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第23話 僕の護るべき星12

「こんな所で何をやっている、綾子!それと、お前だ雪之丞!何故歌舞伎役者のお前が綾子と一緒に居るのだ!」 「ひえっ……!」  廊下の曲がり角から顔を出した山口さんが、恐怖に顔を強張らせて息を呑んだ。  現れたのは、数人の私兵を従え、勝ち誇ったような醜悪な笑みを浮かべた政公、叔父だった。  そのぎらついた目は、仕留めた獲物を前にした獣そのものだ。 「やはり私の睨んだ通りだ!広樹の見合いの失態を挽回しようと調べてみれば……一条家の次女が、あろうことかこのような薄汚い楽屋裏で、大衆の役者風情と泥沼の密通とはな!」  政公叔父上の怒声が、薄暗い廊下に容赦なく響き渡る。  衣裳部屋の扉が激しく開き、雪之丞に庇われるようにして立つ綾子様の顔から、完全に血の気が引いていた。あまりの恐怖に、姉様の身体が小さく震える。 「叔父上、これは……!」 「黙れ、綾子!言い訳など聞く耳持たん!お前がこの男と不貞を働いていた証拠は、今、この私が確かに押さえた!兄上(旦那様)にこの事実を突きつけ、お前たち全員を、一条家の名に泥を塗った大罪人として極刑に処してやるわ!」  政公、叔父は狂ったように笑い、背後の私兵たちに「その男と女を捕らえろ!」と顎で指図した。  山口さんが一歩前に出ようとし、雪之丞が綾子様をさらに強く背中に隠す。緊迫した空気が一触即発の限界を迎えた、その瞬間だった。 「――そこまでにしてください、叔父様」  廊下の向こうから、凛とした、けれど酷く冷徹な声が響いた。  人混みを割り、ゆっくりと歩み出てきたのは、聡様だった。その背後には、いつの間にか、観劇の客たちや劇場の関係者、さらには周辺の芝居茶屋の主人たちまでもが、何事かと大勢集まってきている。 「な、何だ、聡……!お前も姉の不始末を知っていて隠蔽しようとしていたのか!?」  色めき立つ政公を、聡様は憐れむような、冷ややかな瞳で見つめ返した。 「何を仰っているのですか、叔父様。先日のお見合いで広樹兄様の縁談をぶち壊しにしかけただけでは飽き足らず、今度は大衆の面前で、我が一条家の次女に向かって『密通』などという事実無根の妄言を吐き散らすとは……。一条家の品格をそこまで貶めたいのですか?」 「妄言だと!?現に、綾子はこの男と部屋に二人きりで――」 「姉様は、本日体調を崩されたのです。それを、楽屋の場所をお借りして休ませてくださっていたのが、この中村雪之丞様ですよ」  聡様は一歩前に出ると、周囲に集まった野次馬たちにも聞こえるよう、堂々とした声で宣言した。 「雪之丞様は、我が一条家がご贔屓にしている立派な役者。体調を崩された姉様を、ご自身の衣裳部屋を提供しで親身に介抱してくださっていたのです。  それを、事もあろうに実の叔父である貴方が、一条家の名誉を傷つけるような卑劣な狂言を大声で言い触らすなど……。  これはもはや、我が家に対する明白な反逆行為、あるいは、正気を失ったお方の妄想としか思えません」 「な……、何をふざけたことを――!」  政公の顔が、怒りと焦りでみるみる般若のように真っ赤に変色していく。しかし、聡様が事前に仕組んでいた通り、周囲の劇場の人間や観客たちは「あの中村雪之丞がそんな不貞を働くはずがない」「一条家の叔父が騒ぎを起こした」と、一斉に政公を白い目で見つめ、ひそひそと囁き合い始めた。  形勢は一瞬にして逆転した。  聡様は、怒りに震える政公を冷たく見下ろしながら、僕の隣へと歩み寄り、その指先でそっと、僕の手の甲に触れた。衣服の影で隠されたその触れ合いは、熱く、そして「完璧だ」と告げる確信に満ちていた。 「帰る、帰るぞ――!!」  政公は集めた私兵たちにそう言うと、この場にいたたまれなくなったのか、足早に衣裳部屋を去っていく。 「……お待ちください、叔父様。お父様には、僕の口から今日の出来事を『正確に』報告しておきますから」  聡様が去りゆく背中へ向かって、追い打ちをかけるように冷ややかな声を掛けた。政公は肩をびくりと震わせ、振り返ることもせず、逃げるように劇場の闇へと消えていった。引き連れていた私兵たちも、気まずそうにその後を追っていく。  叔父の姿が完全に見えなくなると、周囲に集まっていた野次馬たちからも、ほっとしたような、あるいは興奮の余韻を含んだため息が漏れた。 「皆さま、お騒がせいたしました。我が家の恥を晒してしまい、申し訳ありません。どうぞ、お気になさらず」  聡様が芝居茶屋の主人や劇場の関係者に向かって、実に見事な、それでいてどこか哀れさを誘う完璧な一礼をしてみせる。周囲の者たちは「いえ、一条家様も大変ですな……」「聡様、お見事なご差配で」と口々に囁きながら、散り散りになっていった。  廊下に静けさが戻ると、衣裳部屋の奥から、ずっと息を潜めていた綾子様が崩れるように畳へ膝をついた。 「聡……、巧……。私、本当に、どうなることかと……」 「もう大丈夫ですよ、姉様。高瀬さんも、僕が流した偽の伝言で本邸に戻っているはずです。叔父様がお父様に告げ口する前に、僕が先手を打って『叔父様がまた妄想で大騒ぎを起こし、一条家と中村雪之丞様の顔に泥を塗ろうとした』と報告します。  これで、あの叔父が本邸の敷地をまたぐことは二度とありません」  聡様は姉様に駆け寄り、その肩を優しく抱きしめた。その顔は、先ほどまで大衆を味方につけて叔父を論破していた冷徹な軍師のものではなく、姉を気遣う健気な弟のそれに戻っている。 「雪之丞様。姉様を介抱してくださり、本当にありがとうございました」  聡様が舞台の上の役者へ向かって、今度は心のこもった一礼をした。雪之丞は白塗りを落とした美しい顔に、ほっとしたような、しかし切ない苦笑を浮かべて、綾子様を見つめた。 「いや……僕の方こそ、綾子を危険な目に遭わせてしまった。聡様、そして、山口に巧君。皆さんの機転がなければ、今頃どうなっていたか……。本当に感謝します」 「雪之丞様……」  綾子様が名残惜しそうに雪之丞の手を握る。しかし、ここが限界だった。山口さんが廊下の角で見張りを続けながら、「巧、そろそろ高瀬さんが戻ってくるか、女中たちが怪しみ出す時間だ」と小声で合図を送ってくる。 「姉様。お別れの時間です。さあ、僕と一緒に客席へ戻りましょう。『体調が少し良くなったから、車を呼んで帰る』と言えば、誰も疑いません」 「ええ……。ええ、わかったわ」  綾子様は涙を拭い、雪之丞の手をそっと離した。二人の視線が、言葉以上に深い情愛を交わし合う。短い逢瀬ではあったけれど、この危機を乗り越えたことで、二人の絆はより一層強固なものになったに違いない。  僕は綾子様の手を取り、衣服の乱れを整える手伝いをした。その間、聡様は僕のすぐ後ろに立ち、じっとその様子を見つめていた。 「巧、よくやってくれたね」  廊下へ出る一瞬の隙、聡様が僕の耳元で、吐息のような小さな声で囁いた。  その声に含まれた熱に、僕の背中がぞくりとあわ立つ。 「すべては、聡様のご指示通りにございます。僕はそれに倣っただけです」 「うん。僕の完璧な、僕だけの執事。……さあ、お屋敷へ帰ろう。お父様に、最高の報告してあげなくちゃいけないからね」  聡様は妖艶に微笑むと、今度こそ完全に「一条家の気品ある次男」の顔になり、姉様を支えて歩き出した。僕はその斜め後ろに付き、山口さんと視線を交わして深く頷き合う。  命懸けの裏の芝居は、僕たちの完全な勝利で幕を閉じた。けれど、この後に待つお屋敷での本当の戦いと、聡様と僕の底なしの平穏は、ここからさらに深く、濃くなっていくのだ。

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