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『甘やかして育てた後輩に、逆に甘やかされています』 朔也 × 楓 #2

##2 **** 成人して、楓は雄女化の申請をした。 迷いがなかったわけではない。 怖かったのは、身体が変わることそのものより、その先にある生活だった。 体力が落ちるかもしれない。 発情期に振り回されるかもしれない。 今までみたいに、誰かの世話を焼く側だけではいられなくなるかもしれない。 楓は、ずっと支える側だった。 朔也の課題を見て、飯を食わせて、寝不足を叱って、無茶をする前に止めてきた。 それが、いつの間にか少しずつ逆になっていた。 朔也は、楓の疲れに気づく。 朔也は、楓の無理を止める。 朔也は、楓を甘やかそうとする。 それが嬉しいのに、少し悔しかった。 雄女化は、朔也に守られるための選択ではない。 先輩でいることをやめるためでもない。 支えるだけだった関係を、支え合う関係に変えるための選択だった。 **** 専門医から渡された術後の注意事項を、楓は何度も読み返した。 体力の変化。 発情期前後の体調管理。 定期検診。 無理をしないこと。 最後の一文で、楓は少しだけ苦笑した。 「無理をしない、か」 一番苦手なことだった。 誰かに頼られると、つい引き受けてしまう。 後輩が困っていれば、放っておけない。 朔也のことだって、ずっとそうやって甘やかしてきた。 けれどこれからは、自分の身体を無視して動けない日もあるかもしれない。 誰かに頼る日が来るかもしれない。 その誰かが朔也なのだと思うと、胸が温かくなるのに、少しだけ落ち着かなかった。 **** 処置後。 楓は病院のベッドの上で、渡された説明書を眺めていた。 身体の変化よりも、そこに並んだ生活上の注意の方が、妙に現実味を持って胸に迫ってきた。 睡眠。 食事。 発情期前後の無理を避けること。 定期的な受診。 「……俺、管理される側になるのか」 小さく呟いた瞬間、病室の扉が開いた。 「管理じゃありません」 朔也だった。 手には、なぜかノートを持っている。 「一緒に覚えるだけです」 楓は目を瞬いた。 「……何、そのノート」 「術後の注意点を書いてます」 「お前、専門医か」 「楓の恋人です」 即答だった。 その言い方があまりにも真面目で、楓は少しだけ顔を赤くした。 「恋人がノート持参で来るか、普通」 「楓は普通にしていると、自分のことを後回しにするので」 「信用ないな」 「あります」 朔也はベッド脇の椅子を引いた。 「でも、楓が自分に甘いとは思ってません」 楓は言い返せなかった。 当たりすぎていた。 **** 朔也は、楓を見て一瞬だけ息を止めた。 けれど、すぐに近づいてこなかった。 楓の顔色を見て、手元の説明書を見て、それからベッド脇に腰を下ろす。 「楓」 名前で呼ばれる。 それだけで、胸が少し落ち着かなくなる。 「何だよ」 「疲れてますか」 「第一声それか」 「言いたいことは他にもあります」 「何」 朔也は、少しだけ視線を伏せた。 「綺麗です」 楓の顔が熱くなる。 「……結局言うのかよ」 「言います。でも、それより先に確認したかった」 朔也は、楓の手元の説明書をそっと指差した。 「これ、一人で抱えようとしてませんか」 楓は言葉に詰まる。 朔也は、静かに続けた。 「楓の世話を、俺にも譲ってください」 「世話って……」 「今まで、楓が俺にしてくれたことです」 朔也の声は落ち着いていた。 「見て、気づいて、止めて、必要なら叱って、それでも最後はちゃんとそばにいること」 楓の胸が、妙に熱くなった。 自分が何気なくしてきたことを、朔也はそんなふうに覚えていたのか。 「……お前、いつの間にそんなこと言うようになったんだよ」 「楓が育てたので」 「便利に使うな」 朔也は少しだけ笑った。 その笑い方が、昔の後輩みたいで、でももう昔とは違っていた。 **** 「俺さ」 楓は、少し笑って誤魔化そうとした。 「これから、面倒になるかも」 朔也の目が細くなる。 「面倒?」 「体力も変わるだろうし、発情期もあるし、無理できない日も増えるかもしれない」 「はい」 「お前に、迷惑かけるかもしれない」 その瞬間、朔也の表情が少しだけ険しくなった。 「楓」 「何」 「それ、俺が昔からかけてきたものですよ」 楓は一瞬、意味が分からなかった。 朔也は続ける。 「課題も、飯も、看病も、相談も。俺はずっと楓に迷惑をかけてきました」 「あれは迷惑じゃない」 「じゃあ、これも迷惑じゃないです」 楓は言葉を失った。 朔也は、まっすぐ楓を見る。 「やっと返せるんです」 その声が、思っていたよりずっと男の声だった。 「……返すとか、そういうのじゃないだろ」 「はい」 朔也は頷く。 「でも、俺は嬉しいです」 「何が」 「楓が、俺に頼る理由ができたこと」 楓の胸が跳ねた。 「……お前、ほんとずるい後輩だな」 「今は恋人です」 「たまに後輩の顔するくせに」 「楓が好きなので」 「返しになってない」 「でも本音です」 楓は顔を覆った。 こういう時、年下のくせに逃げ道を塞ぐ。 昔は、自分が朔也を言いくるめる側だったのに。 いつの間にか、こんなふうに負けている。 **** 「楓」 朔也は、楓の手を取った。 「今まで、楓は俺の世話を焼くのが上手すぎました」 「褒めてる?」 「少し怒ってます」 「何でだよ」 「自分のことを後回しにするからです」 楓は言い返せなかった。 朔也は、その沈黙を責めなかった。 ただ、指先をゆっくり握る。 「全部、俺に任せてくださいとは言いません」 楓が顔を上げる。 「楓は、それを嫌がると思うので」 「……分かってるじゃん」 「見てましたから」 朔也は少しだけ笑った。 「だから、一緒にやらせてください」 声が低くなる。 「楓の世話を、俺にも分けてください」 その言葉に、楓の胸が詰まった。 全部を奪われるのは嫌だった。 何もできないみたいに扱われるのも嫌だった。 でも、分けるなら。 一緒に持つなら。 それなら、少しだけ素直になれる気がした。 「……俺、甘えるの下手だぞ」 「知ってます」 「即答するな」 「でも、俺も支えるのは練習中です」 朔也は、楓の手を握り直した。 「だから、一緒に覚えます」 楓は目を伏せた。 「……ほんと、育て方間違えた」 「成功です」 「どこが」 「楓を支えたいと思える男になったので」 楓は、もう何も言い返せなかった。 **** 退院後しばらく、楓は自分の変化に戸惑った。 長く歩くと、以前より疲れやすい。 眠気が急に来る日もある。 身体が熱を持つように落ち着かなくなる時間もある。 そのたびに、楓はつい平気な顔をしようとした。 けれど、朔也はすぐに気づく。 大学のラウンジ。 楓が資料を読んでいると、朔也が横から手を伸ばして、紙をそっと取り上げた。 「楓、今日はここまでです」 「まだ読める」 「同じ行を三回読んでました」 「……見てたのか」 「見てます」 即答。 楓はため息を吐く。 「お前、最近ほんと管理が細かい」 「管理じゃありません」 「じゃあ何」 「観察です」 「余計に怖い」 朔也は、温かい飲み物を楓の前に置いた。 「五分休んだら、続きは一緒に見ます」 「一緒に?」 「はい。楓が全部一人で抱えると、また無理するので」 楓は、カップを両手で包む。 温かい。 悔しいくらい、安心する。 「……昔は、俺がお前に休めって言ってたのにな」 「今も言ってください」 「え?」 朔也は隣へ座った。 「俺が無理していたら、楓が止めてください」 楓は少し驚いた。 「それでいいのか」 「はい」 朔也は、まっすぐ前を見たまま言う。 「支えるのを、どちらか一人の役目にしたくないので」 楓の胸が静かに熱くなる。 そうか。 朔也は、自分を甘やかしたいだけではない。 二人で支え合う形を探しているのだ。 「……じゃあ、今のうちに言っとく」 「はい」 「お前も、俺のことばっか見てないで、自分の単位見ろ」 朔也が少しだけ固まった。 楓は笑う。 「そこはまだ心配されろ、後輩」 朔也は、少し悔しそうに笑った。 「はい、楓先輩」 久しぶりの呼び方に、楓の胸がくすぐったくなった。 **** ある日。 楓は、後輩の相談に長く付き合っていた。 課題。 進路。 人間関係。 楓は最後まで聞いて、必要なアドバイスをした。 後輩が帰ったあと、楓はラウンジの椅子に深く座り込んだ。 少し疲れた。 でも、放っておけなかった。 「楓」 低い声。 顔を上げると、朔也が立っていた。 「またですか」 「怒るなよ」 「怒ります」 朔也は隣に座る。 「楓は、誰かに頼られると断れない」 「悪いことじゃないだろ」 「悪いことじゃないです」 朔也は、楓の手を取った。 「でも、楓が削れるのは嫌です」 楓は黙った。 朔也の手は、以前より大きく感じる。 いや、前から大きかったのかもしれない。 自分が、後輩としてしか見ていなかっただけで。 「俺にできること、ありますか」 朔也が聞く。 楓は少し笑った。 「じゃあ、飯作って」 「分かりました」 即答。 「え、冗談」 「冗談でもやります」 「お前、料理できたっけ」 「覚えました」 楓は目を丸くした。 「いつの間に」 「楓と生きたいので」 普通の声で言われた。 楓は顔が一気に熱くなる。 「……ほんと、言い方」 「本気なので」 朔也は、楓の手を握り直した。 「帰りましょう」 「どこに」 「俺が楓に飯を作れる場所」 その言い方が、あまりにも自然で。 楓はもう、笑うしかなかった。 **** 朔也の部屋。 キッチンには、思ったよりきちんと食材が揃っていた。 「……お前、本当に料理覚えたのか」 「はい」 「俺が知らない間に?」 「楓に知られたら、手伝われると思ったので」 「信用されてない」 「信用してます」 朔也は包丁を手に取る。 「でも、今日は座っててください」 楓はむずむずした。 誰かにご飯を作ってもらうのは、慣れていない。 しかも、相手は朔也だ。 ついこの前まで、自分が世話を焼いていた後輩。 「手伝う」 「座っててください」 「皿くらい」 「座っててください」 「強い」 朔也は振り返る。 「楓」 名前で呼ばれた。 それだけで、楓は少し黙る。 「今日は、俺に甘やかされてください」 楓の顔が熱くなる。 「……命令?」 「お願いです」 「お願いに聞こえない」 「じゃあ、俺のわがままです」 朔也は少しだけ笑った。 「楓を甘やかしたい」 胸が、どうしようもなく熱くなった。 楓は観念して椅子に座る。 「……焦がしたら笑うからな」 「焦がしません」 「自信あるな」 「練習しました」 「誰のために?」 言ってから、楓はしまったと思った。 朔也がこちらを見る。 「楓のために」 逃げ道がない。 楓はテーブルへ突っ伏した。 「聞くんじゃなかった」 「聞いてほしかったです」 「ほんとずるい」 **** 食事は、普通においしかった。 栄養も考えられている。 楓が好む味付けだった。 「……うまい」 楓が呟くと、朔也の表情が少し緩んだ。 「よかった」 「何で俺の好きな味分かるんだよ」 「見てたので」 「……そういうとこ」 楓は箸を置く。 「俺ばっかり見てたのか」 「はい」 即答。 楓は赤くなる。 「少しは照れろ」 「照れてます」 「顔が平然としてる」 「中は大変です」 楓は笑ってしまった。 朔也も、少しだけ笑う。 食後。 楓が皿を片づけようとすると、朔也が止めた。 「今日は俺がやります」 「でも」 「楓」 また名前。 楓は弱い。 その呼び方に、まだ慣れない。 「座っててください」 「……はいはい」 「はいは一回」 「お前、誰に育てられたんだ」 「楓です」 「なら俺のせいか」 楓は笑った。 このやり取りが、妙に心地よかった。 甘やかすだけでも、甘やかされるだけでもない。 二人で生活を作っている感じがした。 **** 楓は、支えられることに慣れていない。 朔也も、支える側になることをまだ少し急ぎすぎる。 だから、二人で決めた。 どちらかが全部背負うのではなく、一つずつ分ける。 ご飯も。 洗濯も。 体調管理も。 甘えることも、甘やかすことも。 そうやって生活を作っていくために、二人は同居の準備を始めた。 **** 生活用品売り場。 楓は、エプロン売り場の前で腕を組んでいた。 「朔也」 「はい」 「何でエプロン二枚買うんだ」 「二人で作るので」 「お前が作るって言ってなかったか」 「楓が手伝いたがるので」 図星だった。 楓は少しだけ顔をしかめる。 「俺、座って見てるだけとか無理だからな」 「知ってます」 「なら分かってるだろ」 「だから二枚です」 朔也は淡々と言って、色違いのエプロンを二枚かごへ入れた。 楓は言い返せなくなる。 全部やらせろ、と言われるよりずっとずるい。 一緒にやりたい、と言われる方が、逃げ場がなかった。 **** 次に、食器売り場。 朔也は白い皿を二枚手に取った。 「これは?」 「無難すぎる」 「じゃあ、こっちは」 「お前の料理が上手く見えそう」 「それは重要ですね」 「否定しろ」 楓が笑うと、朔也も少しだけ笑った。 「楓」 「何」 「箸も二膳、同じものでいいですか」 「いいけど」 「同じものが、家にあるの嬉しいですね」 さらっと言われて、楓の顔が熱くなる。 「……そういうの、食器売り場で言うな」 「どこならいいですか」 「どこでも困る」 「じゃあ、家で言います」 「さらに困る」 朔也は、嬉しそうに箸をかごへ入れた。 **** 洗濯用品売り場では、楓が洗濯かごを選んだ。 「これは二ついるな」 「分けるんですか」 「お前、白い服多いだろ。色移りしたら困る」 「楓」 「何」 「俺の服のことまで考えてる」 「普通だろ」 「嬉しいです」 楓は口を閉じた。 普通のことをしただけなのに、朔也はすぐ嬉しそうな顔をする。 その顔を見ると、世話を焼く癖がまた出そうになる。 「……お前も、俺の服のこと考えろよ」 「もちろん」 「俺が夜遅くまで誰かの相談に乗ってたら?」 「迎えに行きます」 「洗濯の話だったよな?」 「楓の生活の話です」 その言い方に、胸が熱くなった。 生活。 朔也は、自分を助けたいだけではない。 二人で毎日を作りたいのだ。 **** 最後に、合鍵を作る店の前で足が止まった。 楓は、まだ少し落ち着かなかった。 鍵を持つ。 帰る場所が同じになる。 それは、思っていたより重い。 「楓」 「ん?」 「無理に今日じゃなくてもいいです」 朔也が言った。 楓は目を瞬く。 「急かさないのか」 「急かしたいです」 「正直だな」 「でも、楓が自分で持ちたいと思った時に渡したい」 楓の胸が、静かに熱くなる。 朔也は、支えると言いながら押し切らない。 甘やかすと言いながら、楓の意思をちゃんと待つ。 だから、こちらも少しずつ甘えたくなる。 「……作る」 「いいんですか」 「俺が持ちたい」 朔也の目が揺れた。 楓は照れ隠しに視線を逸らす。 「何だよ」 「嬉しいです」 「分かりやすいな」 「楓限定です」 またそれか、と言いながら、楓は少し笑った。 合鍵ができるまでの数分間、二人は並んで待った。 ただ待っているだけなのに、妙に幸せだった。 家を探すより、ずっと現実的で。 ずっと照れくさい。 これから二人で暮らすのだと、指先のあたりから少しずつ実感していく。 「朔也」 「はい」 「俺、たぶんまだ甘えるの下手だぞ」 「知ってます」 「即答するな」 「でも、一緒に覚えます」 朔也は、まっすぐ楓を見た。 「楓が全部やるんじゃなくて、俺が全部奪うんでもなくて」 少しだけ、照れたように笑う。 「一緒に作りたいです。飯も、部屋も、生活も」 楓は、もう何も言えなくなった。 そういう方向で来るのは、本当にずるい。 「……じゃあ、エプロン二枚で正解だな」 「はい」 「料理、焦がすなよ」 「楓も手伝うので大丈夫です」 「俺頼みかよ」 「一緒に、です」 その言葉に、楓は負けたような気分で笑った。 **** 引っ越し前夜。 楓は自分の部屋で、段ボールに囲まれていた。 朔也も手伝いに来ている。 昔、朔也が泊まりに来ていた時のマグカップが出てきた。 「これ、お前のだ」 「まだあったんですね」 「置きっぱなしだったからな」 「楓の部屋に、俺のものがあるの嬉しかったです」 「そういうこと言うな」 楓は照れ隠しにマグカップを箱へ入れる。 次に出てきたのは、古いレポートだった。 赤ペンだらけ。 朔也の課題。 楓が何度も直したものだ。 「うわ、懐かしい」 楓が笑う。 「この頃のお前、ほんとひどかった」 「楓が見てくれたので、今があります」 「大げさ」 「大げさじゃないです」 朔也はそのレポートを見つめる。 「俺、ずっと楓に助けてもらってました」 楓は黙る。 朔也は続けた。 「だから、今度は俺が助けたい」 「……もう十分助けられてるよ」 朔也が顔を上げる。 楓は、少し照れながら言った。 「飯も作ってもらったし、寝不足も止められたし、俺が無理してる時も見つけるし」 胸が熱くなる。 「ちゃんと、支えられてる」 朔也の目が揺れた。 「楓」 「何」 「今の、ずっと覚えてます」 「覚えるな」 「無理です」 朔也は、楓の手を取った。 「楓に認められたので」 楓は苦笑した。 「後輩みたいな顔するな」 「まだ、たまには後輩でいさせてください」 その言葉が、楓の胸を柔らかくした。 そうだ。 全部を逆転させる必要はない。 朔也は年下で、後輩で、恋人で、これから夫夫になる相手だ。 甘えてくる時もあれば、支えてくれる時もある。 その全部が、朔也なのだ。 「いいよ」 楓は言った。 「でも、俺もたまには甘える」 朔也の表情が、ゆっくり嬉しそうに崩れた。 「はい」 「そこ、嬉しそうにするな」 「無理です」 「ほんと、お前は」 楓は笑いながら、朔也の手を握り返した。 **** 新しい部屋に荷物を運び込んだ日。 楓はリビングの真ん中に立っていた。 二人分の段ボール。 二人分の食器。 二人分の生活。 まだ何も整っていないのに、不思議と温かかった。 「……始まるんだな」 楓が呟く。 朔也が隣へ来る。 「はい」 「俺、ちゃんとできるかな」 「何をですか」 「頼るの」 朔也は少し驚いたように楓を見る。 楓は苦笑した。 「ずっと、世話焼く方だったからさ」 朔也は、楓の手を取った。 「できなくてもいいです」 「え?」 「俺が覚えます」 「何を」 「楓が甘えたい時の顔」 楓の胸が跳ねる。 「……やめろ」 「やめません」 朔也は、まっすぐ楓を見る。 「俺、楓のこと見てますから」 その言葉は、告白の時と同じ熱を持っていた。 でも、今はもっと穏やかだった。 焦って奪う言葉ではなく。 これから長く一緒にいるための言葉だった。 「楓」 「ん」 「ただいまって言ってください」 楓は目を丸くする。 「今?」 「はい」 「まだ外から帰ってきたわけじゃないだろ」 「でも、ここが家になるので」 楓は少し笑った。 こういうところは、やっぱり年下だ。 真っ直ぐで、少し欲しがりで。 でも、その素直さが愛しい。 「……ただいま」 朔也の表情が、ふっと柔らかくなる。 「おかえり、楓」 その声に、胸がいっぱいになった。 楓は照れ隠しに視線を逸らす。 「……お前も言えよ」 朔也は少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。 「ただいま」 楓は、朔也の手を握ったまま答える。 「おかえり、朔也」 二人の生活が、そこから始まった。 先輩と後輩だった時間を抱えたまま。 甘やかして、甘やかされて。 支えて、支えられて。 少しずつ、夫夫になっていくために。

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