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第28話 誰も知らないままでいて(1)

 顔を上げる。狭いトイレの個室の中で、ケンゴの趣味で置かれたおもちゃみたいな時計が、カチカチと時間を刻んでいる。それを聞いて、海はやっと自分の時間を取り戻せたような気がした。  洗面台で口を濯ぎ、ついでに顔を洗い、両頬を叩く。鏡の奥の海は疲れた顔をしていたが、無理に笑みを形づくる。  坂木が来た。それだけのことだ。これまでの日常がなくなるわけじゃない。これから先も、この街での海の日常は何も変わらない。 「ごめんごめん、ちょっとお腹痛くて、昨日食べ過ぎたかなー」  取り繕うように喋りながら、ドアを開ける。ドアの前に、陽介が立っていた。手には、写真を持っている。写真。思わず封筒の中身を確認すると、そこには四枚しかなかった。 「これ」  一度動き始めた針が、またゆっくりと止まる。  そのまま二人とも、動かなかった。陽介の顔が、見たことのない色に変わる。怒っているのか悲しんでいるのか憐れんでいるのか、よくわからない表情だった。  なにかを噛み砕きたくて、それが出来ないような、したくないような顔だった。 「落としたから、拾っただけで」 「わかってる」 「見たかったわけじゃ」 「わかってるから」  陽介の手の中から、ひったくるように写真を奪う。写真の中の自分が、非難するような目でこちらを見ていた。封筒を乱暴に下穿きのポケットに押し込む。音もなくひしゃげて行ったが、どうでもよかった。  喉の奥が、ひどく冷たかった。 「海、俺、俺……何も知らなくて」 「なにが?」 「だから」 「陽介は何も見てない。何も知らなくていい。もう十分でしょ。これでもまだ、知りたいって思う?」  陽介は、なにも答えなかった。瞳の中の小さなひかりが、自信をなくしたように揺れている。そのことに、少しだけ落胆する自分がいた。 「二人とも、今日はもう帰りな」  洗い場から顔を上げずに、ケンゴが言った。  海は、封筒の所在を確認するようにポケットを撫でて、エプロンを脱いだ。陽介も黙って立ち上がり、空のコーヒーカップをケンゴの元に返却する。 「ケンゴさん、ごめん。ありがとう」  海の感謝と謝罪に、ケンゴは黙って頷いた。 ***  夜が、いっそう深かった。  窓枠から見える夜空は、黒というよりも紺色に思えた。星がまばらにちらばって、ところどころ空を小さく照らしている。透明なガラスの向こう側にある夜空に、あと少しで手が届きそうだった。部屋の中の方が暗いぐらいだった。  昼間の重さを引きずったままの夜の中で、ただ、息をしている。隣に横になった陽介も同じだった。  眠れないのは同じだった。それでも、言葉を交わさなかった。なにか発すれば、そこからひび割れて壊れてしまうような気がした。  深い夜の中で、自分のことを考えた。記憶の奥底に押し込んだ幼い自分が、責めるような目でこちらを見上げているような気がした。  うまれた時から、親がいなかったこと。小さな家の中でのささやかな時間の流れのこと。先生が触れた手のひらが、汗で湿っていたこと。陽介が隣にいたこと。自分の中でなにかが壊れる音と、木が燃えるにおいのこと。  頭の中をぐるぐると、何度もそれが繰り返し流れていった。メリーゴーランドみたいだ、と思った。  そんな時間が、どれくらい続いたんだろう。 「知りたいよ」  最初に夜を割ったのは、陽介の方だった。  昼間の続きだ、とすぐにわかった。陽介がみじろぎして、海の方を向く。ベッドのスプリングが少し軋んだ。腹の内側にあったなにかを、消化し終えたような音だった。頬に視線を感じて、目を閉じた。 「知りたい、海のこと」  巡る記憶の中に、陽介がいた。それだけで、泣きたくなった。全部捨てたくて、見ないふりをしたぐちゃぐちゃの記憶の中で、それだけが宝物みたいに輝いていた。 「海が言いたくないなら、聞きたくないなんて、かっこつけて嘘ついた。ほんとは、ずっと、自分勝手に、海の全部を知りたいって思ってる。それが、海を傷つけるってわかってるのに」  知りたいって気持ちが、止められない。  そう呟いた陽介の声は、少し震えているように聞こえた。海はその声を聞いて、ふっと笑った。自分はつくづく、陽介に甘い。 「場所、変えようか」  提案したのは海だった。このベッドの上も、この部屋も、これから海が語ろうとしている記憶を伝える場所にするには、あまりに優しい記憶が多すぎた。 ***  海に来た。この街に、夜に駆け込めるような場所はない。だから二人で並んで、波音を聴いた。世界は空気を読んだように静まり返っていて、もう少し騒がしかったら言い訳も思いつくのに、と思った。   「初めて触られたのは、先生が施設に来て、すぐぐらいのときだったかな」  陽介は石のように黙りこくって、海の話を聞いていた。足の隙間に細かな砂が挟まって、こびりついている。そのことが、陽介の反応よりも気になった。 「それがどういうことなのか、だいたいわかってた」  陽介がこれを聞いてどう思うとか、知られたくないと意地になっていたこととか、どうでもよくなるくらいに心が静かだった。 「なんで、誰にも言わなかったの」 「写真、撮られてたし。他の人に知られたら恥ずかしいことだってわかってた」 「じゃあ、なんで、遠くに逃げなかったの」 「先生がオレのこと、好きって言ったから」  身体の末端から体温がなくなって、感情ごと、感覚が麻痺していく。そうやって少しずつ身体と感情と感覚を切り離すと、次第に何も感じなくなる。 「好きだからこういうことするって。オレが拒んだり他の人に言ったら、他の子供のことも好きになるって。好きって、そういう気持ちのことを言うんだって」 「そんなの」 「オレ馬鹿だから、その言葉そのまま信じたよ」  陽介が、ぎゅ、と拳を握りしめるのがわかった。怒りなのか、不安なのか、それ以外なのか、海にはわからなかった。きっと海の中から抜け落ちてしまったなにかだと思った。 「海が、ずっと、犠牲になってたってこと」 「ううん、違う」 「海が嫌な思いして、それで俺たちは何も知らないで笑っていられたんだ。それなのに、俺は、俺たちは」  陽介の拳が、砂浜を力強く叩いた。自分の中にある憤りを、やっとのことで外側に放出しているみたいだった。なんども、なんども細かく繰り返される怒りは、本当は拳の振り下ろす先を見失っているだけなんじゃないか、とぼんやり思った。 「なんで、逃げなかったんだ。ひとりで、せめてあの場所から逃げれば、あんなことしなくて済んだんだろ。そうしたら、今だって」 「それは違うよ、陽介」  ああ、ちゃんと、本当に全てを話さないといけない。海の中のいちばん柔らかくて、いちばん痛くて、いちばん大切な気持ちのことを。  このまっすぐな感情を、こんなもののために使うのは勿体ないから。 「オレが、自分で選んだ」  陽介の拳の上に、手のひらを重ねる。砂にまみれたせいで、ざらついていた。ちら、と怒りで暗く濁った陽介の目がこちらを見つめた。

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