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第23話 言いたくなかったこと(2)

 それからしばらくの間、同じ夜が続いた。  並んで夕飯を食べて、交互にシャワーを浴びて、どちらかが電気を消して、並んでベッドに横になる。陽介はいつも海よりもはやく眠りについて、海はその寝顔を眠気が来るまで眺めている。いつのまにか輪郭と夜のあわいが曖昧になって、海も静かに眠りにつく。  その日も、そういう夜のひとつのはずだった。  陽介の丸い頭を、海はじっと眺めていた。まどろみが海のまぶたを重くし始めた頃、陽介が動いた。寝返りとは違う、明確な意思を持って海の方を振り返る。 「どうした、寝れない?」  海の声に、返事はない。  陽介の指先が、海の頰に触れた。まだ触るか迷っているかのような、かすかな怯えがあった。  暗闇の向こうから、陽介の目が覗いている。その瞳の奥にうつる色に、はっと息を呑んだ。  淡い情欲のいろが、たしかに滲んでいる。甘く溶けて、ほしい、と希うようないろ。海はその正体を知っていた。  咄嗟に、身動きが取れなかった。本当は、それを海も望んでいたからかも知れない。陽介の顔がぼやけるぐらいに近づいて、そして唇の先に濡れた感触があった。かちり、と歯先がぶつかる。キスをされている、と認識するまでに少し時間があった。  頬を包んでいた陽介の指が、耳にまで伸びる。その瞬間、なかば反射的に陽介の身体を押し退けていた。静寂が夜を支配する。先にそれを破ったのは、陽介だった。 「……ごめん」  たしかな一線を超えてしまった後悔が、越えることを許してしまった自責が、受け入れた上で拒絶した罪悪感が、海の鼓動を早くさせた。  これ以上先に進めば、自分の中に押し留めていたはずの強い感情が、溢れ出してしまう気がして、戻って来れなくなる気がして、怖かった。陽介に求められて、嫌じゃなかったのが、より海を絶望させた。 「オレも」  そこまで言って、言葉が出てこなくなった。海は何に対して謝りたいんだろう。  陽介はなにか言葉を続けようとして、やめた。それ以上何もせずに、元の場所へ戻った。ふっと糸が切れたように、陽介のなかにある感情が見えなくなる。  天井を見た。いつもと何も変わらない。それは海が望んだことだ。それなのに、唇の先に、陽介の体温がまだ残っている。  その日の陽介の呼吸は、いつまで経っても深くならなかった。  次の朝、陽介は先に起きていた。キッチンでなにかしている音がする。のろのろと起き上がりながら、海はしばらくベッドの中でその音を聞いていた。 「おはよう」  両手に焼けたトーストを持って、陽介がこちらへ歩いてくる。昨夜起きたことは、その顔のどこにもなかった。「おはよう」と返して、差し出されたトーストの片割れを受け取る。  いつもと同じ朝のいつもらしさが、かえって胸の中に小さく刺さった。  ふとカーテンの隙間から差し込むひかりを見つけた。まぶしさに、目が眩んだ。ずっと目を逸らし続けてきたそれに、ついに向き合わないといけない気がした。 **  その日の午後は、客の少ない静かな営業だった。いつも通りあまり来店はなくて、ケンゴは豆の整理をしながらたまに海に雑談を振って、陽介はテーブル席で本を読んでいた。  海はカウンターを拭いて、機器の整備をして、それでも時間を持て余してケンゴにちょっかいをかけていた。 「いらっしゃいませ」  穏やかな日常を切り裂くように、ドアベルが鳴る。  見ると、ショートカットの女性が一人で入店してくるところだった。パンツスーツ姿にトレンチコートを着ていて、どことなく雰囲気が都会的な気がした。直感で、この辺りの人間じゃないと思う。 「ブレンド一つ」  女性はまっすぐにカウンター席に座ると、海に向かってはっきりとした口調でそう言った。淹れている間も監視するような鋭い視線が常に海に付きまとい、 「お待たせしました」  いつもの海の『ファン』の女性たちとも少し雰囲気が違う。女性は差し出されたコーヒーカップに口をつけると、海の視線に気づいてコホン、と咳払いをした。 「間宮海さんですね」 「はあ」 「十年前の児童養護施設での火事について、少し聞かせてもらえませんか」 「なんのことですか」  ぴりり、と空気が張り詰めるのがわかった。その空気に割って入るように、女性は続けた。 「申し遅れました。私、週刊誌の記者をしております。柊菜津(ひいらぎなつ)と申します」  カウンターの上に置かれた名刺を一瞥して、そのまま視線を手元に戻す。 「お話しできるようなことはありません」  こういうことは、これまでも何度かあった。当時の報道では名前こそ出なかったが、海の中学の同級生がネットに上げた写真のせいで、容姿が出回ってこういう輩が簡単に海まで辿り着けるようになってしまったらしい。  今回のようなことがあるたびに、海は住む街を変えてきた。この街に来てからはなかったんだけどな、と小さくため息をつく。 「あなたのこと、調べさせてもらいました。世間で噂されている人格と、間宮海という人格がどうしても結びつかないんです。あの事件、本当は何があったんですか?」  不躾な問いかけに、もはや怒りすら湧かなかった。何度も似たような質問を繰り返されすぎて、まともに取り合う心すら残っていない。ただ事務的に言葉を返す。 「なにも」 「私は真実が知りたいんです」 「オレには関係ないです」  女性ーー柊は、それでも引かなかった。カバンの中から分厚い資料を引っ張り出して、カウンターの上に並べる。さらに海に詰め寄ろうとしたところで、陽介が立ち上がった。 「やめてもらえますか」  突然話しかけられたことで、少なからず彼女は狼狽したらしかった。カウンターからは、陽介のいたテーブル席は死角になって見えない。客は他にいないと思っていたのだろう。 「話したくないこと、無理に聞き出そうとして、何様ですか」  この店に来た日の陽介だってそうだったじゃないか、と笑いそうになるのを噛み殺す。 「失礼ですが、間宮さんとのご関係は?」 「……幼馴染です」 「何も答えなくていいから」 「幼馴染ですか? もしかして同じ施設で育ったとか?」  陽介がしまった、という顔をした。それが余計に柊の好奇心を刺激したらしい。陽介のこういう素直なところはいいところに違いないが、こういう場面では何の役にも立たない。  柊の視線が陽介に移る。値踏みするような目で、少しの遠慮もない口調が陽介に向かって放たれる。 「お名前は? 少し当時のお話を伺っても?」 「こいつは関係ないから。お姉さんが話聞きたいのはオレですよね」 「じゃあ話してくれるんですね?」 「それは」 「あの事件のことを知って、思いました。もしこの少年に信頼できる大人が一人もいなかったとしたら? 世間で揶揄されるような、良心の欠けた子じゃなかったとしたら? 私は真実を伝えて、かつて子供だったあなたを守りたいと思ったんです」  早口で紡がれる言葉と、凄みのある表情に、少し怯んだ。同時に、これまで接してきた記者たちとはなにかが違う、という予感が頭の隅をかすめる。ただ、それは海が重い口を開く決定打にはならなかった。 「それは同情と何が違うんですか?」  初めて、柊の瞳が揺らいだように見えた。 「オレは一度も、守られたいなんて思ったことない」 「間宮さ……」 「本当に、話せることは何もないです。もう帰ってください。ここにも来ないで。そっとしておいてください」  重さを持った沈黙が、あった。柊は海の顔を見て、陽介の顔を見て、カウンターの上に散らばった書類をバッグの中に押し込んだ。  一口しか口をつけていないコーヒーを一気に呷った。 「コーヒー、美味しかったです」  それだけ言って、彼女は出て行った。コツコツとヒールの鳴る音がたしかに遠ざかって、それで身体中から力が抜けた。  裏から様子を見にきたケンゴに「なんでもない」と返して、カウンターの椅子に腰掛ける。膝から下がガクガクと震えた。 「海」  陽介が心配そうな顔で隣に腰を下ろす。それにへらりと笑って、海は視線をカウンターの木目に戻した。 「陽介、スマホ持ってる?」 「え? うん」 「間宮海で検索してみて」  ポケットから光る板を取り出した陽介は、海の唐突な申し出に不思議そうな顔をしながらもそれを操作した。そして、すぐに指先が止まる。 「こんなの、全部デタラメだろ」 「そうでもないよ」 「こいつらなにもわかってない」 「そう、なにもわかってない。わからせようとするのも面倒。ってか、できないし。だからオレが、何も見ないようにした」  はじまりは中学生ぐらいの歳の頃、たまたま海の事件を知る同級生に出会ったことだった。それまでは、上手くやれていたと思う。多感な時期の子供特有の残酷さで、海に関する噂はまたたく間に広がった。  海の容姿のせいで生まれた嫉妬や羨望、それに伴う恋慕と失望も手伝って、あることないこと噂された。海自身も当時は一人の子供で、どうしようもなかった。  それがいまだに、ネット上に残っている。顔写真も散々撮られたせいで、いまだに過去の面影に付き纏われている。あと20年くらいしたら顔が変わって、声かけられなくなるかも、と冗談めかして笑うと、それに対して陽介は顔をしかめた。 「なんで陽介が泣きそうなの」 「悔しくて」 「陽介は、優しいね」  そう口にしてから、今のは、陽介を突き放した、とはっとした。  間もなくして、ケンゴが店内の仕事をしに戻ってきた。二人の間に流れる重苦しい雰囲気と、先ほどの客のことを尋ねられて、首を振る。ケンゴは「喧嘩するなよ」と呆れたように口にした。  いつまでも、このままじゃいられない。柊が置いていったカップの底が、鈍く光っていた。

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