29 / 30

『刑事と闇医者、傷だらけの恋を縫い合わせる』 凱 × 汐音 #2

##2 **** その夜。 汐音は凱の家のソファで毛布に包まっていた。 本当は帰るつもりだった。 けれど、凱に「休め」と言われ、押し切られた。 体は確かに疲れていた。 診療所では眠れないのに、ここでは少しだけ眠気が来る。 それが悔しい。 「白石」 凱が湯気の立つマグカップを持ってきた。 「何だ」 「温かいもの」 「雑な説明だな」 受け取る。 甘くない。 ちょうどいい温度。 汐音は一口飲む。 「……悪くない」 「よかった」 凱は向かいに座る。 汐音はマグカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。 「俺、ここにいるの変だな」 「そうか」 「闇医者が刑事の家で飯作って、毛布に包まってる」 「変だな」 「同意するな」 凱は少しだけ笑う。 その表情が、柔らかい。 診療所で傷を縫っている時の凱とも、現場で銃を構える凱とも違う。 家にいる男の顔だった。 「白石」 「何」 「ここに来い」 汐音の手が止まる。 「一晩だけって言っただろ」 「何度でも来い」 「図々しい」 「そうだな」 「俺は診療所がある」 「送る」 「患者がいる」 「待つ」 「夜中に呼ばれる」 「迎えに行く」 汐音は呆れた。 「何でも即答するな」 「決めてるからな」 「何を」 凱は、まっすぐ汐音を見た。 「お前を一人にしないこと」 汐音の胸が大きく揺れた。 「……っ」 「診療所にいるお前も、闇医者のお前も、口の悪いお前も、雄女として見られるのを嫌うお前も」 凱の声は低く、静かだった。 「全部、俺の人生に入れる」 汐音は、息をするのを忘れた。 「重い」 「知ってる」 「馬鹿だ」 「それも知ってる」 「俺を守ると、お前が傷つく」 「傷つくのが怖くて、お前を見捨てる方が嫌だ」 汐音の目が熱くなる。 凱は、静かに手を伸ばした。 汐音の指先に触れる。 「冷たい」 「……うるさい」 「温める」 「勝手にするな」 「嫌か」 汐音は答えられなかった。 嫌ではなかった。 それが、一番困る。 「……嫌じゃない」 小さく言うと、凱の目が少しだけ揺れた。 それから、汐音の手を包み込む。 大きく、温かい手だった。 **** 汐音は、その夜、凱の家に泊まった。 ソファで寝ると言い張ったが、凱は寝室を使えと言った。 結局、言い合いの末、汐音が寝室、凱がソファという形になった。 「ここはお前の家だろ」 「今日はお前を休ませるための家だ」 「意味分からん」 「寝ろ」 「命令するな」 「頼みだ」 「頼みの声じゃない」 凱は少しだけ困った顔をした。 珍しい顔だった。 汐音は、ため息を吐く。 「……分かった。寝る」 凱の表情が、少しだけ緩む。 「おやすみ」 その言葉に、汐音は胸が詰まった。 診療所では、誰もそんなことを言わない。 患者は来て、治療して、去っていく。 夜は長く、冷たく、いつも一人だった。 「……おやすみ」 小さく返すと、凱は静かに頷いた。 扉が閉まる。 汐音はベッドに横になった。 他人の家なのに、不思議と落ち着く。 いや、違う。 凱がいるからだ。 そう認めるのは悔しい。 けれど、もう誤魔化せなかった。 **** 翌朝。 汐音が起きると、キッチンから物音がした。 行ってみると、凱が不器用に卵を焼いていた。 「……何してる」 「朝飯」 「見れば分かる」 「焦げた」 「だろうな」 汐音はフライパンを覗き込み、ため息を吐いた。 「貸せ」 「休ませるつもりだった」 「このままだと炭を食うことになる」 凱は素直に場所を譲った。 汐音は卵を焼き直す。 凱は隣で見ている。 「見るな」 「覚える」 「患者でもないのに観察するな」 「お前を休ませたい」 その言葉に、汐音は少しだけ手を止めた。 「……皿、出せ」 「ああ」 凱が皿を出す。 二人で朝食を食べる。 簡単なものだった。 でも、診療所でゼリー飲料を流し込む朝とは、まるで違った。 汐音は箸を置く。 「黒崎」 「何だ」 「たまになら、来てやる」 凱が顔を上げる。 汐音は視線を逸らした。 「ここに」 凱はしばらく黙っていた。 それから、低く答える。 「ああ」 「毎日じゃない」 「ああ」 「診療所もある」 「分かってる」 「迎えは呼んだ時だけ」 「努力する」 「そこは即答しろ」 凱は少しだけ笑った。 汐音も、ほんの少しだけ笑った。 **** 数日後。 汐音は診療所の奥に、小さな鞄を置いた。 中には、着替えと歯ブラシ。 凱の家に置いておくものだった。 自分で用意した。 その事実に、少しだけ顔が熱くなる。 「白石」 扉の方から声がした。 凱だった。 「勝手に入るな」 「鍵は開いてた」 「そういう問題じゃない」 凱の視線が、鞄へ向く。 「それ」 「見るな」 「うちに置くのか」 「……邪魔なら持って帰る」 「邪魔じゃない」 即答だった。 凱は、汐音の前まで来る。 「白石」 「何」 「おかえり、はまだ早いか」 汐音の胸が、どくんと鳴った。 何だ、その言い方。 反則だろう。 「……診療所に来た側が言う台詞じゃない」 「そうか」 「でも」 汐音は小さく息を吐く。 「そのうち、言わせてやる」 凱の目が、少しだけ見開かれる。 汐音は視線を逸らした。 「調子に乗るなよ」 「ああ」 凱は、静かに頷いた。 「待つ」 その言葉に、汐音は胸が熱くなった。 凱は、追い詰めるだけではない。 守ろうとするだけでもない。 待つことも覚えようとしている。 それが、どうしようもなく嬉しかった。 **** 雨の夜。 診療所を閉めた後、汐音は凱の車に乗った。 助手席。 以前は張り込みのために座った席。 今は、凱の家へ向かうための席。 「寒いか」 凱が聞く。 「寒くない」 凱は黙って暖房を上げた。 汐音は横目で睨む。 「聞く意味」 「お前の否定は信用してない」 「本当に失礼な刑事だな」 「手」 凱が言う。 汐音は少し迷ってから、片手を差し出した。 凱が、その手を包む。 温かい。 「冷たい」 「知ってる」 「なら、温める」 「……勝手にしろ」 車は雨の中を進む。 裏路地のネオンが、窓に滲む。 汐音は外を見ながら、小さく呟いた。 「俺、本当に面倒な相手を選んだな」 凱は前を見たまま答える。 「俺もだ」 「否定しろ」 「面倒だが、手放す気はない」 汐音は黙った。 顔が熱い。 「馬鹿刑事」 「何度でも言え」 「重い」 「知ってる」 「……でも」 汐音は、凱の手を握り返した。 「嫌じゃない」 凱の横顔が、少しだけ柔らかくなった。 車は、凱の家へ向かっていく。 診療所も、裏路地も、汐音の人生から消えるわけではない。 けれど、帰れる場所が一つ増えた。 守られることには、まだ慣れない。 それでも。 この温かい手に、少しずつ慣れていくのも悪くない。 汐音はそう思いながら、窓の外の雨を見つめた。

ともだちにシェアしよう!