30 / 33

第30話 僕の護るべき星19

 翌朝、館を包む静寂は、昨夜よりもどこか冷ややかに思えた。  広樹様は早朝から旦那様に呼ばれ、再び重々しい書斎へと入っていかれた。聡様は「兄様、忙しそうだな」と少し淋しげに呟きながらも、家庭教師との授業に向かわれている。  僕は、広樹様の部屋の掃除と衣装の手入れを言いつけられ、一人で隣室に入った。  整然と片付けられた執務机の上。その中央に、昨夜聡様が贈られた万年筆が、まるで守り神のように大切に置かれている。それを見て胸を撫で下ろしたのも束の間、僕は机の端に置かれた一枚の便箋に目を奪われた。  封は切られ、中身が覗いている。差出人の名を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。  一条家の分家筆頭——旦那様の腹違いの弟であり、凄腕の野心家として知られる「総一郎様」からの書状だった。 『広樹殿。瑠璃子姫とのご縁談、重慶に耐えうるか。一条の血を真に継ぐ者は誰か、一族の長老たちも注視しておる。若き後継者が道を踏み外さぬよう、近々に良き相談相手を遣わす所存——』  うわべは祝辞を装っているが、内容はあからさまな脅迫だった。 「……巧。人の書状を盗み見るのは、執事の教育としては落第だな」  背後から低く抑えられた声が聞こえ、僕は飛び上がるように振り返った。いつの間にか書斎から戻られていた広樹様が、ドアの枠に寄りかかって僕を見つめていた。 「も、申し訳ございません!広樹様、滅相もございません、僕はただ……」 「いいんだ。どうせ遅かれ早早かれ、知ることになる」  広樹様は静かに歩み寄ると、その書状を手に取り、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。その表情は、昨夜見せたような年相応の青年のものではなく、冷徹な一族の当主候補としての仮面を被っていた。 「父様は……僕を正式な後継者として、瑠璃子様との婚約を公表するつもりだ。だが、それを面白く思わない者たちがいる。総一郎叔父上を筆頭とする分家勢力だ」 「分家の皆様が……?」 「彼らは、僕ではなく……聡を担ぎ上げようとしている」  広樹様の言葉に、息が止まりそうになった。 「聡は……母様が平民の出だったこともあり、血筋を重んじる一条の長老たちには疎まれてきた。だが、分家にとってあれほど扱いやすい存在もない。幼く、純粋で、権力に無頓着……。僕を排除し、聡を飾りの当主に据えれば、奴らは意のままに一条家を操れる」  広樹様は力なく笑うと、机の上の万年筆にそっと触れた。 「聡は、僕を祝ってくれた。あの真っ直ぐな目で『おめでとう』と言ってくれた。……だが大人たちは、あの子の純粋さすらも刃に変えて、僕の背中に突き立てようとしているんだ。瑠璃子様との縁談は、僕が一条家を守るための盾であり、聡を守るための鎧なんだよ」 「広樹様……。聡様は、何もご存じないのですか?」 「知らせるわけにはいかない。あの子には、あの綺麗な心のままでいてほしい。……巧、お前に頼みがある」  広樹様は真っ直ぐに僕の目を見つめた。その瞳には、強い覚悟と、深い絶望が同居していた。 「これから屋敷は荒れる。分家の手先が、聡に近づき、言葉巧みに僕への不信感を植え付けようとするはずだ。……聡を、頼む。何があってもあの子の味方でいてやってくれ。たとえ僕が……分家との泥沼の争いで、聡から悪者に見えるような決断をしたとしても」 「……広樹様」  屋敷の廊下から、元気な足音が近づいてくるのが聞こえた。授業を終えた聡様が、兄に会いにやってくる音だ。  広樹様は一瞬で表情を崩し、いつもの優しく頼もしい兄の顔に戻った。 「兄様!あ、巧もいたんだ」  ドアを開けて駆け込んできた聡様の無邪気な笑顔を見つめながら、僕の手は小さく震えていた。  一条家の家督を巡る醜い暗闘。その渦中に、あの万年筆のように純粋な聡様が巻き込まれようとしている。そして僕は、二人の兄弟の絆を引き裂こうとする巨大な陰謀の中で、僕は聡様を護りぬけるのか、それだけが不安だった。  聡様は勘が良くて頭も切れる。広樹様はかなり心配しているようだが、聡様は純粋無垢な少年だけではない。  広樹様は聡様の怖さを知らないのだ。聡様の案で血の繋がりのある叔父の政公様を綾子様の危険な恋を助けながらも、この家から追放したこと。  僕は広樹様には悪いが、聡様に告げた方がいいと思い、広樹様の部屋であったことを聡様に告げようと決めた。 「巧、どうかしたの?なんだか顔色が悪いよ」  僕の背中の震えを敏敏に察したのか、聡様は首を傾げ、覗き込むように僕の顔を見つめた。広樹様はいつもの温かな笑みを浮かべたまま、「巧は少し体調を崩しているのかもしれないな」と優しくフォローを入れたが、その瞳の奥には隠しきれない緊張が宿っていた。 「兄様、万年筆、気に入ってくれた?」 「あぁ、もちろんさ。宝物にするよ」  胸ポケットに挿された万年筆を指で触れながら応じる広樹様の姿に、聡様は満足そうに目を細めた。しかし、その短いやり取りの裏で流れる不穏な空気を、聡様が感じ取っていないはずがなかった。  ——広樹様は、聡様の本当の「力」を知らない。  政公叔父様の件。表面上は綾子様の危険な恋をみつけたと妄言を吐き、旦那様の不興を買い、敷を去ったことになっているが、裏で巧妙に糸を引いていたのは、他ならぬ聡様だった。綾子様の情熱的な恋を成就させる手助けをしつつ、一条家の害毒であった政公叔父様の弱みを握り、自滅へと追い込んだ鮮やかな手腕。聡様はただ守られるだけの純粋無垢な存在などではないのだ。  その夜。広樹様が旦那様との夜会に出かけられた後、僕は聡様の部屋を訪れた。 「巧、わざわざ部屋に来るなんて珍しいね。……兄様の部屋で、何かあったんでしょう?」  一人、机で本を読んでいた聡様は、僕がドアを閉めるなり静かな声で切り出した。その瞳には、昼間の無邪気な弟の面影はなく、冴え冴えとした知性が宿っていた。 「……申し訳ございません、聡様。広樹様からは口止めをされております。ですが、僕は聡様にお伝えすべきだと判断いたしました」  僕は深々と頭を下げ、昼間に広樹様の執務机で見つけた総一郎様からの書状のこと、そして広樹様が語った「分家が聡様を飾りの当主に据えて実権を握ろうとしている陰謀」のすべてを打ち明けた。  広樹様がご自分を犠牲にしてまで聡様を守ろうとしていること。そして、分家との争いの中で、あえて聡様から嫌われるような悪役を演じる覚悟まで決めていることも。  僕の話を静かに聞いていた聡様は、取り乱すこともなく、ただゆっくりと手元にあったページをめくった。 「……そう。兄様は、僕をそんな風に守ろうとしてくれていたんだね」  その声は驚くほど穏やかで、けれど底知れない冷たさを秘めていた。 「兄様は優しいから。僕の母様の血筋のことも、分家の身勝手な思惑も、全部ご自分の肩に背負い込もうとする。……でもね、巧。僕を『ただの扱いやすい飾り』だと思っている大人たちも、僕を守るために泥をかぶろうとする兄様も、少し見くびりすぎだよ」  聡様は本を閉じると、ふっと妖しい笑みを浮かべて立ち上がった。窓辺に寄り、夜の庭園を見下ろすその立ち姿は、昼間の可憐な少年とは思えぬほどの威厳をまとっていた。 「総一郎叔父様……政公叔父様のときと同じように、静かに退場していただくしかないね。一条家の未来を脅かす芽は、小さいうちに摘んでおかないと」 「聡様……」 「巧、教えてくれてありがとう。兄様の背中に刃を向けようとする奴らが誰なのか、ハッキリしたよ。兄様には内緒にしておいてね。兄様は僕にとって、ずっと綺麗で優しい『自慢の兄様』でいてくれなきゃ困るから」  振り返った聡様の瞳には、冷徹な暗躍者の光と、兄を心の底から愛おしむ狂気が同居していた。  広樹様が影で弟を守ろうとするならば、聡様は闇から兄を脅かす全てを排除しようとしている。  二人の兄弟がお互いを想い合うが故に踏み出す、狂気とも言える暗闘。僕はその狭間で、聡様の「影」として手を染める覚悟を決め、静かに膝をついた。 「聡様。この身はどこまでもあなたの影——ご命じのままに」  聡様は僕の手を取る。 「ありがとう、巧。巧が居てくれるのなら、僕は悪魔にだってなれるよ」 「僕は聡様に地獄の底までついていきます」  僕らはお互いの手のぬくもりを確かめながら、そう言いあうと、お互いの顔を見て笑った。

ともだちにシェアしよう!