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第20話 僕の護るべき星10

 決戦の木曜日、祝日。 「どうか道中お気を付けくださいませ、綾子様、聡様。それに山口さんも巧君も」  女中たちに送り出され、綾子様と聡様は人力車に乗る。僕と書生の山口さんは、その人力車を走って追いかける。 「巧、頑張ろうな…新富座まで」  山口さんが僕に声を掛ける。僕は笑いながら「はい」と返事する。  何も今回の件については言わないけれど、僕と山口さんは頷きあった。 (大丈夫、聡様も居る。僕たちは失敗しない)  新富座までの道のりは、決して短くはなかった。  舗装されきっていない道を、車夫が引く人力車が小気味よい音を立てて進んでいく。僕と山口さんは、その背中を追うようにして並んで走った。  額を流れる汗が目に入りそうになるのを、羽織の袖で手早く拭う。  ふと前方を走る人力車に視線をやると、すだれの隙間から、聡様がちらりと後ろを振り返ったのが見えた。目が合った一瞬、聡様は女中たちに見せていた「殊勝な弟」の顔を消し、僕にだけ分かるような、低く鋭い笑みを唇の端に浮かべた。 (大丈夫。聡様が僕たちをコントロールしてくださっている)  胸の奥がドクンと熱くなる。  主従の線を越え、想いを通じ合わせたあの日から、僕の心迷いは完全に消え去っていた。今走っているこの道も、その先にある新富座という舞台も、すべては聡様が僕を護り、僕たちの未来を切り開くために敷いてくれた道の上なのだ。 「おい、巧!見えてきたぞ!」  山口さんの弾んだ声に顔を上げると、賑やかな芝居街の風景の中に、一際大きくそびえ立つ「新富座」の建物が目に飛び込んできた。  絵看板が華やかに掲げられ、劇場周辺はすでに、今をときめく中村雪之丞の姿を一目見ようと集まった見物客や、着飾った見物人たちでごった返している。祝日というのもあり、人でごった返している。人力車がその喧騒の中に滑り込むようにして止まった。 「綾子様、聡様、お足元お気をつけください」  僕と山口さんはすぐに駆け寄り、息を整えながらお二人を降ろす。  すでに劇場の入り口には、お父様の懐刀である高瀬さんが、数人の供を引き連れて厳しい表情で待ち構えていた。 「綾子様、聡様。お待ちしておりました。席の手配はすべて完了しております」  高瀬さんが慇懃に頭を下げる。その鋭い眼光が、一瞬だけ僕と山口さんの上をかすめた。いつもの僕なら、その視線に胃が縮むような心地がしただろう。だが、今は違った。 「ありがとう、高瀬さん。姉様も楽しみにしていたんだ。さあ、中へ入ろう」  聡様が何食わぬ顔で高瀬さんの前に進み出、その横顔で僕に無言の合図を送る。  いよいよ幕が上がるのだ。聡様が袖を二度引く。  それだけで、何を意味しているのか分かる。  いつの間にか僕たちは、言葉さえ必要としなくなっていた。  主従だからではない。  幼馴染だからでもない。  あの日、互いの想いを確かめてから――僕たちは、もう一人では生きられないところまで来てしまったのだ。  僕は聡様に付くと、山口さんは芝居茶屋の方へ向かって歩いて行く。綾子様に付いたのは妙齢の女中だ。幕間に芝居茶屋の従業員が食べ物や飲み物を持ってくるので、それを主人に差し出す。  今日出されたのは、昼頃に高級な幕の内弁当。午後三時ころには新富座の人気役者、中村雪之丞の家紋入りの特製のまんじゅうが配られた。  家紋があるほどの人気役者の中村雪之丞。彼を目当てに観に来ている客も多い。その人気役者をこの中の誰が綾子様と恋仲だと知るだろう。 「ねえ、きっとさ、姉様は高額なおひねりを届けるんだろうね」 こそこそと僕に聡様が囁く。  綾子様は白い紙に筆で、目録《おひねり》を書かれている。二人の席は隣ではなく、男性である聡様が上座、女性である綾子様が下座に座っているが、嫌でも視界に映る。 「御贔屓役者ですから…」  僕はそういう言葉に留めておいた。僕ら以外にも桟敷席には一条家の使用人たちが居る。こんなところで綾子様の秘密が漏れることは差し控えないといけない。聡様もわかっているだろう。 「そうだね。僕の学友のお母様たちが夢中になるのも頷ける。あれだけ華があれば、誰もが目を奪われてしまうのも無理はない」  聡様は何気ない風を装って、少し大きめの声でそう言葉を続けた。周囲の女中や、少し離れた場所に控えている高瀬さんの耳を意識してのことに違いない。ただの芝居好きな少年としての言葉に、誰も不審を抱く様子はなかった。  やがて場内の灯りが落とされ、柝の音が賑やかに響き渡ると、いよいよ中村雪之丞が登場する演目が始まった。  舞台の上に雪之丞が現れた瞬間、客席からは割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こり、おひねりが次々と舞台へ投げ込まれる。その妖艶で、どこか浮世離れした美しさは、確かに観る者を圧倒するだけの力があった。  僕はそっと綾子様の方へ視線をやった。  綾子様は、膝の上で両手をきつく握りしめ、食い入るように舞台を見つめている。その瞳には、一人のファンとしての憧れなどではなく、狂おしいほどの情念と、今日この後に控える逢瀬への緊張が張り詰めていた。命懸けでこの男を想っているのだということが、その横顔から痛いほどに伝わってくる。  ふと、隣の聡様から微かに冷たい気配が立ち上るのを感じた。  聡様は舞台の雪之丞を見つめながら、その実、冷徹な目で劇場の客席の隅々までを観察していた。お父様の懐刀である高瀬さんの動き、そして――この劇場のどこかに潜んでいるはずの、叔父・政公の放った泥棒猫のような視線を。  聡様は、膝の上でごく自然な動作を装い、僕の羽織の袖を指先で小さく二回、引いた。 『準備しておけ』  それが、あの日に二人で共有した合図だった。  時計の針は間もなく、公演終了の時間を迎えようとしている。舞台の上の華やかなお芝居が最高潮へと向かうのと同時に、僕たちの裏の舞台も、ついに幕が上がろうとしていた。

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