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第35話 覚えていて(1)※

 段ボールが一つと、くたびれたリュックが一つ。それが、海の持つものの全てだった。最後にあった日の翌月、今日は海が陽介の街へ越してくる日だった。 「ケンゴさん、なんて言ってた?」  荷物を下ろして物珍しそうに部屋を物色する背中に、問いかける。海はひとしきり狭い部屋を見て満足したのか、今度は無遠慮に窓枠に手をかけた。換気をするつもりらしい。 「いつでも帰って来いだって」  開けた窓から外を見下ろしながら、海が言った。その横顔に、夕焼けの光が当たっている。 「ケンゴさんらしい」 「そう? ちょっと冷たくない? もっと寂しがってくれてもいいのに」 「だって海と話してる時のケンゴさん、いつも父親みたいだから」  陽介の言葉を聞いて、海は照れくさそうにはにかんだ。脳裏に、あの喫茶店でケンゴが海に向ける、柔らかいまなざしが浮かんだ。少しだけ羨ましい、と思ったことは、ずっと秘密にしておこうと思った。 「そうかな」  それだけ言って海は振り返り、自分の荷物を手にした。荷解きというにはあまりに心許ない量の荷物を整理してしまうと、海は冷たいフローリングの床に横になった。 「週末、買い物行くか」 「買い物? なんの?」 「海の荷物入れるところないし……やっぱスマホとか、あったほうがいいだろ」 「スマホってすぐ買える?」 「まあ、たぶん」  海の顔の上に、細長い影が落ちている。窓枠の十字だった。オレンジ色の光で満たされた部屋の中で、そこだけがくっきりと際立っていた。朝焼けの光の中で消えそうになっていた海は、もういない、と思った。 「あのさ、オレ、勉強したくて」 「勉強? なんの」 「コーソツ認定試験」  言い慣れていないような発音のせいで、咄嗟にそれが高卒認定試験のことだと理解できなかった。陽介は気にしていないが、海の今後のことを考えても高卒相当の資格はあった方がいいだろう。 「ケンゴさんが受けたらって教えてくれた。陽介、勉強教えれる?」 「俺、実は結構頭いいよ」 「そうなの? じゃあ教えて。バイトもしたい……コーヒー淹れれるところがいいな」  海の手が、不意に宙を掻いた。なにかを掴もうとするみたいだった。海は、恐ろしいほど早く前を向いている。これがきっと本来の海の姿なのだろう。でもほんの少し、その姿が陽介を落ち着かないような気にさせた。 「無理してない? 別に、そんな一気に色々しなくたって、時間はいっぱいあるんだから」 「時間がいっぱいあるから、いろいろしたいの」 「そういうもん?」 「オレ、いま、警察に連れて行かれた時より、あの街に初めて行った時より、ずっと怖いよ。不安だし。でもなんか、嫌な感じじゃない」  陽介は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。怖いのは、きっと自分も同じだった。記憶の半分がないまま、それでもここにいる。それが正しい選択だったかどうかは、自信がない。でも、嫌な感じはしなかった。 「俺も、この頭のこと、もう一回ちゃんと調べてもらおうと思ってる」 「あたま?」 「記憶喪失のこと」  海が、陽介の顔をじっと見た。懐かしいものを探すみたいな目だった。そして、なにかに気づいたようにあっ、と声を上げる。 「昔から陽介、ちょっと忘れっぽかったもんね」 「……ん?」 「ん?」 「それってどういう……」 「あー、なんか、お母さんとの面会があった日は、その日とかその前の日のこと忘れてたりしてたけど、覚えてない?」  その話を聞いて、陽介は文字通り頭を抱えた。身体から力が抜けて、腹の底から細かい笑いが込み上げてくる。そんな陽介の姿を見て、海は怪訝そうに首を傾げた。 「なんで笑ってんの」 「いや、なんか」  うまく言葉にならなかった。気が抜けたのかもしれない。やっぱり、海のせいではなかったじゃないか、と。心の中にずっと刺さっていた棘が、あまりにあっさり抜けたからかもしれない。 「へんなの」  笑いが止まらなくなった陽介を見て、海もつられて笑う。次第に何で笑っていたのかもわからなくなって、二人で床に転がった。六畳半のフローリングは、二人で寝転がると狭かった。そんなことも知らなかった。  ふと、目が合って、海が瞬きした。海の手が伸びてきて、陽介の手首を捕まえる。  引っ張られながら、陽介は海の指先を見た。細い指。白い手首。その指に自分の指を絡めたくなって、そうした。海の動きが、ぴたりと止まる。 「陽介」  海の指先が、近づいてくる。陽介の頬に、そっとぶつかった。初めて触れるような、おそるおそると呼ぶのが相応しい触り方だった。陽介も、繋がれていない方の指を海の肌に這わせた。知っているはずの輪郭が、今日は初めて触れるものみたいに感じた。  どちらからともなく、唇が重なった。久しぶりのそれは、少しかさついていた。  この部屋についた瞬間から、まとう雰囲気に気づかないふりをしていた。気づいて、受け入れた時の自分がどうなってしまうのか怖かった。けれど、陽介の内側の激情にまでは、気づかないふりはできない。  海に、触れたい。 「したい」  その声色に、しめりけが灯っていた。青い両目が、真っ直ぐに陽介を見据えている。ぎゅうと握り込んだ手のひらが、ひどく熱かった。 ***  ベッドの上で海と向き合う頃には、外はすっかり暗くなっていた。抱き合いながら、何度も繰り返しキスをした。熱を分け合っているのか、奪い合っているのかわからない、そんなやり方だった。  そうやって口付けを繰り返しながら、探るように全身を指先で愛撫する。耳の後ろと足の付け根に触れた時、海の身体がびくりと震えた。 「俺にさせて」 「これ」  海が慌てて自分のリュックを引き寄せて、中からなにかを取り出す。それは、避妊具の箱と潤滑剤のボトルだった。どちらも封は空いていない。これからすることのなまなましさと、その準備を海がしていてくれたことに、言いようのない羞恥心がこみ上げる。 「あの、俺、実質初めてだから」 「うん」 「余裕ぶってるけどほんと、上手くできるかわかんなくて、痛くしたら、ごめん」  澄んだ青が、貫くように陽介を見上げている。このまま触れて、壊してしまったらどうしようかと、そんな不安が陽介の中を通り過ぎる。その不安を感じ取ったように、海は笑って陽介の額に自分の額をつけた。 「だいじょーぶ」  震える手でローションのボトルを開け、指先に垂らす。粘度のあるそれは想像よりも冷たい。  手のひらで温めている間に、海は膝裏に手をやって、片足を開いてそこを露わにした。 「ん、っ……」  奥まった窄まりを探る。そこはぎゅっと締まっていて、侵入を拒むみたいだった。くるくるとそこをマッサージするように表面を撫でてから、おそるおそるなかに指を進める。指を締め付ける熱い肉壁の感触に、唾を飲んだ。 「洗った時にちょっと慣らしてるし、そんなんじゃ壊れないよ」 「俺がしたいの。大事に、したいから」  海の体内で、挿入した指をゆっくりと動かす。中をかき混ぜると、海の肩が震えた。表情から、痛くはないらしい。少し慣らした、というのは本当らしい。二本目の指を押し進めると、少しの抵抗の後にそこはするりと受け入れた。  ぐちゅり、と濡れた音を立てながら、丹念にそこを拡げる。中は狭くて、ひどく熱い。ぬるぬるとしていて、そこだけ別の生き物みたいなのに、海の吐息に呼応するように、肉壁が震える。  海の内側に触れている。その事実に、頭がくらくらした。 「あっ……」  指先が腹側の、硬いしこりを掠めた時、海が一層あまやかな声を上げた。痛かったのかと思い指を抜こうとすると、海の手がそれを阻んだ。抜けかけた陽介の指は、ずるずると海のそこに引き戻されている。 「そこ、きもちいいから」 「え」 「ね、おぼえて。オレの気持ちいとこ。ちゃんと、おぼえて、もう忘れないで」  繰り返しそこに触れながら、反応を確かめながら、海の後孔をを丁寧に慣らした。指がふやけてしまいそうになった頃、海が「もういい」と呟いた。それは投げやりではなく、その先をじれったく求めるような、そんな艶めきを帯びていた。  避妊具のパッケージを開け、一つを取り出す。ひとつめは、装着に手間取っているうちに駄目にしてしまった。きっと前の陽介はこれぐらいできただろうに、と羞恥で耳が熱くなる。  その様子を見た海はからかうでもなく陽介の手を取ると、二つ目を取り出して陽介の自身にするすると被せた。 「きて」

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