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『刑事と闇医者、傷だらけの恋を縫い合わせる』 凱 × 汐音 #1
##1
雄咲市の裏路地には、夜になると、表の病院に行けない人間たちが集まる小さな診療所があった。
看板は出ていない。
古い雑居ビルの三階。
錆びた非常階段の先にあるその部屋で、白石汐音(しらいし・しおん) は闇医者として生きていた。
汐音は、成人後に雄女化している。
声も肌も、以前より少し柔らかい。
けれど、白衣の下にある目つきは鋭く、口は悪く、腕は確かだった。
雄女だから優しい医者だと思って来た患者は、だいたい初診で泣く。
「痛いなら痛いって言え。黙って暴れるな。針が曲がる」
それが、白石汐音という男だった。
****
雨の夜。
診療所の扉が、乱暴に叩かれた。
「開けろ、白石」
低い声。
汐音はカルテを閉じ、舌打ちした。
「その声で来る時は、だいたい面倒ごとだな」
鍵を開けると、黒崎凱(くろさき・がい) が立っていた。
雄咲市警の刑事。
濡れた黒髪。
重いコート。
肩を押さえた手の隙間から、赤い血が滲んでいる。
「またお前か。死にたいなら他所で死ね」
「死にたくねぇから、お前のとこに来た」
凱は平然と答えた。
だが、唇の色は悪い。
汐音は舌打ちし、凱の腕を掴んで中へ引き入れた。
「上着を脱げ。文句言ったら縫合代を倍にする」
「領収書は出るのか」
「闇医者に何を求めてる」
凱は少しだけ口元を緩めた。
汐音はそれを見て、余計に腹が立った。
怪我人のくせに、落ち着きすぎている。
****
凱は診察台へ座った。
汐音は手袋をはめ、傷口を確認する。
「銃創じゃないな。刃物か」
「ああ」
「深い。縫う」
「任せる」
「勝手に信用するな」
「信用してるから来た」
汐音の手が、一瞬止まった。
すぐに何もなかった顔で消毒液を取る。
「刑事が闇医者を信用するなよ」
「お前は、患者を死なせない」
「それだけだ」
「それで十分だ」
凱の視線が、汐音の手元を追っている。
荒れた指先。
白衣の袖口。
少し柔らかくなった声とは裏腹に、迷いのない処置。
凱は、汐音のそういうところを見ていた。
「見るな」
「治療中だろ。見てただけだ」
「患者は天井でも見てろ」
「天井より、お前の手の方が信用できる」
汐音は針を持つ手に力を込めた。
「痛くしてやろうか」
「今でも十分痛い」
「ざまあみろ」
それでも、汐音の手つきは丁寧だった。
痛みに肩を揺らした凱の手首を、一瞬だけ押さえる。
「動くな。すぐ終わる」
その声は、口の悪さとは違っていた。
凱は黙った。
雨音が窓を叩く。
診療所の白い明かりの下で、二人の影だけが静かに揺れていた。
****
処置が終わると、汐音は包帯を巻いた。
「今日は泊まっていけ」
「心配か」
「動いて傷が開いたら、縫い直しが面倒なだけだ」
「そういうことにしておく」
凱が言う。
汐音は薬袋を投げつけた。
「抗生剤。痛み止め。用法守れ。酒は禁止。風呂も駄目」
「お前、口は悪いのに説明は丁寧だな」
「患者が馬鹿だと医者が苦労する」
「刑事は馬鹿じゃない」
「自分で縫われに来る時点で馬鹿だろ」
凱は少しだけ笑った。
汐音は顔を背ける。
この男は危険だ。
刑事でありながら、闇医者の自分を何度も頼ってくる。
正義の側にいるくせに、裏路地の診療所へ迷いなく足を踏み入れる。
その度に、汐音の中で何かが少しずつ壊れていく。
「白石」
「何だ」
「お前、冷えてる」
凱が、汐音の指先を見て言った。
「手が冷たい」
「医者の手が冷たいのは普通だ」
「嘘だな」
「何で分かる」
「顔色が悪い」
凱は、汐音が患者を見る時と同じ目で汐音を見ていた。
観察する目。
逃がさない目。
汐音は眉を寄せる。
「俺を診るな」
「お前が自分を診ないからだ」
その言葉に、汐音は一瞬黙った。
すぐに、乱暴に毛布を投げつける。
「患者は寝ろ」
凱は毛布を受け取りながら、低く笑った。
****
数日後。
深夜の倉庫街。
凱の車は、雨の降る港近くに停まっていた。
助手席には、なぜか汐音が座っている。
裏組織の負傷者が出る可能性があり、汐音はその情報を持っていた。
凱は表向き、情報提供者の保護と言い張った。
「刑事と闇医者が同じ車で張り込みか。笑えるな」
汐音が缶コーヒーを手の中で転がす。
「今は相棒だ」
「誰が」
「お前」
「勝手に任命するな」
雨で窓が曇っている。
車内は狭く、互いの体温が近い。
汐音はそれが落ち着かなかった。
「白石」
「何」
「寒いか」
「寒くない」
凱は黙って、暖房を少し上げた。
「聞いた意味」
「お前の否定は信用してない」
「刑事って皆そうなのか」
「俺だけだ」
「最悪だな」
汐音は缶コーヒーを開ける。
ブラックだった。
「甘いやつじゃないんだな」
「お前、甘いの嫌いだろ」
汐音は横目で凱を見る。
「……よく覚えてるな」
「覚えてる」
凱は短く言った。
その言い方が、妙に胸に残った。
****
凱は煙草をくわえかけ、汐音の視線に気づいて止めた。
「……吸わないのか」
「やめようとしてる」
「失敗してる顔だな」
「見抜くな」
「肺を悪くしたら治療費を倍にする。あと、俺の前で吸ったら三倍だ」
「高いな」
「命の値段だ」
汐音は何気なく言ったつもりだった。
けれど、凱はその言葉を静かに受け取った。
「俺に死なれたくないなら、そう言え」
汐音の手が止まる。
「言わない」
「違うのか」
「違わないから言わない」
凱の口元が、わずかに緩んだ。
「分かった」
「分かるな」
「努力する」
「どうせ三日だ」
「じゃあ四日続ける」
「低い目標だな」
「お前に褒められるなら、五日でもいい」
汐音は缶コーヒーに口をつけ、横を向いた。
「馬鹿刑事」
車内に、小さな沈黙が落ちる。
雨の音だけが、二人の間を埋めていた。
****
銃撃は突然だった。
倉庫街の奥で取引が崩れ、怒号と銃声が響いた。
汐音が負傷者へ駆け寄ろうとした瞬間、凱が腕を引いて庇った。
鋭い音。
凱の肩が跳ねる。
「凱!」
「伏せろ!」
凱は痛みを押し殺しながら、汐音を背にして銃を構えた。
雨。
火薬。
血の匂い。
汐音の手が震える。
まただ。
この男はいつも、自分の前に立つ。
自分なんかのために、命を削る。
****
事件が収まった後、汐音は診療所で凱の傷を処置した。
「馬鹿野郎。俺なんかのために命張るな」
「お前だから張った」
「そういう言い方をするな」
「事実だ」
汐音は針を持つ手を止めた。
怒鳴りたいのに、喉が熱い。
凱の血を見た瞬間から、胸の奥がずっとざわついている。
「俺は闇医者だ」
汐音は、絞り出すように言った。
「お前の正義の邪魔になる」
凱は、包帯の巻かれた手で、汐音の指先に触れた。
治療中でもないのに触れられたのは、初めてだった。
「白石」
「……何」
「お前がいなきゃ、この街の正義も意味ねぇ」
汐音は、何も言えなくなった。
****
それから二人の距離は、少しだけ変わった。
凱は以前より頻繁に診療所へ来るようになった。
怪我をしていない日にも来る。
「今日は何だ」
「巡回」
「ここは警察署じゃない」
「裏路地も巡回対象だ」
「嘘つけ」
凱は診療所の椅子に座り、汐音がカルテを整理するのを見ている。
汐音は苛立ったように言う。
「暇なら帰れ」
「暇じゃない」
「じゃあ働け」
「働いてる。お前の顔色を見てる」
「仕事にするな」
凱は立ち上がり、汐音の手首を取った。
「脈が速い」
「勝手に測るな」
「寝てないな」
「闇医者に規則正しい生活を求めるな」
「求める」
即答だった。
汐音は睨む。
「お前、患者のくせに偉そうだな」
「今は患者じゃない」
「じゃあ何だ」
凱は少し黙った。
それから、低く言う。
「お前を守りたい男だ」
汐音の呼吸が止まる。
凱は逃げない。
いつもそうだ。
短い言葉で、こちらの逃げ道を潰す。
「……馬鹿刑事」
汐音はそれだけ言って、手を振り払った。
でも、凱は追わなかった。
ただ、診療所の隅に置いてあった毛布を取り、汐音の肩へ掛けた。
「冷えてる」
「うるさい」
「少し寝ろ」
「患者がいなくなったらな」
「じゃあ、それまでいる」
「邪魔だ」
「知ってる」
凱は当然のように椅子へ戻った。
汐音は舌打ちした。
けれど、毛布を外すことはできなかった。
****
凱が銃撃で庇った夜から、汐音の中で何かが変わっていた。
守られることが怖い。
凱が自分のために傷つくのが怖い。
けれど、凱に二度と触れられなくなる方が、もっと怖かった。
その怖さを認めたくなくて、汐音は距離を取ろうとした。
雨の降る路地裏。
診療所の下。
凱がいつものように現れた時、汐音は傘も差さずに立っていた。
「もう関わるな」
凱は足を止めた。
「白石」
「刑事と闇医者なんて無理だ」
雨が白衣を濡らす。
汐音の声は震えていなかった。
震えないように、必死で抑えていた。
「お前の正義を汚したくない」
凱は黙っている。
汐音は続けた。
「俺は表の病院にいられなかった。裏で怪我人を診て、警察に言えない人間の傷を縫ってる」
「知ってる」
「雄女だからって、守られて綺麗な場所に置かれる人間でもない」
「知ってる」
「だったら」
汐音は凱を睨んだ。
「何で来るんだよ」
凱はゆっくり近づいた。
雨の音が強い。
「冷たい」
凱が言った。
「は?」
「手」
凱は汐音の手を取った。
雨に濡れて、指先が冷えきっている。
「離せ」
「嫌だ」
「俺の話を聞け」
「聞いてる」
凱は、汐音の手首へ指を添えた。
「脈が速い」
「勝手に診るな」
「お前が自分を診ないからだ」
前にも聞いた言葉だった。
汐音の胸が痛む。
「……っ、そういうところだぞ」
「何が」
「俺を普通に心配するな」
「無理だ」
凱は短く答えた。
「お前を失う方が怖い」
その言葉に、汐音は息を止めた。
****
汐音は手を振り払おうとした。
だが、凱は離さなかった。
強い。
けれど、痛くはない。
「逃げるな」
低い声。
汐音の胸が跳ねる。
「命令か」
「頼みだ」
「頼みに聞こえない」
「慣れてない」
凱は、濡れたコートを脱いで汐音の肩へ掛けた。
「着ろ」
「いらない」
「濡れてる」
「お前も濡れてるだろ」
「俺はいい」
「よくない」
汐音は反射で言っていた。
凱の目が、少しだけ動く。
「ほらな」
「……何が」
「お前も俺を心配してる」
汐音は言葉に詰まった。
凱は逃がさない。
傷口を見つけるみたいに、汐音の本音を正確に探り当てる。
「白石」
「……」
「俺の正義は、綺麗な場所だけにあるわけじゃない」
凱の声が雨の中で低く響く。
「表の病院に行けない人間を、お前が生かしてる」
汐音は目を伏せた。
「それは違法だ」
「全部が正しいとは言わない」
凱は言った。
「でも、お前が救った命を、俺は知ってる」
雨が、二人の間を流れていく。
「俺も、その一人だ」
汐音の喉が詰まる。
凱は、汐音の手を強く握った。
「俺の正義に、お前を入れる」
汐音の目が見開かれる。
「……何言ってんだ」
「お前を外に置いたまま、正義面する気はない」
凱の声は揺れなかった。
「お前がいる場所ごと、俺が背負う」
「重すぎるだろ」
「知ってる」
「馬鹿だろ」
「それも知ってる」
汐音は、泣きそうになるのをこらえた。
****
診療所へ戻ると、凱は汐音を椅子に座らせた。
「座れ」
「ここ俺の診療所なんだけど」
「今は患者だ」
「ふざけるな」
「顔色が悪い。体温も低い。手も冷えてる」
凱は淡々と並べる。
「問診する」
「刑事が問診するな」
「白石汐音」
名前を呼ばれた。
汐音は黙る。
凱は、濡れたタオルを汐音の髪に当てた。
手つきは不器用だ。
医者のようにはいかない。
けれど、驚くほど丁寧だった。
「いつから寝てない」
「……二日」
「食事は」
「適当に」
「適当は食事じゃない」
「お前に言われたくない」
「俺は今、煙草を減らしてる」
「低い努力を誇るな」
「五日続いてる」
汐音は思わず黙った。
「……本当に?」
「ああ」
「馬鹿みたいに律儀だな」
「お前に褒められるためだ」
「褒めてない」
「今のは近い」
凱が少しだけ口元を緩める。
汐音は顔を背けた。
こんな状況で、少し笑いそうになる自分が嫌だった。
****
凱は汐音の手首を取る。
今度は、きちんと脈を測るように。
「まだ速い」
「誰のせいだ」
「俺か」
「分かってるなら離せ」
「離したら逃げるだろ」
図星だった。
汐音は黙る。
凱は、汐音の前に膝をついた。
刑事の男が。
いつも人の前に立つ男が。
今は、汐音の目線に合わせている。
「守られることに慣れろ」
低い声だった。
汐音の胸が震える。
「……無理だ」
「少しずつでいい」
「俺は守られる側じゃない」
「知ってる」
凱は即答した。
「お前は、守る側の人間だ」
汐音の目が揺れる。
「だから、守られるのが下手だ」
何も言えなかった。
その通りだった。
汐音はずっと、傷を縫う側だった。
死にかけた人間を引き戻す側だった。
誰かの痛みを診る側だった。
自分の痛みは、見ないふりをしてきた。
「白石」
凱の手が、汐音の指を包む。
「俺に慣れろ」
汐音は息を呑む。
「……何だそれ」
「俺に心配されることに慣れろ」
指先が温かい。
「俺に迎えに来られることに慣れろ」
胸が熱い。
「俺に守られることに慣れろ」
汐音は、耐えきれずに顔を逸らした。
「本当に、馬鹿刑事だな」
「何度でも言え」
「馬鹿」
「足りない」
「重い」
「知ってる」
凱の手が、少しだけ強くなる。
「それでも、逃がさない」
汐音の目が熱くなった。
****
それから数日、凱は診療所に通った。
怪我をしていなくても来る。
弁当を持って来る。
温かい飲み物を持って来る。
毛布を勝手に増やす。
「おい」
汐音は診療所の隅に増えた棚を見て言った。
「何だこれ」
「お前用」
「俺の診療所に俺用の棚を勝手に置くな」
「薬と栄養食を入れた」
「闇医者の診療所に健康管理棚を置く刑事、怖すぎるだろ」
「必要だ」
凱は真顔だった。
「お前、患者の食事は気にするくせに、自分はゼリー飲料で済ませる」
「見てたのか」
「見てる」
汐音は言葉に詰まる。
凱はいつも見る。
傷を。
血色を。
脈を。
嘘を。
そして、汐音が見ないふりをした弱さを。
「……お前、ほんと刑事だな」
「不満か」
「不満だらけだ」
「でも、追い出さない」
汐音は顔を背けた。
「鍵を変えてないだけだ」
「じゃあ、また来る」
「勝手にしろ」
凱は少しだけ笑った。
その顔を見ると、胸の奥が温かくなる。
危ない。
本当に危ない。
この男は、自分の診療所に入り込んでくるだけでは足りず、自分の生活にまで入り込もうとしている。
そして汐音は、それを本気で嫌がれていない。
****
ある夜。
凱が診療所に来ると、汐音は机に突っ伏して眠っていた。
白衣の袖口から、細い手首が見えている。
顔色が悪い。
凱は静かに近づき、汐音の額へ触れた。
熱はない。
だが、冷えている。
「白石」
小さく呼ぶ。
汐音が薄く目を開けた。
「……何だよ」
「寝ろ」
「寝てた」
「机で寝るな」
「医者は忙しい」
「医者を休ませるのも俺の仕事にする」
「勝手に増やすな」
汐音は起き上がろうとした。
凱が肩を押さえる。
「動くな」
「患者みたいに扱うな」
「今は患者だ」
「どこが」
「疲労。冷え。睡眠不足」
「診断名みたいに言うな」
凱は毛布を掛ける。
「白石」
「何」
「うちに来い」
汐音は目を開けた。
「……は?」
「ここでは休まない」
「何言ってる」
「診療所にいる限り、お前は患者が来たら起きる」
凱の声は静かだった。
「だから、休める場所に来い」
汐音は黙った。
****
凱の家。
その言葉が、胸の奥で重く響く。
「俺は闇医者だぞ」
「知ってる」
「お前は刑事だ」
「知ってる」
「一緒に暮らすとか、普通じゃない」
「普通じゃなくていい」
凱は、汐音を見る。
「お前が生きてる方が大事だ」
汐音の喉が詰まる。
「……そういう言い方をするな」
「事実だ」
「事実で殴るな」
凱は少しだけ口元を緩めた。
「なら、頼み方を変える」
凱は、汐音の手を取った。
「俺の家で休め」
命令みたいな声。
でも、中身は不器用な願いだった。
汐音は、長く沈黙した。
それから、小さく息を吐く。
「……条件がある」
「言え」
「診療所は閉めない」
「ああ」
「患者が来たら戻る」
「送る」
「警察に余計なことは言わない」
「言わない」
「俺を、綺麗な場所に引き上げたつもりになるな」
凱の表情が、少し変わった。
汐音は続ける。
「俺は、ここで生きてきた」
「分かってる」
「この手で、表に出られない傷を縫ってきた」
「ああ」
「それを否定されるなら、行かない」
凱は、汐音の手を強く握った。
「否定しない」
声は揺れなかった。
「その手ごと、俺の家に来い」
汐音の胸が、熱くなる。
「……本当に、馬鹿だな」
「ああ」
「刑事のくせに」
「刑事だからだ」
凱は、静かに言った。
「お前を見なかったことにしたくない」
汐音は、目を伏せた。
負けたと思った。
この男はいつも、逃げ道を塞ぐのがうまい。
傷口を縫うのは自分の仕事なのに、凱はまるで、汐音の心の裂け目を正確に押さえてくる。
「……一晩だけだ」
「分かった」
「荷物は持たない」
「必要なものは買う」
「買うな」
「じゃあ一緒に買う」
「増やすな」
「必要だ」
「お前、話聞かないな」
「聞いてる」
汐音は少しだけ笑ってしまった。
悔しい。
でも、もう逃げられなかった。
****
凱の家は、思ったより殺風景だった。
必要な家具しかない。
余計なものがない。
生活感が薄い。
汐音は玄関で立ち止まった。
「……お前、本当にここで暮らしてるのか」
「暮らしてる」
「取調室の方がまだ人間味あるんじゃないか」
「失礼だな」
「事実だ」
凱は黙った。
汐音は部屋を見回す。
冷蔵庫を開ける。
水。
コーヒー。
プロテイン。
以上。
「お前、人のこと言えないだろ」
「最近、改善してる」
「どこが」
「煙草は減った」
「食事をしろ」
汐音はため息を吐く。
「結局、俺が診ることになるんじゃねぇか」
「そうだな」
「認めるな」
凱が少し笑う。
汐音は呆れながらも、キッチンを確認し始めた。
その背中を、凱が見ている。
「何だよ」
「いや」
「言え」
「お前がいると、部屋が生きてるみたいだと思った」
汐音は動きを止めた。
それから、ゆっくり振り返る。
「……お前、たまにすごいこと言うな」
「そうか」
「自覚ないのが悪質だ」
顔が熱い。
汐音は冷蔵庫を閉めた。
「買い物に行く」
「今からか」
「この家には食えるものがない」
「付き合う」
「当然だ。荷物持ち」
凱は頷いた。
「分かった」
その素直さに、汐音はまた少し笑いそうになった。
****
スーパー。
闇医者と刑事が並んで買い物かごを持っている。
異様な光景だった。
汐音は野菜を選び、魚を選び、卵を入れる。
凱は黙ってついてくる。
「黒崎」
「何だ」
「煙草売り場を見るな」
「見てない」
「視線が行った」
「刑事の観察力を自分に向けるな」
「お前が吸うからだ」
汐音はかごにヨーグルトを入れた。
「胃にいい」
「俺用か」
「俺用でもある」
凱が少しだけ嬉しそうな顔をした。
汐音は見なかったことにした。
会計を終え、袋を持つ。
凱が自然に重い方を取った。
「俺が持つ」
「俺も持てる」
「冷えてる」
「またそれか」
「手」
凱は短く言った。
「冷やすな」
汐音は小さく舌打ちした。
でも、軽い袋だけを持った。
守られることに慣れろ。
凱の言葉が、ふと頭をよぎる。
慣れる気はない。
ないはずなのに。
少しだけ、手を預けるくらいなら。
そう思ってしまった。
****
凱の家に戻ると、汐音は簡単な食事を作った。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
野菜の小鉢。
凱はテーブルの前で、少し驚いたように見ている。
「何だ」
汐音が睨む。
「うまそうだ」
「食う前から言うな」
「食う」
凱は箸を取った。
一口。
少しだけ、表情が緩む。
「うまい」
短い言葉。
でも、嘘がない。
汐音は顔を背ける。
「当然だ」
「毎日食いたい」
「……お前は本当に」
「何だ」
「そういうことを、普通に言うな」
凱は不思議そうにしている。
汐音はため息を吐いた。
この男は、口数が少ないくせに、言葉の重さを分かっていない。
いや。
分かっていて言っているのかもしれない。
それがさらにたちが悪い。
食後、凱は皿を洗おうとした。
ぎこちない手つき。
汐音は横から指示を出す。
「洗剤つけすぎ」
「そうか」
「皿を割るなよ」
「割らない」
「そこ、ちゃんと持て」
凱が言われた通りにする。
汐音は少し笑った。
「刑事に皿洗いを指導する日が来るとはな」
「覚える」
「何で」
「お前が来た時、休ませるため」
汐音は言葉に詰まった。
本当に、この男は。
「……じゃあ、ちゃんと覚えろ」
「ああ」
凱は真面目に頷いた。
ともだちにシェアしよう!

