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第19話 僕の護るべき星9
その日、僕は母屋ではなく、母屋と細い廊下で和室が揃っている別棟の和館の二階、姉様の部屋に居た。
「姉様。今度の木曜日、歌舞伎鑑賞僕も行くよ。その時雪之丞と会うんでしょ」
「え…な、何を言ってるの、聡」
姉様は慌てた。僕はもう巧から話を聞いている。姉様が危険な恋をしていて、執事見習いの巧と書生の山口と計画を立てていること。それを三人だけの秘密にしていたこと。
「僕にも手伝わせて。姉様の恋を護るためにも。僕が居た方が安全だと思うよ」
「聡、貴方はどこまで知っているの?」
「全部だよ、姉様。山口が手配した劇場の古い知人のことも、高瀬さんを引き離すために巧が動こうとしていたことも」
僕が淡々と事実を並べ立てると、姉様は顔からすっと血の気を引かせ、両手で口を覆った。和室の畳に、姉様の着物の裾が小さく擦れる音が寂しく響く。
「巧が……巧が貴方に話したのね……!」
「巧を責めないで。僕が問い詰めたんだ。巧は姉様たちのために、僕にまで必死に嘘を吐こうとした。それがどれだけ僕を傷つけるかも知らずにね。……でも、もういいんだ。真実を知った以上、僕が黙って見過ごすわけがないだろう?」
僕は一歩、姉様の元へと歩み寄り、その華奢な肩にそっと手を置いた。
「怒ってはいないよ。ただ、あまりにも無鉄砲で危なっかしいから、放っておけないだけ。高瀬さんはお父様の懐刀だ。いくら巧が兄様の伝言を騙ったところで、後から確認されたら一発で嘘が露呈する。そうなれば、巧も、山口も、そして姉様だってただでは済まない」
「それは……、でも、私はどうしても雪之丞様に……」
姉様の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。名家の次女として、家のために愛のない婚姻を受け入れるよう強いられてきた姉様。そんな姉様が、生まれて初めて見せた剥き出しの反逆。その必死な姿に、僕はほんの少しだけ、自分と巧の姿を重ねていた。
「分かっているよ。だから僕が『盾』になると言っているんだ。僕の口から高瀬さんに伝言を伝えれば、主人の命令だ、誰も疑いはしない。僕が一緒に行くことで、姉様が体調崩して席を外したときの周囲の目隠しだって、完璧にやってみせる」
姉様は涙に濡れた目を大きく見開き、僕を見つめた。
「聡……貴方、本当に手伝ってくれるの?失敗すれば、貴方の立場だって……」
「僕の立場なんて、最初から泥の中に転がっているようなものだよ。庶子の僕が何をしようと、今更お父様の評価が下がるわけじゃない。それにね、姉様」
僕はふっと笑みを深め、その耳元へ顔を近づけた。声のトーンを一段落とし、一条家の人間としての冷徹な本音を囁く。
「これは、姉様のためだけじゃないんだ。もしこの密会を、あの疑り深い政公叔父様が嗅ぎつけて大騒ぎしてくれたら……その時は、叔父様をお屋敷に入れさせないように完全に叩き出す、最高の罠に変えてあげるよ」
「え…?聡、それはどういうことなのかしら…叔父上はもう別の屋敷にいらっしゃるし、ご子息までおいでよ?」
「確かに別の屋敷にはお住まいだけど、お父様の相談役という名目で、今でも毎日のようにこの本邸に出入りしては我が物顔で仕切っているだろう?兄様のお見合いの席にだって、我が物顔でしゃしゃり出てきてあの醜態だ」
僕は姉様の耳元から少し顔を離し、冷ややかに唇の端を上げた。
「あの人は先日の兄様のお見合いの失態で、周囲からから言われ、お父様からの信用を失いかけて酷く焦っている。だからこそ、今度は姉様の不審な動きを嗅ぎつけて、起死回生のネタにしようと必死で飛びついてくるはずさ。一条家の次女が、大衆の役者と楽屋裏で密会しているなんてね。もしそうなったら、泳がせるだけ泳がせて、大騒ぎさせた後に僕がそれを引っくり返すのさ」
「引っくり返す……?」
「『叔父様が姉様を陥れるために仕組んだ、事実無根の卑劣な狂言だ』ってね。劇場の人間も巻き込んで、叔父様の妄想ということにすり替えてしまう。お父様だって、二度も一族に泥を塗るような騒ぎを起こした叔父様を、これ以上本邸に立ち入らせるわけにはいかなくなる。あの人の発言権を完全に奪って、このお屋敷から放逐するんだよ」
姉様は息を呑み、怯えたような顔で僕を見つめた。僕の中に宿る、一条家の血がもたらした冷徹な策略。それが、ただの「優しい弟」ではないことに気づいたのだろう。何でも優しいばかりが一条家の人間じゃない。
「聡……貴方、そんな恐ろしいことを……」
「恐ろしいことなんかじゃない。僕がこの家で生き残り、そして……僕の、たった一人の大切なものを守るためには、これくらい当然の戦いだよ」
脳裏に、あの真っ直ぐな瞳で僕を見つめ、不遜なまでの想いを告白してくれた巧の姿が浮かぶ。彼を誰にも奪わせないためなら、僕はどんな汚い手だって使ってみせる。
「ねえ、姉様。僕の言う通りにしていれば、姉様は雪之丞と会えるし、その恋も僕が隠し通してあげる。悪い話じゃないよね?」
僕は姉様の震える手を優しく包み込み、安心させるように微笑みかけた。
「…そうね。あの叔父上の事は私も異常に思っていましたわ。長男の広樹には話しては駄目よ。まあ広樹の事だからわかってはくれそうですけれど、念の為ね」
「うん。広樹…、兄様には言わないでおくね。心配かけてしまうからね。兄様にはご病気を治してこの間のお見合い相手の浅山家のご令嬢とうまくやってもらわないと」
「聡が頑張ったお見合いですものね。広樹もお相手の浅山家のご令嬢もお互い気に入っているようですし」
兄様には早く結婚までとはいかなくても婚約までこぎ着けてもらいたい。
「うん。だから今回の姉様の件で、一条家の名に傷がつくようなことだけは絶対に避けなきゃいけない。兄様の縁談に響いたら大変だからね」
僕は姉様の手を握る力を少しだけ強め、念を押すように言葉を続けた。
「当日は僕の指示に従って動いて。高瀬さんの引き剥がしも、叔父様への揺さぶりも、全部僕と巧でコントロールするから。姉様はただ、体調が優れないフリをして席を立ち、指定した衣裳部屋で雪之丞を待っていればいい」
姉様は小さく息を吐き出し、覚悟を決めたように力強く頷いた。
「わかったわ、聡。貴方を信じるわね……。それにしても、巧もよく思い切ったわね。あの子、いつもは石橋を叩いて渡るような慎重な性格なのに、まさか山口と組んで私と雪之丞様の仲介するなんて」
姉様のその言葉に、僕の胸の奥が微かに熱を帯びる。
『身分違いの、許されぬ恋に苦しむ姿を、僕は放っておけませんでした』
(僕だって同じだよ、巧――)
先日、僕の部屋で、あの真っ直ぐな瞳で告白してきた巧の顔がフラッシュバックする。姉様の無謀な恋に自分自身の僕への想いを重ねていたからこそ、巧はあんなに必死になっていたのだ。僕を裏切るためではなく、僕を狂おしいほどに想う心が、彼を突き動かしていた。
「……巧は、根が優しいからね。それに、窮屈なこのお屋敷の空気に、少しばかり同情してしまったのかも」
僕は巧の秘めた想いを姉様に明かすつもりは毛頭なかった。巧のあの熱い感情も、不遜な思慕も、僕にしか見せない表情も、すべて僕だけのものだ。誰にも分け与えたくはない。
「姉様。話はここまで。長居すると、女中たちに変に怪しまれるからね。木曜日、絶対に成功させよう」
「ええ、ありがとう、聡。貴方が頼もしい弟になってくれて、私は本当に嬉しいわ」
姉様の少し安心したような笑みに見送られながら、僕は和館の部屋を後にした。
細い廊下を通り、母屋へと戻る足取りは軽い。頭の中ではすでに、木曜日の劇場の配置、高瀬さんを動かす頃合い、そして叔父の政公が罠に飛び込んでくる瞬間の想定実験が完璧に出来上がっていた。
「待っててね、巧」
暗い廊下を進みながら、僕は小さく呟いた。
僕のたった一人の執事。僕を愛していると誓った男。彼をこの一条家のドロドロとした権力闘争から守り抜き、僕の隣に永遠に縛り付けるための舞台装置は、これで全て整った。
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