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第29話 誰も知らないままでいて(2)

「オレね、あの頃、陽介が好きだったよ」  簡単に言ったつもりだった。  口にしてから、自分の声の震えに気づいた。自分の声が自分のものじゃないみたいだった。  喉の隙間からやっとの事で絞り出したみたいな、かすれた声だった。それなのに、媚びるような甘い響きも宿している。 「え?」  陽介の瞳から、す、っと暗い色が消えていく。代わりに光が灯る。ちょうど、夜の中で光っている灯台みたいだと思った。   「あのね、陽介。オレは陽介が思うような人間じゃない」  あれは、みんなを守りたかったとか、そんな都合のいい思いじゃなかった。 「オレの好きは、先生の好きと同じだったよ」  陽介を、坂木が海を見る時と同じ目で見ている自分に気づいた。気づいてしまったら、途端にすべてが恐ろしくなった。 「頭の中で、何回も何回も想像した」  目の前が暗くなる。少しずつ、過去に引き戻される。隣にいるはずの陽介の気配が小さくなっていく。 「そのたびに、自分が嫌になって、だから」  あの日、あの月の出ない夜。  行かないでとすがる陽介の声に、同じ欲を感じた。その瞳に灯る憧憬の中に、同じひかりをみた。うれしかった。陽介が同じ気持ちでいてくれたことが。くるしかった。陽介をあさましく求める自分がいることが。 「もう、陽介のそばにいない方がいいと思った」  このまま一緒にいたら、いつかその幼い気持ちを利用して、自分の欲を満たしてしまいそうなことが怖かった。そうやって自分が最も嫌悪するやり方で、陽介を傷つけてしまうのが怖かった。 「だから、火をつけた?」  陽介が言った。これは震えていなかった。  それはまるで悪いことをした幼子をたしなめるような。戸惑いを孕んでいて、同情するような、憐憫に似た感情を宿していた。  海は、小さく頷いた。 「全部燃やすしかないとおもったよ。そうしたら、ついでにあの写真も燃えて、先生も燃えてくれると思った。……うまくいかなかったし、結局陽介も傷つけた」  全部上手に捨てたつもりだった。  名前も、過去も、未来も、綺麗に捨てられたつもりだった。でも。陽介が呼ぶ「海」という響きが心地よくて、陽介と過ごした幼い記憶が愛おしくて、陽介が隣にいる未来を、想像したくなってしまう。 「海と同じものを見てきたつもりだったのに、見えてたものが、こんなに違う。結局俺は海のこと、何も知らない」 「何も知らなくていい」 「好きだから、全部知りたいって思う。海は、違う?」  ゆっくりと首を振る。知りたいと知られたくないは、たしかに同じ感情を指しているのに、こんなにも決定的に、違う。陽介と海の交点はいまこの瞬間で、これから先は、もう交わらない。 「オレはずっと、ずるくてきたなくて弱虫で、なにもかも全部中途半端で、こんなカッコ悪いオレ、陽介には知られたくなかったよ」  陽介の目が、また少し翳った。その頭を、子供をあやすように撫でた。その目尻に、きらきらとしたなにかが溜まっていく。 「誰も知らないままでいてほしかった」  海の言葉を聞いて、唇が少し歪んだ。  それを見て、キスがしたい、と思った。そう思った自分のことが、やっぱり許せなかった。 「俺はこの半年間、海を傷つけてた?」  海は、肯定も否定もしなかった。陽介はその沈黙を、肯定と受け取ったらしい。 「もう、ずっと前から、何も感じない」  少しだけ、自分に嘘をついた。  真っ暗だった空の端が、薄青く透き通り始めた。月明かりと夜明けのかけらを拾って、凪いだ海がかすかに仄めいていた。  隣に並んで、空が少しずつ明るくなっていくのを眺めていた。 「カメラ、貸して」 「え」 「たまには、俺に撮らせてよ」  ポケットから取り出したカメラの残り枚数を見ると、あと一枚だった。残された時間へのカウントダウンみたいだ、と思った。  手渡す時、かすかに指先が触れ合った。  レンズは、少しの迷いもなく朝焼けに照らされた波の方へ向けられた。その迷いのなさが、羨ましいと思った。 「これでいいのかな」  陽介の指先がシャッターを押し込む。かちり、と乾いた音がして、それで、最後の一枚だった。からからとダイヤルを回す音が、いつまでも名残惜しそうに響いていた。     朝焼けに、雫がきらめく。砂が白く光っている。鼻先に、やわらかな潮の香りが流れてくる。いつも通りの、なんの変わり映えもしない朝だった。 「オレは、陽介と過ごしたこの半年の記憶だけで、これから先、ずっと生きていけるから」  陽介の目に映るものと同じものを、見てみたいと思った。でも、海の目と、陽介の目は違うから。海の人生と陽介の人生は違うもので、もう混ざらないから。  ここで全部終わりにして、これから先の陽介の人生はきれいなものだけを写して欲しいと思った。だからやっぱり、全部ここで終わりにするべきだと思った。 「陽介、お願いだから、オレを忘れて」  全部、忘れて欲しかった。それは、海が放った呪いだった。  その日の朝のうちに陽介は、あの青いバイクに乗って街をあとにした。  陽介と暮らした半年間は、そうして終わった。 ***  全てを話し終えて、海は小さくため息をついた。窓枠の奥から細かな日差しが射し込んでくる。もう朝になっていそうだった。雨は止んでいた。  腰を上げて、キッチンに立つ。長い間同じ姿勢でいたせいで、指先が冷たくしびれていた。眠気はなかったが、コーヒーでも淹れようか、と豆の入った瓶を手に取ろうと背伸びした時、その隙間から何かが落ちた。それはあの日、坂木から受け取ったあの写真だった。  中身を開きかけて、やめた。そこには、海が知られたくない過去の全てが詰まっている。すべてここから始まって、ここから終わった。どこにもやる当てがなくて、棚に押し込んでそのままにしたものだ。  指が無意識に、コンロのスイッチを押し込んでいた。チチチ、と小さな音がした後に、青い火が立ち上がる。便箋の隅をそれにかざすと、じりじりと音を立てて火が移る。  子供の時に火をつけたみたいに、全部燃えてしまえばいいと思った。でも、便箋自体が燃えにくい素材なのか、それは叶わなかった。 「わかんないよ、陽介」  泣きたかった。泣けなかった。  全部終わりにするために陽介を追いやって、その帰り道、陽介は事故で記憶を失った。火事の日と同じだ。海のつけた火で陽介が火傷を負った。海の願いは、いつも陽介を傷つける。  それなら、やっぱり。  海は火のついた部分を水で湿らせると、元通りの場所にそれを押し込んだ。そして、陽介が眠るベッドの方を振り返らずに、部屋をあとにした。

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