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第26話 澱み(1)
それから、夜が来るたびに抱き合った。
もがけばもがくほどに抜け出せず、絡まり合ったまま沈む。どこにも行けない夜がぬかるみになって、二人ぶんの身体を蝕んでいく。そんな夜が、いくつも続いた。
喫茶店が休みの日には、一日中ベッドにいたこともあった。陽介の背中に縋っているときだけ、うまく呼吸ができた。
このままではいけない。そんなことは何度も思った。この生活が長く続くわけではないと分かりながら、その心地よい退廃に身体ごと堕ちていきたいような、そんな空気があった。
***
夏が終わって、秋が来た。
陽介はまだ海のそばにいた。
「陽介くん、バイクいらない?」
ある日の営業中、ふと暇を持て余した陽介を見て、ケンゴが言った。これまでもたびたび海に押し付けようとしていたあのバイクのことだ。
「俺、免許持ってないっすよ」
「中型二輪なら、三週間もあれば取れるよ」
「いやいや、ケンゴさん、いくら廃車にしたくないからって、陽介に押し付けないで」
「でも陽介くんいま暇でしょ? 取っちゃいなよ」
陽介がバイクに乗っている姿が、まるで想像できない。てっきりすぐ断ると思っていたが、意外なことに少し悩んでいるみたいだった。
「え、うそ。陽介、免許取るの?」
「俺、ウーバーやってるから、バイクあったらいいなってずっと思ってて」
「ああ、それなら緑ナンバーに変えないとね。名義変更するときに一緒にやるといいよ。僕もついていくし」
「ねえ、だからウーバーってなに」
「一年経てば二人乗りできるよ。後ろ乗せてもらいな」
「……え、まじ?」
二人乗り、という甘美な響きに、思わず反応する。もし、陽介の運転するバイクの後ろに乗って、海岸沿いのあの気が遠くなるほど長い道を、走れたら、どれだけ気持ちが良いだろう。
似たようなことを考えていたのか、その瞳の奥に胸の高鳴りを滲ませている陽介と、目が合った。
「する? 二人乗り」
はにかんだようにそう言った陽介の問いかけに、思わず頷いていた。
「一年、待ってて」
「そっか、一年待たなきゃいけないの」
未来の話を、陽介としたのは初めてだった。過去も未来もいらない。そんな諦観を持っていたのが、途端に少し恥ずかしくなった。
すぐに陽介はバイクの免許を取るために教習所に通い始めて、10月の中旬ごろに無事免許が取れた。その頃から陽介は練習だと言ってバイクに乗って一人でどこかへ行くことが増えた。海は営業中、ぽっかりと空いたテーブル席を見るたびに、物足りないような、調子が出ないような気がした。ケンゴに「それは寂しいってことだよ」と言われるまで、その感情を忘れていたような気がする。
それでも、陽介は必ず海の待つ場所へ帰って来た。
短い秋が終わって、冬が来た。気づけば年が変わっていた。陽介はまだ、いた。冬の間、特別変わったことは起こらなかった。雪が降ることも滅多にない街で、冷たい空気の中に、穏やかに二人分の時間が溶け込んでいた。
その男が店に来たのは、空気の中に春の匂いが混じり始めた頃だった。
ドアベルが鳴る。数人分の人間の足音と話し声が聞こえてきて、作業の手を止める。瞬間。足元から冷たいものが這い上がって来るような気がした。身体がうまく動かない。喉が固まって、声が作れない。心臓が、嫌な音を立てる。
男は店内をぐるりと見渡すと、壁際の空いているテーブル席に向かった。隣には女と、少年がいた。三人は仲睦まじそうに会話をして、メニューが配られるのを待っている。海の存在には、まだ気づいていないようだ。
心臓が、嫌な音を立てる。
「うみ? メニュー、持っていかないと」
ケンゴの声に、はっと我に返った。
「あ、うん。ぼーっとしてた、ごめんなさい」
ふらふらとカウンターを抜けて、テーブル席へ向かう。途中、足が絡まって、カウンター席の椅子を思い切り蹴飛ばした。鈍い音が店中に響いて、BGMをかき消した。店内の視線が五つ、海に集まる。ケンゴと、陽介と、男女と少年の視線だ。
「失礼しました。こちら、メニューです」
男の顔が、じっと海の顔を見た。一瞬だけ、視線が混じる。そして男は何事もなかったかのようにメニューを受け取り、「ありがとう」とだけつぶやいた。
記憶の中と同じ、男の声、男の顔。記憶と違うのは、その顔に大きな火傷の傷があることだ。
気づかれなかったのかもしれない。
「すみません」
海が小さくため息をついたのと、その背中に声がかけられたのは、ほとんど同時だった。
「ブレンドのコーヒーひとつと、カフェラテ。あと、この子が飲めるものありますか?」
年は、十歳ぐらいだろうか。物珍しそうに店の中を、くるくると見回している。
「オレンジジュースか、リンゴジュースがあります」
「どっちがいい?」
「オレンジジュース!」
「かしこまりました」
「それにしても、ひさしぶりだね。こんなところで会うなんて」
それは、あまりに自然なやりとりだった。
メニューを下げようとした海の手に、ほんの少し、男の指先が触れる。気味が悪いほど体温を感じない手だった。思わず振り払いかけて、女の視線に気づき、寸前で堪えた。女は男と海の顔を交互に見ると、ぱっと表情を明るくした。
「あれ、生徒さん?」
「いいや違うよ。この子は、僕が昔少しだけ働いていた児童養護施設の子で」
「先生は、先生になったんですか」
男の目が、すっと細くなる。まるで、なにかを牽制しているみたいだった。
「いまは、小学校の先生をしている。彼女とも、そこで出会ったんだ。この子は、彼女の連れ子でね。今度、再婚する」
ゆっくりと語られる男の言葉の一つずつが、石の塊みたいに海の腹の底に沈んでいく。まるで、幸せそうな家族の姿だ。背中に、変な汗が滲む。
呼吸が少し浅くなる。子供は、男の子で、歳はちょうど、海がこの男と出会った頃と同じくらいだ。
そんな風にぼんやりした思考に沈みかけた時、後ろから陽介の弾んだ声がした。はっと我に返る。
「やっぱり坂木先生ですよね」
「ああ、きみは……陽介くん?」
「はは、覚えててくれたんですか?」
「当たり前じゃないか」
陽介と男が再会を喜んでいる声が、遠くに聞こえる。指先に、全く力が入らない。どうやってカウンターまで戻ってきたのかすらわからない。
『海』
若い男の声が、耳の奥でこだまする。
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