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第30話 夜明けのひかり(1)
いつの間にか、雨は止んでいた。
額のあたりに海の体温が近づいてきて、結局触れずに離れていく。そんな気配があったあとに、静かに、扉が閉まる音がした。
まだ耳の奥に、海の声が残っている。
『今度こそ、全部忘れて』
なぜ、海がそんなことを言ったのか。すべては、陽介がなくした半年間にあった。
心地よいまどろみに落ちかけた時、海の声が響いてきた。はじめは子守唄のようだったそれは、気づけば陽介の失った半年間のことを話していた。
陽介が、海を見つけて喫茶店を訪ねたこと。二人で過ごした、あたたかな日々のこと。痛みを交えながら、身体を重ねたこと。そして海の過去の告白のこと。その過去を受け止められなかった自分が、海との未来を手放して、街をあとにしたこと。
海が、陽介が全てを忘れることを、望んでいたこと。
すっかり目は覚めていたが、海の口から語られる記憶に聞き入っているうちに、起きるタイミングを失ってしまった。
自分の身に起きたことなのに、海の言葉を介するだけで、まるで遠い世界で起きた出来事みたいだった。
「海、俺は、どうしたらいい」
海は、忘れて欲しがっていた。なのに、切実そうに言葉を紡いでいた。陽介が忘れていた、半年間の記憶。それはひたすらに苦しくて、つめたくて、それなのにほんのりとあたたかく熱を持った、痛みの記憶だった。海の口からもたらされた吐露を、すぐに受け止めることが出来なくて、ただ息をした。
「どうしたら」
きっとこんな風に衝撃を受けるのも、本当は二度目なんだろう。なにも覚えていない自分のことが、情けなかった。
好きだ、と言うことも、その背中を追いかけることも、全部が海を追い詰めるような気がした。たくさんある選択肢のうちで、いまの二人にとって唯一の正解が、あの日の陽介がしたように荷物をまとめてこの家を出ていくことなんだとしたら。そうして海が望んだ通りに全て忘れて、別々の道を歩むべきなんだとしたら。
ふと視界の隅に、四角いものが見えた。
テーブルの上に、海 がある。あの写真だ、とすぐにわかった。27枚のフィルムで撮られた、最後の一枚。指先で触れると、ひんやりと冷たかった。
陽介のショルダーバッグにずっと入れていたもの。海も、これを見つけたんだろうか。
失くした記憶の中の、最後のひとかけら。それを目にして、あっ、と声を出した。
小さな違和感はひらめきになって、やがてわずかな希望になって陽介を包んだ。
「違う」
動悸が速まる。かすかに、呼吸が乱れる。
あの日、陽介は海岸で海と話をして、この写真を撮った。きっと最後にするつもりで。そして、バイクに乗って、この街を後にして、自分の街に帰る途中に、事故に遭った。
と、海は、そう信じている。自分が陽介を突き放したせいで、事故が起きたと。
でもそれが間違いであると、確信めいたものが胸の中に生まれた。
事故に遭ったのは、3月20日。陽介の誕生日。
『3月19日に、同じものを現像されていますよね』
『復学の手続きはもう終わってますよ』
退院の日の記憶が、陽介に一つの矛盾を突きつける。
「海のせいじゃない」
つぶやいた言葉は、想像よりもずっと力強く陽介の心を励ました。
海と坂木のこと。海が施設に火をつけたこと。海の中にある怯えのこと。拗れてしまった二人の未来のこと。解決すべき問題は山積みで、どこから手をつけるべきか想像もつかないが、ひとつだけ、この小さな誤解だけは、たしかな証拠を持って解消することができる。
あの日の陽介は、まだ諦めていなかった。
どんな形でかはわからないが、海との未来を、まだ繋ごうとしていた。
写真を現像して、復学の手続きをして、また、海に会いに行こうとした。そして、海のもとに向かう途中で、事故に遭った。落ちていくんじゃなくて、浮かんでいくような。そんな未来を描こうとしていた。
だったら、今の陽介がそれを諦める理由なんてない。
弾かれたように立ち上がる。興奮で震える手を無理やり押さえつけて、ショルダーバッグに写真を詰め込む。小さな希望の糸口を、離さないように強く握りしめた。
***
考えるより先に、身体が動いていた。目覚めかけている街の風景が、勢いよく背後に流れていく。こんな風に必死になって走ったのは、いつ以来だろう。
肺が膨らんで、脇腹が軋む。力強く踏み締めたせいで、足の裏が痛い。それのどれも、陽介の足を止めるには至らなかった。鼻先に潮の香りがして、もうすぐだ、と思った。こめかみを汗が滑り落ちる。
砂浜の上に、自分の足が沈み込む。肩で大きく息をして、乱れた呼吸を整える。頬が熱いのは、走ったからだけではなかった。光が、眩しいくらいに差し込む。
朝だ。
まだ、夜の眠さを引きずった空の中に、鮮やかな刃のような暁が差し込んでいる。手元の写真を取り出して、目の前の景色と見比べる。同じだった。あの日見た朝と同じだ。全てこの場所から始まって、ずっと、続いている。
「海!!」
息を大きく吸って、声を張り上げた。自分の身体のどこからそんな音が出るんだろうと思うくらい大きい声が出た。鼓膜がびりびりと震える。
その場所に、人影はなかった。だが、海はここにいる。心の中心にある、そんなたしかな確信が陽介を突き動かした。
「海、出てこい!」
「陽介?」
二回目に声を張り上げた瞬間、背後から、それもかなり近い場所から声が返ってきて、思わず面食らった。
海は、いた。濡れた色素の薄い髪が、顔に張り付いている。波からそのまま切り抜かれたみたいな肌の白さが、朝の光を反射している。唇は海水に浸かっていたせいか、色をなくしている。
ほんの少しの気恥ずかしさを隠すように海の腕を掴むと、ひんやりと冷たかった。ぞっとするほど冷たいが、そこにあった。
「なに、どうしたの?」
海が、困ったように笑った。また、笑った。海はいつでも笑っていた。そんな風に自分を傷つけないでほしいと思った。
「え、ほんとになに」
掴んだ腕をそのまま引き寄せて、海の身体を抱き寄せる。海の肌を濡らしていた海水がそのまま陽介の服を湿らせたが、気にならなかった。
潮の匂いが、身体に染み込んでいくのは悪い気はしなかった。
『お前といるのは、苦しいよ』
今夜の海の言葉が、頭の中で響く。それを反芻するように、陽介は口を開いた。
「海は、俺といるのが、苦しいって」
「そうだよ」
「俺も、海といるのは苦しい。海と一緒にいてもなにもしてあげられないどころか、ずっと海を苦しめてた。半年前も、今も」
ぴくりと、海の肩が震えた。青い目が、少しだけ動揺するような色を滲ませた。
「起きてたんだ」
「全部聞いてたよ」
「思い出したの?」
海が陽介の身体を突き放そうと身を捩る。それを引き止めるみたいに、腕に力を込める。
「思い出してない。でも、知ってる」
背中に回した指先に、火傷の痕が触れる。服の上から、その凹凸のかたちを確かめながら、深呼吸をした。胸が、新しい空気を吸い込んで大きく膨らむ。
「海の過去も、全部は理解できないし、受け止められないかもしれない。でも俺は」
海の身体が、また少し抵抗するように身じろいだ。さきほどより弱い力だった。
「俺は、それでも一緒にいたい。あの日の俺もきっとそうだった」
なくなってしまった記憶の中の、自分のことが、手に取るようにわかる。海の全てを受け入れることが出来なくて、みっともなく足掻いて悩んで、それでもきっと、この想いだけは捨てられなかった。
頭の中で、自分が青いバイクに跨っている光景が、ひどく淡く浮かんだ。そこにあった感情は、絶望なんかじゃなかった。希望と言うには頼りないけど、絶望ほどやるせないものではなかったはずだ。
「海、聞いて。俺が事故に遭ったのは3月20日だった。俺の誕生日。海が俺を追い返したのは、その前の日だっただろ」
腕の中で、海の身体がまた少しだけ硬くなった。そのままするりと逃げ出してしまいそうな気がして、腕に力を込める。
「俺は、あの日、またここに戻ってこようとしてた。海と生きるために」
「ちがう。陽介は、オレのせいで」
「だから、それが違うって言ってる。俺はずっと、俺の手で未来を選んできた」
声が、少し震えた。
「半年前も今も、海に会いたいと思ったから、海を知りたいと思ったからここにいる。それは、海の事件とも過去とも関係ない。俺が自分で選んだ」
海が、唇を噛んだ。濡れた髪の隙間から、青い瞳が揺れているのが見えた。迷っている、と思った。
「だから、海のせいじゃない。一つも、海のせいじゃない」
喉の奥が、ぎゅっと痛んだ。
目の前が少し歪む。自分が泣いているせいだと思った。言葉と一緒に、堪えていたなにかが、溢れ出して止まらない。伝わってほしい。この言葉が、想いが、固く閉ざされた海の内側に、届いてほしいと思った。それは祈りにも似ていた。
「海、俺と生きてよ」
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