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第8話 白い薔薇の誓い8

「――大変お待たせいたしました。長男の広樹にございます」  案内役の静かな声と共に扉が開かれ、漆黒のフロックコートに身を包んだ広樹様が、音もなく姿を現した。その美しい仕立ての衣服の下にある身体は、いささか細く、白磁のような肌の白さは彼の病弱な身の上を物語っている。  しかし、その背筋は天を突くように真っ直ぐに伸び、歩を進める足取りには一族の頂点に立つ者にしか許されぬ、絶対的な気品と風格が宿っていた。病を抱えながらも、内側から溢れ出るような峻烈(しゅんれつ)たる覇気が、室内の空気を一瞬にして支配する。  広樹様は、優雅に座す媒酌人の伯爵夫妻へ、そして今日のお相手である令嬢と奥方に視線を向けた。その瞳は澄み渡り、すべてを見通すかのような深い光を(たた)えている。  先に場を護り抜いた綾子様と聡様が、深く頭を下げて広樹様を迎える。その横を通り過ぎ、上座へと進んだ広樹様は、フロックコートの裾を美しく捌きながら腰を下ろすと、お相手の令嬢を真っ直ぐに見据え、静かに、しかし凛とした声を響かせた。 「浅山家の奥方様、そして姫君。本日は我が家のために貴重なお時間を割き、お運びいただきましたこと、心より感謝申し上げます。――当主の代理たる身でありながら、お迎えが遅れましたこと、どうかお許しくださりませ。お相手方に失礼のないよう、別室にて身支度と心の準備を整えておりました。  先ほど、我が家の者がいささか無調法(ぶちょうほう)な騒ぎを起こしたと聞き及んでおりますが……幸い、我が家自慢の姉弟(きょうだい)たちが、皆様を不快にさせることなく場を護ってくれたようで、これほど誇らしいことはございません」  広樹様は長男としての風格をお持ちだ。絶対的なカリスマ性と気高さ。病弱さを微塵も感じさせない威厳を持った佇まい。  普段僕は聡様ばかりお世話をしていて、広樹様の事をよく知らない。幼い頃聡様と一緒によく遊んでもらっていたので、面倒見のいい優しいお兄さんという印象しかなかった。…もう僕も聡様と同じ十五歳。大人ではないけれど、いたいけな子供ではない。広樹様もまだ学生ながら、二十二歳。月日は巡る…な。  広樹様は、令嬢を見つめ、微笑みを湛える。 「姫君。あなたがこの部屋に入られた瞬間、私には、我が家に新しい、そして何よりも美しい風が吹き込んだように感じられました。古い衣を脱ぎ捨て、新しき時代を進む我が家にとって、あなたこそが待ち望んだ光に他なりません。  ――さあ、伯爵閣下。お待たせいたしました。我が一族の未来を決める楽しきお話を、始めようではございませんか」  広樹様の凛とした言葉が部屋を満たし、誰もがその器量に感嘆の息を漏らそうとしたその瞬間だった。ドタドタと足元を乱した無作法な音が廊下に響き、静かに閉まっていた扉が、激しい勢いで押し開けられた。 「……ま、待ちたまえ……ッ!」  息を切らし、着物の裾を無惨に乱した叔父政公(まさきみ)が、血走った眼で部屋に立ち尽くしていた。  別室で大人しく引き下がるプライドすら失い、「完璧な世代交代」への恐怖と怒りに突き動かされて戻ってきたのだ。  媒酌人の伯爵夫妻、そしてお相手の当主夫妻という最高位の賓客の前であることも忘れたかのような、そのあまりにも哀れで醜悪な姿に、室内の空気は一瞬にして凍りつく。  広樹様は、入ってきた叔父に対して眉一つ動かさない。ただ、フロックコートの袖口を静かに整え、冷徹な、しかしどこか憐れみを帯びた瞳で叔父を真っ直ぐに見据える。  その視線だけで、叔父の言葉の軽さが浮き彫りになる。 「……叔父上。まだお体の具合が優れませんか。媒酌人の伯爵閣下、ならびに浅山家の方々の御前です。我が一族の恥をこれ以上晒さぬよう、どうぞお引き取りを。あなたの時代は、先ほど、私の弟と姉が美しく終わらせてくれました。これ以上、我が家の『未来』を汚さないでいただきたい」 と、一喝する。  聡様はここでも言葉で反論はせず、すっと音もなく立ち上がり、叔父の元へ歩み寄り、無機質で完璧な「作法」として、叔父の体を静かに、しかし抗えない力で拘束し、雅やかに一礼して、 「申し訳ございません。叔父はやはり、少々熱があるようでございます。閣下、皆様、どうぞお気になさらず、お話をお続けくだされ。……さあ、叔父様。お薬の時間にございますよ」  戻ってきた叔父の醜態を見たお見合い相手の令嬢は、驚くどころか、フッと冷たい笑みを漏らす。  その刹那、広樹様が激しく咳き込んでしまった。懸念していた健康面が浮き彫りに…。綾子様が焦って凍りつく中、聡様が誰よりも素早く、誰にも気づかぬよう(僕は気づいてしまったが)懐から清潔な白ハンカチとお薬をサッと差し出し、兄の耳元で何か囁いていた。  聡様は何事もなかったかのように、周りに一礼すると、 「申し訳ございません。本日は少々風が冷とうございますゆえ、兄様の喉に障ったようでございます。伯爵閣下、よろしければ僕がお茶を新しくお注ぎ直させてもよろしいでしょうか」  その様子にまたも感嘆した伯爵閣下が 「いや、広樹殿、貴殿には誠に頼もしい弟御がおいでだ。十五歳にしてこれほど周囲に目を配り、兄を敬う心を持っているとは、一条家の教育の高さが知れるというもの。亡きお母上も、さぞお喜びであろう」  相手の令嬢も聡様を真っ直ぐ見て、 「お兄様を想われるお優しきお姿、大変胸を打たれました。聡様のような弟君をお持ちの広樹様は、きっとお心の温かいお方なのでしょうね」 と、恥ずかしそうに、手をあてがいながらもゆっくりと言葉を重ねる。 「ではお茶を変えますね」 と、聡様が急須を持った時だった。正服のズボンのポケットから聡様の形見の懐中時計が落ちてしまったのだ。 「これ、何をするか!伯爵閣下の前で何たる不始末だ!そのような玩具(おもちゃ)を大事な席に持ち込むなど、不謹慎極まる。やはり妾腹(しょうふく)の生まれは、どれほど教育を施しても大事なところで育ちの悪さが出る。今日のお見合いに泥を塗る気か!」  どの口が!と思ったが、聡様は必死に涙を堪え、平伏し、 「も、申し訳ございません……。僕の不調法にございます……」  叔父は時計を見て、 「そんな言い訳が通用するか!格式あるお見合いの場に、そんな玩具(おもちゃ)を持ち込むなど!我が家の恥を晒す気か!」 と、激昂し、聡様を部屋から叩き出そうとする。  聡様が恐怖と悔しさで震え、広樹様と綾子様が止めに入ろうとしたその瞬間、僕は聡様の前にひざまずき、床に額をこすりつけるようにして平伏する。 「叔父様、お静まりください……!すべては、この僕が仕組んだ不祥事にございます!聡様は何も悪くおいでになりません!」  僕は嘘をつく。全ては聡様を護るために。 「聡様は本日のお見合いを心から祝い、時計はお屋敷に置いてこられる御心積もりでした。しかし、僕が聡様のお召し物を整える際、あえてそのポケットに時計を忍ばせたのです。聡様が動揺して粗相をなされば、お見合いが台無しになり、僕の仕える本家の威厳が保たれると……浅はかにも、分不相応な嫉妬を抱いてしまいました。すべては僕の、度し難い悪意にございます!」  僕は素早く聡様と叔父の間に膝をつき、時計を拾い上げながら許しを請う。 「お静まりくださいませ、政公(まさきみ)様。全ては、わたくしどもの配慮が至らなんだせいにございます」 「何だと?使用人の分際で口を挟むか!」  僕は負けない。 「滅相もございません。政公(まさきみ)様がこれほど厳しくお叱りになりますのも、ひとえに当家の体面を思われてのこと、誠に恐れ入ります。  ですが、聡様は本日、病弱な兄上を必死にお支えしようと、十五の身にはいささか重き大役を、張り詰めて務めておいででした。その緊張から、お疲れが出て手元が狂われたものと存じます。幸い、床に傷はございません。ここで政公(まさきみ)様の大声が響いては、せっかくの吉事が台無しになり、かえって我が家の品格を疑われかねません。どうか本日は、この不調法な見習いの顔に免じまして、お怒りを収めてはいただけないでしょうか」  叔父は僕を激しく睨みつけ、怒鳴りつける。 「ええい、黙れ! 誰に向かって物をお言うか!たかが『見習い』の分際で、この私に指図するとは、何たる身の程知らず!一条家の仕込みはどうなっているのだ!」  聡様は青ざめて叔父にすがっていた。 「お、叔父様!お許しください、この者は僕を……!」  叔父政公(まさきみ)は、聡様を振り払い、僕に向かって怒鳴る。 「やかましい!聡、お前が甘やかすからこのような無礼者が育つ。おい、そこの見習い。お前には主人を愚弄した罰として、本日より三日間の『室歩行(へやあるき)の禁止』と『物置での謹慎』を申し付ける。もちろん、その間の食事は半分とする。見合いが終わり次第、直ちに沙汰を執行する」  僕は深く床に頭をこすりつけ、微動だにせず、 「……はっ。わたくしの度重なる不調法、誠に申し訳ございませんでした。政公《まさきみ》様の寛大なるお裁き、謹んでお受けいたします」  僕は引き下がり、元居た場所に戻る。  聡様は今にも泣きそうな顔で僕の目を見る。僕はこのために居るんですよといった笑みを浮かべる。  この騒ぎのどさくさに紛れて叔父が席に着き、また広樹様のお見合いが始まる。  まだ叔父が不機嫌そうに鼻を鳴らしている中、広樹様は独自のカリスマ性で、また場を仕切る。 「……ふう、お騒がせいたしました。あいつはまだ見習いの身でして、私の大事な弟の前だと、どうにも緊張が移ってしまうようです」 「ふん、教育がなっとらん。伯爵閣下の前で何たる無様だ」 「お恥ずかしい限りですわ、叔父様。ですが、あの使用人も聡の人徳に免じて、普段から甘やかされているのでしょう。……ねえ、広樹?」 と、綾子様。 「ええ。我が家は少し騒がしいところがありますが、嘘偽りのない温かい家です。……こんな不調法な私どもですが、どうかこれからも、長くお付き合いいただけますか?」 と、広樹様は話を進める。  広樹様と相対している令嬢は、 「とても素敵なご家族ですね。お茶の熱さよりも、皆様の仲の良さに胸が温かくなりましたわ。ふふ、失礼いたしました。……ですが、これほど退屈しないお見合いは初めてでございますわ、広樹様」  令嬢を一瞥すると、叔父は 「は、浅山家のご令嬢、これはお見苦しいところを……」 と、言い出したが、彼女が言葉を遮る。 「いいえ、叔父様。私は感動いたしましたの。お堅いお見合いの席だと覚悟して参りましたが、こちらの皆様は、なんと情が深く、そして……お互いを必死に守り合っていらっしゃる」  広樹様は一言、 「……お恥ずかしい限りです」  だが、彼女はにこやかに悪戯っぽくウインクして、 「私はね、人形のように澄ました殿方と、家のために形だけの婚姻を結ぶのなんて真っ平ご免だと思っておりましたの。ですが、身分や体裁よりも、家族を、そして使用人一人をも大切に想うお心があるあなたなら――私、喜んでお嫁に参りますわ」  広樹様は一瞬、目を見開いたが、 「恐れ入りました。……形ばかりの退屈な夫婦にするつもりは、最初からございません。あなたのような素晴らしい方を、生涯退屈させないと誓いましょう」 と、言葉を落とした。  媒酌人の伯爵は豪快に笑う。 「ははは!これは一本取られたな、広樹殿。どうやら、良い縁談になりそうだ」  場が明るくなった。  作法では、お見合いの場でお嬢様が直接返事することはないと父に聞いていたけれど。この令嬢は軽く通常の作法を越えてきた。大人しそうに見えたが、型破りもいいところだ。実はこう見えて結構お転婆なのかもしれない。気品が高く理知的でお転婆。天真爛漫な聡様にとってはいいお義姉様(ねえさま)になることだろう。一条家にとって最高の女性かもしれない。  僕としては、聡様の為にも上手くこの話がまとまることを祈るばかりだ。

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