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#54 セーラ陥落

深く冷たい闇に包まれた、深夜のミンチン学園。 隣のクリスフォード邸から高いレンガ塀を越え、しなやかな猫のような身のこなしで学園の敷地に降り立った影があった。ラムダスである。 最悪の予感を胸に、彼は単身でセーラを救出しようと密かに潜入を試みたのだ。 しかし、ミンチンは学園の警備を異常なまでに強化していた。 中庭を抜け、校舎の裏口へと差し掛かった瞬間、暗闇から複数のカンテラの明かりがラムダスを一斉に照らし出した。 「……っ!」 「不審者だ! 捕らえろ!」 物陰に潜んでいた男たちが、一斉にラムダスに襲いかかる。ラムダスもしなやかな身のこなしで抵抗したものの、多勢に無勢。やがて背後から何人もの手で羽交い締めにされ、彼は冷たい石畳の上に強く押さえ込まれてしまった。 騒ぎを聞きつけ、ガウン姿で現れたミンチンは、取り押さえられたラムダスの顔をランタンの光で照らし、嗜虐的な笑みを浮かべた。 「隣の屋敷に逃げ込んだネズミが、何の用かと思えば……セーラを盗み出しに来たか。地下の反省室へ放り込んでおけ。二度と日の光が拝めないようにな」 ◇ 翌朝、院長室に呼び出されたセーラは、ミンチンのデスクの上に無造作に放り出された見覚えのある褐色のターバンを見て、息を呑んだ。 「……院長先生、これは」 「昨夜、学園に忍び込んできたコソ泥から巻き上げたものだ。お前を助けに来たなどと喚いていたが……今頃は地下の冷たい反省室で、惨めに震えている頃だろうな」 「ラムダスを……っ! ひどい、彼は何も悪くないのに!」 青ざめるセーラに対し、ミンチンはゆったりと革張りの椅子に腰掛け、ねっとりとした視線を絡ませる。 「不法侵入した罪人をどう処分しようと私の自由だ。警察に突き出せば、異国の浮浪者などどうなるか……分かるな?」 ミンチンの言葉に、セーラはギリッと唇を噛み締めた。 「だが、セーラ。私とて鬼ではない。お前の『心がけ』次第では、彼を生かしておいてやってもいいぞ」 「……どういう、意味ですか」 「強がるのはもうやめろ。私の気持ちを受け入れ、完全に私に服従すると誓うのなら……あいつを解放することはできないが、再びお前の『専用の使用人』として仕えさせてやろう。……お前はあの氷室のような屋根裏部屋を出て、私の部屋で暮らすのだ」 それは、セーラから一切の逃げ道を奪い、心身のすべてを自分に捧げよという絶対的な服従の要求だった。ラムダスの命を盾に取られたセーラには、もはや「否」と答える権利など残されていなかった。 ◇ その日の午後。 氷室のように冷え切った屋根裏部屋で、セーラはわずかな私物をまとめ、静かに部屋を出ようとしていた。 ギィ……と扉が開き、そこへ血相を変えたアーメンガードが飛び込んでくる。 「どこへ行くんだ、セーラ! まさか、院長先生のところへ行くつもりじゃないだろうな!」 セーラは足を止めず、振り返りもしなかった。 「……うん。僕はこれから、あの人の部屋で暮らすことになったから」 「やめろ、君は騙されているんだ! 院長先生が手紙の内容を知っているなんて嘘だ! あの手紙はロッティが持っているんだから、ミンチンが知るはずがないんだ!」 必死に引き留めようとするアーメンガード。しかし、セーラの横顔はひどく凪いでいた。絶望すらも通り越し、一切の感情が抜け落ちたような、虚無の瞳。 「……今更、そんな事どうでもいいんだよ。アーメンガード」 「どうでもいいって……君は、それでいいのか!?」 「ラムダスが捕まったんだ。彼を生かすためには、もう、こうするしかないんだよ」 手紙の真偽など、もはや些末な問題でしかなかった。大切な者が命の危機に晒されている以上、自分が身代わりになる以外の選択肢はない。 アーメンガードの制止を静かに振り切り、セーラは屋根裏部屋を後にした。残されたアーメンガードは、崩れ落ちるようにその場にへたり込み、己の無力さにただ涙を流すことしかできなかった。 ◇ ——夜。 豪奢な調度品で彩られた、温かいミンチンの寝室。 「……来たか、セーラ」 待ち構えていたミンチンは、部屋を訪れたセーラを見て勝利の笑みを浮かべた。ついに、この気高きダイヤモンドを完全に手に入れたのだと。 しかし、ミンチンの前に歩み出たセーラの態度は、怯えて屈服した哀れな生贄のそれとはどこか違っていた。 「ええ。これからは、あなたと共にここで暮らします」 セーラは自ら進み出ると、ミンチンの首に両腕を絡ませた。 どうせ一生、この鳥籠から出られないのなら…… 絶望の底で完全に諦めの境地に至った瞬間、セーラの中で、これまで彼を縛り付けていた倫理や誇りといった『タガ』が、音を立てて外れた。 (……逃げられないなら、せいぜい遊んでやる) セーラの唇の端が、艶やかに吊り上がる。 怯えも抵抗もない。ただ、相手を絡め取り、狂わせ、堕落させるための、甘く毒を帯びた魔性の笑み。 「僕を、可愛がってくれますよね……。先生?」 吐息混じりに囁き、セーラは自らミンチンの唇を塞いだ。 そのあまりにも能動的で蠱惑的な振る舞いに、ミンチンは一瞬呆然とし、やがてその甘い毒に溺れるように激しくセーラを抱き寄せた。 悲劇の底で耐え忍んでいた『気高き王子』は死んだ。 今この瞬間、セーラは鳥籠の中のすべてを翻弄し支配する、魔性の存在へと完全に覚醒したのである。 つづく 54話グラレコ https://fujossy.jp/fanarts/8202 — 「(ラムダス)のせいで、あなたにこれほどの業を背負わせてしまうとは……」屋根裏で再会したセーラ様の首筋には生々しい痕が刻まれ、その瞳はどこまでも空虚でした。 「僕は今、とても良くしてもらっているんだ」 絶望の底で艶やかに微笑み、自ら『狂気』を被ることで必死に心を守ろうとする私の主(あるじ)。 次回、A-Little-Prince 第55話。 この命に代えましても……私は最後まで、あなた様の影としてお仕えいたします。

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