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第27話 澱み(2)

 坂木は11年前、陽介と海たちが暮らしたあの街に、児童養護施設の臨時職員としてやってきた。若い男の先生は珍しいから、みんな大好きだった。坂木が来たおかげで人手が増えて、だからあの日、みんなは揃って花火に行けた。  あの日。施設に残っていたのは、陽介と、海と、坂木だった。  ちらりと、嬉しそうに顔を綻ばせる陽介を横目で見る。陽介にとっては、ただの恩人だ。陽介は、なにも知らないから。そうなるように、海がした。 「観光ですか?」 「彼女がこの街の出身なんだよ。今日は結婚の挨拶に」 「俺は……ちょっと色々あって、いまはここで、海と暮らしています」 「海と?」  坂木の視線が、海の方に向けられる。思わずびくりと身体が跳ねる。会話の内容を聞いていないふりをしてコーヒーを淹れた。 「それ、持ってくよ」  淹れ終わったコーヒーの黒に自分が映っていた。それを横から、ケンゴが攫っていく。  陽介と坂木は、続けて二言三言言葉を交わして、会話に一区切りつけたようだ。席に戻った陽介が閉じていた本を開きなおす。紙の擦れる音が、小さく響いた。 ***  二人が店を出たのは、それから一時間ほど経った頃だった。ドアベルの音を聞きながら、のろのろと手足を動かす。二人分の空の食器が並んだテーブルにはまだあの男の気配が残されていて、片付ける手が止まった。 「海、なんで先生と話さなかったの」 「なんでって、オレは仕事だから」 「仕事って、いつもはあんなに喋ってるのに?」  決して責めるような言い方ではなかった。いつもの軽口の延長の、冗談めかした言い方だった。  陽介の、無邪気とも無神経とも取れる口ぶりが、海の神経を逆撫でした。 「うるさいな」  自分でもびっくりするぐらい、低い声が出た。陽介が予想外の反応に目を丸くする。ケンゴすら、カウンターの中で作業をしながらこちらを気にしている。それでも、一度昂った感情は簡単に鎮まらなかった。 「俺、そんなつもりじゃ」 「ほっといて」 「怒ってる?」 「怒ってない」  怒っているのか、悔しいのか、悲しいのか、自分の感情が自分でわからない。誰かを責めるのも、なにかを期待するのもやめたはずだった。  それなのに、よりによって坂木の幸せの象徴みたいな姿に、こんなに動揺している自分がいる。 「ごめん、ほんと、怒ってないから、ちょっと疲れてんの。そっとしといて」  未だ手付かずのテーブルに向き合う。空になったカップとグラスを持ち上げようとして、気づいた。  ちょうど、坂木が座っていたあたりに、白い封筒がある。手紙のように見えた。 「なんだそれ、先生の忘れ物……?」  伸びてくる手を、反射的に払いのけていた。陽介はむっとした顔を隠しもせずに、海を睨みつける。 「さっきからなんなんだよ」  なぜそうしたのか自分でもわからなかった。どきりと、心臓が嫌な音を立てる。  宛名も、何も書いていない、さらりとした白い封筒。少し重みがあって、封はされていない。  考えるより先に、開けていた。  写真だった。青い目をした子供の写真。 「ッ……」  痛みにか、恐怖にか、それ以外にか、潤んだ目が、真っ直ぐにこちらを見つめている。白い肌が、ざらついた印刷面のほとんどを占めている。そんな写真が、五枚ほど続いた。 「見るな」  覗き込もうとした陽介の身体を、ほとんど突き飛ばしていた。陽介は苛立ちを越えて、呆気に取られている。 「海、大丈夫……?」  息が荒くなる。頭の中が真っ白になったり、真っ黒になったりする。吸い込んだ空気が鉛みたいに重くて、反対に手足は重力を失ったみたいに軽い。崩れ落ちそうになった身体をなんとか支えると、次に訪れたのは猛烈な吐き気だった。  口を押さえてトイレへ駆け込む。腹の底から迫り上がってきたそれは一度引くと、波のように再度押し寄せた。何度かそれを繰り返して、海はやっとのことで全てを内側から排出した。  目の端に生理的な涙が浮かぶ。口の中が苦い。  これは、紛れもなく海の写真だ。  下半身の力がすっかり抜けて、その場にずるずると座り込んだ。床のリノリウムが、やけに冷たい。それだけが、現実の温度感を保っている。 『きれいだね、海』  また、男の声が頭の中に響いた。 「いやだ」  唇の端を噛む。強く噛みすぎたのか、血の味がした。吐瀉物の味と混ざってすぐにわからなくなる。 「やめて」  十年も経ったのに、まだ坂木はこれを持っているのか、とか。なんで今日だったのか、とか。まさか、毎日持ち歩いているわけがないだろうに、本当は海のことを知ってこの場所に来たんじゃないか、とか。いろんな考えが浮かんでは消えていく。その中で一つだけ確信を持ったのは、坂木がこの写真を利用して海を脅迫しているということだ。十年前と同じように。 『誰かに話したら、海の恥ずかしい写真、みんなに見せちゃうからね』  これは、ひかりに、手を伸ばしてしまった報いなのか。汚れてしまった自分が、過去を清算した気になって、陽介の腕の中に抱かれたいと祈ったせいなのか。そういう、罰なのか。  先程からずっと、息を吸っているのに、吐くことがうまくできない。肺と頭に、酸素ばかり溜まっていく。唇が痺れて、指の感覚が、遠くなる。自分の身体なのに、少しずつ借り物になっていくような感覚があった。  男の声、視線、肌の温度、身体の痛み。それから、ぎょろりとこちらを見つめてくるレンズ。頭の中に、鮮明にあの頃の記憶が刻まれていく。  十年。忘れるには、十分な時間だと思っていた。身体は大きくなった。声も太くなった。それなのに。海の身体に植え付けられた恐怖心は、ちっとも薄くなってはいなかった。  海の心は、あの頃からなにも変わっていない。そうまざまざと思い知らされたような気がした。 『ほら、こっち向いて』  甘ったるい男の声を聞きたくなくて、耳を塞ぐ。  膝を抱えて、そこに額をつける。そうすると、少しだけ気持ちが楽になる気がした。

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