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第29話 僕の護るべき星18
土曜の午後だった。
「広樹様がご帰宅されたぞー!」
書生の山口さんの高らかな声が、屋敷中に響き渡る。今日は当主である旦那様も公親様も半休で在宅されている。……となれば、今日まさに広樹様へ瑠璃子様とのご婚約が告げられる可能性が高かった。
そうなれば、聡様は僕が見繕った万年筆を、今夜にもそっと広樹様に渡されるはずだ。
華族のしきたりでは、まだ独立していない家族が個人の名義でお祝いを贈ることはマナー違反とされる。だからこそ、聡様のお小遣いで購入できる範囲でありながら、決して安っぽくも高級すぎもしなおい、絶妙な塩梅の万年筆を選んだのだ。
聡様と広樹様の部屋は隣り合っており、バルコニーを共有している。夜、人目を忍んで渡すには絶好の作りだ。弟からの心のこもった贈り物なら、優しい広樹様ならきっとお喜びになるだろう。
「広樹様。お疲れのところ誠に恐縮ですが、旦那様が客間でお待ちかねでございます」
女中頭の高須さんが、ご帰宅されたばかりの広樹様に恭しく頭を下げた。
「高須、ありがとう。父上のところだね、分かった」
広樹様はそう優しく頷くと、手にしていた大きな鞄を書生に預け、学習院の正服のまま背筋を伸ばして客間へと急ぎ足で向かわれた。
「……いよいよですわね」
「ええ、きっとあのお話しよ」
広樹様の背中を見送りながら、女中たちが声をひそめて口々に囁き合っている。僕はそれを遠くで見ながら、聡様の部屋へ向かった。
聡様の部屋の前に立つと、扉の向こうからかすかに足音が聞こえていた。落ち着かないご様子で部屋の中を行ったり来たりされているのだろう。
「聡様、巧でございます」
声をかけると、すぐに扉が開いた。まだ制服姿の聡様が、待ちきれないといった表情で僕を見つめる。
「巧!兄様、戻られたんだろう?客間に向かう足音が聞こえたよ」
「ええ。高須さんにお申し付けになられ、旦那様のもとへ向かわれました。……おそらく、例のお話でしょう」
僕が静かに頷くと、聡様は「ついに、か……」と小さく息を吐き、机の上に置かれた文庫箱へ視線を落とした。そこには、先日二人で相談して買い求めた万年筆が収められているはずだ。
「兄様……驚くだろうな。でも、父様からお話を聞いたあと、どんな顔で部屋に戻ってくるんだろう。喜んでいるのかな、それとも……」
聡様は言葉を濁し、バルコニーへ続くガラス窓の方へと歩み寄った。夕折からの光が差し込み、聡様の立ち姿を淡く照らしている。
「大丈夫でございますよ。広樹様も、瑠璃子様の明るさにきっと救われるはずです」
「そうだよね。……ねぇ、巧。暗くなったら、僕、バルコニーから兄様の部屋に行ってみるよ。この万年筆を持って」
聡様は振り返ると、どこか照れくさそうに、けれど意を決したような目で僕を見た。
「独立していない僕から贈るのは、家の決まりとしてはよくないのかもしれない。でも、兄弟として『おめでとう』って直接伝えたいんだ。これなら……怒られないよね?」
「はい。お二人だけの秘密としてお渡しになれば、旦那様もお咎めにはなりません。広樹様も、聡様のお気持ちを何より喜ばれるはずです」
僕が胸を張って答えると、聡様は胸をなでおろしたように微笑んだ。
「ありがとう、巧。じゃあ……夜になるのを待とう。兄様が客間から戻られたら、すぐに渡せるようにね」
屋敷の奥からは、まだ何も聞こえてこない。しかし、客間の扉の向こうで今まさに一条家の未来が動き出しているのだと思うと、廊下に漂う静寂がいつも以上に重く感じられた。
*****
夕闇がゆっくりと屋敷を包み込み、廊下のフットライトが淡く灯る頃、客間の方角で重々しい扉の開く音が響いた。
静けさを破る足音。それはいつもの軽やかさを失い、どこか慎重で、迷いを孕んでいるかのようにゆっくりと階段を上ってくる。
「……広樹様だ」
僕たちは小さく息をのんだ。バルコニーに差し込む光はすっかり消え、ガラス窓にはランタンを手に佇む僕たちの姿が映り込んでいる。
カツン、カツンと足音が廊下を進み、隣の部屋のドアが開いて閉まる音が聞こえた。兄様が部屋へ戻られたのだ。しかし、歓喜の声や従者を呼ぶ合図はなく、静寂が再び戻ってくる。
僕は手に握りしめた小さな箱を一度強く抱きしめると、静かにバルコニーのガラス戸に手をかけた。
「巧、ここで待っていて。僕、行ってくるよ」
「お気をつけて、聡様。足元にお気をつけください」
冷ややかな夜風が部屋の中に吹き込み、僕の髪を揺らす。僕は慎重にバルコニーの柵沿いを歩き、隣の部屋へと続くガラス戸の前に立った。トントン、と遠慮がちに叩かれたノックの音。
少しの間のあと、内側からカーテンが引かれ、鍵の外れる音が響いた。
「聡……?こんな時間に、バルコニーからどうしたんだ」
開いた扉の隙間から見えた兄様の顔は、驚きとともに、どこか疲弊した色を帯びていた。父様との話し合いがどれほど重大なものであったかを物語っている。
僕は少し緊張した面持ちで背筋を伸ばし、大切に抱えていた箱を両手で兄様へと差し出した。
「兄様……おめでとうございます。父様からお話を聞かれたのですね」
「……あぁ。話は、聞いた」
「独立前の僕がこんな贈り物を差し上げるのは、一条家の掟には反するかもしれません。でも、兄弟として……瑠璃子様とのご縁談をお祝いしたかったんです。これ、使ってください」
差し出された箱を受け取り、兄様はそっと蓋を開けた。そこにあったのは、深みのある漆黒の軸に、繊細な金の彫刻が施された万年筆だった。
兄様はその万年筆をじっと見つめ、ゆっくりと指先で撫でた。そして、フッと長く重い息を吐き出すと、僕の頭にぽんと手を置いた。
「ありがとう、聡。お前の気持ちが……本当に嬉しいよ」
その声は穏やかだったが、どこか切なさが混じっていた。兄様は万年筆を胸のポケットに大切に収めると、遠く夜の庭園を見つめた。
「瑠璃子様は素晴らしい方だ。だが……一条家の未来を背負うということは、僕が思っていた以上に重いらしい」
「兄様……」
「いや、弱音を吐いてすまない。お前のこの心遣いに免じて、僕は背を向けないと誓うよ」
兄様はいつもの頼もしい笑みを浮かべ、僕の肩を優しく叩いた。
「ほら、風が冷たくなってきた。巧に叱られる前に、自分の部屋へ戻りなさい」
「はい!おやすみなさい、兄様」
僕は弾むような足取りでバルコニーを戻り、部屋へと滑り込んだ。ガラス戸を閉め、鍵をかけた。
「巧、受け取ってくれたよ! ポケットにさしてくれたんだ」
「左様でございますか。本当に良かったですね、聡様」
安堵した僕の笑顔を見つめながら、巧は小さく胸を撫でおろしたようだった。しかし、兄様が最後に魅せたあの陰のある表情が、僕の脳裏から離れなかった。
一条家の未来を揺るがす波乱は、きっとこの祝宴の裏側で、すでに静かに始まっているのだ。
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