魚が、泳いでいた頃の姿になって、海を見上げている。そんな気がした。  その日の夜、気づいたら陽介が隣にいた。  いい加減背中痛いだろ、と陽介が言った気もするし、海がそれに軽口を返した気がする。どちらでもよかった。どちらでもいいきっかけを、二人とも探していた、そんな空気があった。  いつの間にか電気が消えていて、狭いシングルベッドの中で、二人分の体温だけが重たかった。暑くて少し低めに設定した冷房の風が容赦なく肌を撫でるから、余計に互いの体温を求めて肌同士が重なった。 「おやすみ」  言葉が夜の中に落ちて、互いの輪郭をあやふやにしていく。陽介の寝息が少しずつ深くなる。海はその体勢のまま、しばらく陽介と天井を交互に見ていた。  手を伸ばした。指先にカメラの感触があって、気づいたら海はシャッターを押していた。刹那のひかりが陽介の頬を照らして、眩しそうに一瞬だけ眉間に皺が寄った。  朝が来なければいいと思う。  そう思って、陽介の頬に触れた。記憶にあるものより硬かった。 「おやすみ」  今だけはここにいたい。陽介がそう願ったのと同じように。体温の重みを感じながら、海はそっと目を閉じた。

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