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第21話 閑話
「俺だって家に帰ればお坊ちゃんなんだけどな…」
俺は芝居茶屋で出がらしのお茶を飲みながら、時が来るのを待っていた。
一条家の使用人の書生としてもう一年。田舎の家を出てもう一年か。
俺の家も一応元武士の出で、今は郵便局長をしている父を持ち、家も一条家ほど立派ではないがそれなりの広さを持っている元武家屋敷に住んでいる。
家に帰れば「お坊ちゃま」と、奉公人から言われる。…だが、田舎だ。
初めて綾子様を見た時、俺の心は鷲掴みになった。彼女の持つ理性的な美しさと品格。どこか都会的な光と影を持つその姿。
その美しさに、ただ圧倒された。田舎の狭い世界しか知らなかった俺にとって、一条綾子という女性は、まるで雲の上の絵巻物から抜け出してきたかのような、完璧な存在だった。
最初は、ただ遠くから見つめるだけで満足だった。身の程は弁えているつもりだった。だが、彼女の持つ「理性的な美しさ」の裏側に、どこか冷え切った、檻の中に閉じ込められたような寂しさを見つけてしまった時から、俺の胸のうちは狂い始めたのだ。
一条家という巨大な権力と、愛のない冷酷な婚姻の約束。それに縛られ、本当の自分を押し殺して微笑む綾子様を、どうしても救い出したいと思ってしまった。
「……ま、結局俺は、その架け橋の『書生』止まりなんだけどな」
出がらしの苦い茶を喉に流し込み、俺は自嘲気味に呟いた。
綾子様がその心を、命を懸けて捧げた相手は、俺ではなかった。今、舞台の上で何千人もの観客を魅了し、万雷の拍手を浴びている、あの中村雪之丞だ。
悔しくないと言えば嘘になる。けれど、あの時、自分のすべてを賭けて雪之丞を想っていると涙ながらに告白してくれた綾子様の顔を見た時、俺の恋は、彼女の恋を『命懸けで応援する』という歪で、けれど純粋な形に変貌したのだ。
(巧も、同じなんだろうな……)
ふと、同じ15歳の執事見習い、巧の顔が浮かぶ。彼もまた、一条家の次男である聡様に対して、主従を越えた不遜な想いを抱いている。だからこそ、俺の無謀な覚悟に共鳴し、手伝ってくれたのだ。
時計の針が、間もなく公演終了の時刻を指そうとしている。
「さて……お坊ちゃまの真似事はここまでだ」
俺は湯呑みを乱暴に置き、着物の合わせを正して立ち上がった。
ここからは、一条家の書生・山口としての仕事だ。劇場の裏口近く、あらかじめ手配しておいた楽屋口の鍵、そして騒ぎを起こすための古い知人の配置――すべては頭に入っている。
聡様が味方に付いたことで、この計画はただの駆け落ちの逢瀬から、一条家の権力を揺るがす特大の罠へと進化した。
誰もが舞台の上の雪之丞に目を奪われているこの一瞬の裏側で、俺たちの命懸けの芝居が、いよいよ本格的に動き出そうとしていた。
(綾子様、俺はすべてあなたの為に―――)
その瞬間、劇場の奥から、予定していた合図が聞こえた。
――来た。
俺は懐中時計を閉じる。
ここから先は、もう引き返せない。
一条家の未来も、綾子様の恋も、俺自身の命も。
すべてを賭けた芝居の幕が、今、上がる。
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