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第32話 告白
火曜日。喫茶海猫の定休日。その日の店内は、しんとしていた。
冷めかけたコーヒーを眺めながら、陽介は柊菜津という名前を頭の中で繰り返した。海のことを調べていた記者。顔は思い出せない。それでも、海が自分から連絡を取ったと聞いたとき、陽介は少し驚いた。
『前にここに、記者の人が来たことある。その人に、全部話してみようと思う』
『全部って、どこからどこまで?』
『全部は全部だよ。全部話してみて、それで、記事にしてもらう。個人が特定されるような書き方はしないでもらいたいけど……』
『信用できる人?』
『わからない。でも、コーヒー、美味しかったって言ってくれたから、悪い人ではないと思う』
『それが、海の望む復讐?』
『そんな、かっこいいものじゃないかも』
以前柊が置いていったという電話番号へ海が連絡をすると、取材の予定はすぐに決まったらしい。海の話では、以前にも何度かこの店に足を運んでいたという。
「海、ちょっと座ったら」
「なんか、落ち着かなくて」
約束の時間の一時間前から、陽介はカウンターに座っている。海も、先ほどからテーブルを拭いたり椅子を下ろしたり、忙しなくしていた。
約束の時間きっかりにドアベルが鳴った。飾り気のない女性が一人立っている。柊だろうか。
「こんにちは」
きりりとした表情を崩さずに、柊は会釈した。つられて陽介も頭を下げる。店内を見回して海を見つけると、彼女はもう一度頭を下げた。
「こっち、どうぞ」
海が丹念に拭いていたテーブルとは反対の、窓際のテーブル席へ柊を通す。あいにく今日は曇りで、日は差し込まない。当然のように海の隣に腰を下ろした陽介を一瞥すると、柊は卓上にボイスレコーダーを置いた。
「取材、受けてくれてありがとうございます。まさかご連絡いただけるなんて思ってなかったです」
「あなたのこと、完全に信頼したわけじゃないです」
ボイスレコーダーと、ペンを持つ柊の手元を見据えながら、海が言った。
「オレのこと調べたなら、ネットに上がってるやつも見たんですよね」
なげやりにも聞こえる海の言葉に、柊は少しも動揺を見せずに「ええ」と短く答えた。
「絶対変な風には書かないって、それだけ約束してください」
「間宮さんの不利益になるようには書きません」
「……あと、施設長とか、ほかの職員の人とか、できれば巻き込みたくないです」
「真実だけを書きます。それが私の仕事ですから」
ぴん、と糸で張り詰めたような空気が流れていた。自分の呼吸の音と、心臓の音がやけに大きく聞こえる。海のものかも知れなかった。
柊の瞳の奥で、炎が燃えている、と思った。それがいいものか悪いものか、咄嗟に判断はつかなかったが、海はそれで、本当に覚悟を決めたみたいだった。
「なにから、話すべきか、迷ったんですけど」
永遠にも思える沈黙の後、海はポケットから、白い封筒を取り出した。封筒の端が少し焦げている。中身を取り出して机に並べると、柊の表情がかすかに強張った。
「オレです」
海が、続きを口にしようとした。口を開いて、そのまま閉じる。また開いて、閉じる。言葉が出ないのではなくて、喉の途中になにかつかえている。そんな風に見えた。
テーブルの下で、海の手を握る。指先が恐ろしく冷たかった。海はそれに気づいて、陽介に向かって微笑んだが、やはり言葉は出てこなかった。
柊は何も言わなかった。ただ海が語り始めるのをじっと待っている。責めるような雰囲気はなかったし、きっと悪気はないのだろうが、それが余計に海を焦らせている、と思った。
『陽介、オレに勇気をちょうだい』
頭の中で、海の声が響いた。
気づいたら、立ち上がっていた。柊と海、二人分の視線が陽介に向く。
「俺の話は、柊さんが知りたい話じゃないかもしれないですけど」
考えるよりも先に身体が動いた。長袖のシャツの裾をまくる。生白い肌が、室内の空気に晒されて鳥肌が立った。途中までまくったところで、面倒になって頭から全て脱ぎ捨てる。陽介がやろうとしていることを見透かした海が隣で、小さく息を呑んだ。
「これは、あの火事の時の火傷です」
「陽介、やめ」
「こっちは、四歳の時、施設に来る前に母親にやられました。あの施設には、そういう子供がたくさんいた。だから、俺も許せないんです。そういう子供から、海から、なにもかも奪ったあいつのことが」
誰にも、見せてこなかった。そこは長いこと自分の一番やわらかくて、目を背けたい部分だった。熱くなりそうな頭を、理性の端が必死に抑えている。
「俺は海と同じ施設にいました。千波陽介って言います。俺も事件の当事者です。海のことも話せます。あなたがなんで海の事件に固執しているか知りませんが、俺たちの復讐に利用させてもらいます」
そこまで言い切って、陽介はどかりと椅子に腰を下ろした。変な汗をかいている。慣れないことをしたせいで、顔が熱い。慌ててシャツを着直すと、隣で海が呆れたように苦笑いした。
その様子を見て、柊も少しだけ表情を緩めて、窺うように海を見た。
「間宮さん。無理しなくていいです。千波さんからも話を聞ければ、十分記事にできます」
「大丈夫です」
陽介は海の方を向かずに、テーブルに並べられた写真を見た。幼い青い目がじっと陽介を見つめている。
「これはオレの話だから、オレがします」
海も写真を少しの間じっと見て、大きく息を吸って、吐いた。腹の底にあるわだかまりごと、全部まるごと吐き出してしまうみたいに。
「最初に先生に会ったのは、十歳の時でした」
決して力強い語り口ではなかった。それでも、迷いだけはなかった。海の瞳の奥に、柊と同じ光が灯っている、と思った。
***
店を出たのは、三時間後だった。
「びっくりした」
帰り道、少し前を歩いていた海が、くるりと振り返ってこちらを見た。さすがに顔色には疲労が滲んでいるが、気力は無くなっていない。
「急に立ち上がるから、なにするのかと思った」
「お前が、勇気が欲しいって言うから」
「そういうこと? でも、もらったよ。勇気と他にもいろいろ」
海が笑ったまま、遠くの方を見上げた。憑き物が落ちたような顔をしている。
「話してみると意外と、なんでもない」
「あとは記事がちゃんと出るかだけど。面白おかしく脚色されて書かれたら、嫌だな」
「大丈夫だよ。エンジョーしても、陽介がなんとかしてくれるでしょ」
「うん」
海の未来の中に、陽介がいる。そのことは予想以上に、陽介の心を励ました。
「俺、今日は自分の家に帰るから。もう二日も大学サボってるから、明日は行かないと」
行きたくない、と駄々をこねる自分の気持ちを説得するように言った。でも、そうすることが理想だと思った。
事故に遭う前の陽介は、きっと自立しようとしていた。ただ感情に任せて海と絡まり合う日常よりも、自分の基盤をちゃんと整えて、その上で海と向き合おうとした。いまの陽介とも、その意見は相違していない。
「そうだよね」
海は陽介の決意を聞いて、黙って頷いた。少しだけ唇を結んで、それから息を吐いた。遠くの方から、波の音が聞こえてくるような気がした。
「あのさ、陽介が嫌じゃなかったらだけど」
海が、少しだけ視線を落としてから、陽介を見た。迷いと、期待と、ほのかな希望が混じったみたいな視線の中に、少しだけ陽介への甘えが紛れている。
「オレ、陽介と一緒にいたい」
「それは一緒に暮らすってこと?」
「うん」
「俺、大学があるからずっとこの街にはいられない」
「だから、陽介の街、連れてって」
陽介は何も言わなかった。ただ、海の方へ一歩踏み出して、そのまま抱きしめた。海が少しだけ息を呑んで、それからゆっくりと力を抜いた。
「嫌って言っても、来いよ」
それは確かな、陽介から海に向ける甘えだった。
夕方の柔らかい光の中で、二人分の影が重なって、長く伸びて、途絶えた。
「寂しいって言ってもいい?」
「もう言ってる」
「そうだね」
耳元でくすくすと海が笑う。その空気の甘ったるさに、陽介が耐えられなくなってきた頃に、海の声は真面目な温度を取り戻した。
「オレたち、たくさん話したね」
「したな」
「陽介は、半分ぐらい忘れちゃってるけど」
「おい」
海が笑った。陽介も、つられて笑った。
「これからも、陽介とたくさん話がしたい」
「うん」
「いっぱい知ってほしいし、知りたい」
陽介は、その言葉をしばらく胸の中に置いておいた。知りたい、と海が言うこと。知って欲しいと言うこと。その重みが、ずしりと失くした方の記憶の側に詰まって、陽介の重心をいびつに傾かせた。
「好きだよ、陽介」
けれど、その重みがあっても、いまは真っ直ぐに立っていられる。もうなにも失くさない。そんなかすかな確信があった。だって、二人分の重みを分け合って立っているから。
「俺も、好きだよ。もうずっと前から」
海はそれを聞いて、嬉しそうにはにかんだ。
「陽介は、何も変わらないね」
胸の辺りが、じんわりと痛くなる。この気持ちの名前を、二人で分け合えた奇跡を、今だけは噛み締めていたいと思った。
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