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第31話 夜明けのひかり(2)
波の音が二人の間を静かに満たしていく。海を抱きしめながら、触れ合ったところがあたたかい、と思った。あんなに冷えていた海の身体は、陽介の熱を分けたせいでじわりと温まっている。反対に陽介は、潮水の一部を引き受けたせいで肌の表面が冷たく湿っていた。
「っ……」
しばらくして、控えめな嗚咽が聞こえてきた。
青い双眸の表面が膨らんで、はじける。一度流れたそれは銀色の筋になって、海の頬を伝った。濡れたまつ毛が、朝日に照らされて金色に光っている。
陽介の頬と、海の頬を擦り合わせる。肌の上で雫が混じり合って、すこしくすぐったい。
「オレのせいじゃない?」
迷子の子供みたいな言い方だった。陽介は笑って、指の腹で海のそれを拭った。
返事の代わりに顔を寄せる。海が小さく息を呑んだ。青が、触れたら届きそうなほど近くで、揺れる。
唇が触れ合った。ほんの一瞬だけ。離れたとき、海はまだ泣いていた。目は見開いたまま、止め方を忘れたみたいな涙が、はらはらと伝っていく。
「オレ、陽介のこと好きなままでもいいのかな」
掠れたような声だった。
その涙を、止めたいとは思わなかった。愛というものがあるなら、こういうかたちをしていると思った。
「好きでいてよ」
陽介の声もまた、震えていた。
その台詞に、海は呆気にとられたような顔をした。そうして、二人で少し笑って、少し泣いた。
***
気づけば、すっかり朝になっていた。起き出した朝の活気が、遠くの方に聞こえてくる。海と陽介は並んで腰を下ろすと、波の音と、起きかけの街の呼吸を聞いていた。熱が落ち着くと、自然と気恥ずかしさが込み上げてくる。それでもなんとなく離れがたくて、繋いだ手をぎゅっと握り込んだ。
「あの、さ。聞きたいことがある」
「ん?」
「俺と海は、その。したん、だよな」
「した? なにを?」
「セ……」
「ああ、エッチ? したよ、いっぱい」
「いっぱい!?」
か、と耳が熱くなる。それを見て、海は大袈裟に笑った。
夜の間続いた海の語りは、要領を得なかった。だからいま、陽介の頭の中には知識としての記憶の断片が転がっているだけだ。こういう細かいところは一つずつ確認していくしかない。
「そうそう。いっぱいね、したよ」
ひとしきり笑い終わった後、海は目の端に涙を浮かべて陽介の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「なんだよ、もう」
「陽介、かわいいね。また、陽介のこんな顔見れるなんて」
海はそう言って、おかしくて仕方ないみたいに目を細めた。日が出てきたからか、海の唇にも色が戻っている。かつての陽介は、どんなふうに海に触れたんだろう。海は、それにどんな反応を見せたんだろう。
「……俺ばっか忘れてて、むかつく」
「また、したらいいよ」
さらりと言って、海は邪魔そうに前髪をかきあげた。濡れたシャツが、肌に張り付いている。朝の光の中で、薄い布越しに身体のラインが透けた。気づいてしまった陽介は、慌てて視線を逸らした。
「顔、赤い」
「うるさい」
海の笑い声が、ついてくる。同時に胸の奥に、冷たいものが広がっていくような気がした。海と、生きていきたい。たとえ、それが辛いものだとしても。それなら、この話題を避けていくことは出来ないんじゃないか、と思った。
「海は、怖くないの、そういうことするの」
柔らかい傷を、ゆっくりと押し広げているような実感があった。ずっと繋いだままだった手のひらに、汗をかいている。海がそれを丁寧に解いて、代わりに陽介の頬を両手で挟んだ。
「怖いよ」
海の目が、真っ直ぐに陽介を見る。見ているはずなのに、それは海自身が、陽介の目に映った自分を見ている。そんな風に思えた。
「自分がどんどん取られていって、いつか全部なくなっちゃうんじゃないかって……こういうの、なんていうんだっけ」
「搾取?」
「うん、なんか、そんな感じ。オレに触ってくる人はみんな、オレからなにか取ろうとしてきた。なにかくれようとしたのは、陽介が初めてだったよ」
この人は、どうしてどこまでも、寡欲なんだろう。どうして自分の感情すら手放してしまえるんだろう。
「だから、いまは陽介がいるから、もう何もいらない。全部どうでもいいよ」
「坂木のことも?」
海の睫毛が、少しだけ震えたように見えた。
「俺は許せない」
離れようとする両手を、今度は陽介の方が捕まえる。
「あいつのせいで、海の人生はめちゃくちゃになったんだろ」
「陽介は、優しいね」
「海は、もっと怒っていい」
「そりゃあオレも、出来るなら復讐したいと思ってたよ」
柔らかな笑みの隙間から溢れた強い言葉に、陽介は思わず面食らった。
「でももう、許すとか許さないとか、そういう段階じゃない。それに先生には、家族がいる」
「家族?」
「陽介、覚えてる? 先生がこの街に来たとき、女の人といたの。結婚するんだって言ってた。その人の子供も一緒に」
「だったらなおさら、ちゃんと罪を償わせないといけない」
「じゃあ今更、何の罪で捕まえるの? 捕まえたとして、あの子を、オレたちと同じにしたい?」
咄嗟に言葉が出なかった。
悔しい思いも、寂しい思いも、数えきれないぐらいした。だけどそれは、いまの海が背負っていい重さじゃない。
「どれだけクズでも、親は、いないよりはいたほうがいい」
「一緒にいないほうがいい親もいる」
「だってわかんないよ。オレ」
海は陽介の言葉を受けて、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「オレと陽介は似てるけど、全然違うから」
また、突き放されたと思った。近づいたと思っても、こうしてまた離れていく。この問題を解決するまで、海はここから離れられない。
「海は、あの施設で暮らしたのは、不幸だった?」
「それは」
「俺は幸せだったよ。俺を殴る親といるよりずっと」
海は、しばらく黙っていた。波が、二人の足元まで来て引いていった。それを何往復か見届けたあとに、観念したように口を開いた。
「……先生、小学校の先生になったんだって」
「え?」
「それ聞いて、オレと同じ思いをした子供がいたかもしれないって思った。あの子も、もしかしたらって」
海の口にしたひどく恐ろしい想像が、頭のなかで大きく膨らんで、陽介を呑み込もうとした。
「あのときもしオレが、勇気を出して大人に言えてたら、そんなことにはならなかったのかも」
「でも、それも海のせいじゃないって」
「そう。だから陽介、オレに勇気をちょうだい」
海の声は、まだ震えていた。でもその目は、真っ直ぐに陽介を見ていた。陽介は何も言わずに、海の手を、ぎゅっと握った。
「オレの話を、してみたい人がいる。復讐になるかは、わからないけど」
その言葉が、朝の光の中に溶けていった。波音が、静かに続いている。陽介は、海の手を握ったまま、空を見上げた。青かった。
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