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第31話 僕の護るべき星20
数日後、一条家の広大な敷地には、いつもと変わらぬ穏やかな日常が流れているように見えた。
広樹様は表向き、分家との摩擦を避けつつ婚約の準備を進めるため、連日のように旦那様とともに本家の執務室に籠もられている。聡様の前では決して重苦しい顔を見せず、「聡、万年筆は大切に使っているよ」と、どこまでも優しく頼もしい兄として振る舞い続けていた。
しかし、その穏やかな水面下では、激しい毒が確実に芽を吹き出していた。
「巧、これを見て」
聡様の部屋の扉を閉めた瞬間、それまでの「無邪気な弟」の表情は消え去り、聡様は小さな羊皮紙のメモを僕に差し出した。
「総一郎叔父様の側近が、明後日の夜、屋敷の西蔵で分家の者たちと密会するらしい。どうやら、兄様の婚約の席で使う祝杯の酒に、心臓を弱らせる薬を混ぜる計画を立てているみたいだね」
「……祝宴で、広樹様を」
「そう。病死に見せかけて兄様を排除し、僕を繰り上げ当主に据えるつもりさ。あの人たちのやることは、相変わらず浅はかで反吐が出るよ」
聡様は冷ややかに微笑むと、僕の手から羊皮紙を取り上げ、キャンドルの炎で静かに燃やした。灰が灰皿へと落ちていくのを、その深い瞳で見つめながら呟く。
「ねぇ、巧。叔父様たちは『僕が毒を盛った』ことにしたいみたいだけれど……逆にその計画、そのまま利用させてもらおうか」
「……と、仰いますと?」
「叔父様たちが用意したその毒薬、そっくりそのまま、総一郎叔父様の晩酌の酒にすり替えて差し上げるんだ。……あぁ、もちろん一息に死なせるような雑な真似はしないよ。『長年蓄積した持病の悪化』として、じわじわと身体を蝕み、二度と表舞台に出てこられないようにしてあげる」
聡様は僕に歩み寄ると、そっと僕の肩に手を置いた。その手は小さく、華奢で、けれど恐ろしいほどの確信に満ちていた。
「毒の入手経路も、分家の部屋へ繋がる証拠も、全部叔父様ご自身が残した形にしておいてね。……兄様には、最後まで何も知らせちゃダメだよ?兄様は『分家が勝手に自爆して失脚した』とだけ思っていればいいんだから」
「かしこまりました。西蔵の密会への潜入、並びに毒のすり替え……すべて、この巧がお引き受けいたします」
僕が静かに頭を下げると、聡様は満足そうに僕の頬を撫で、柔らかく目を細めた。
「頼んだよ、巧。僕たちの大切な兄様と、この一条家を……闇の中から守り抜くためにね」
表では兄が弟を守るために泥をかぶる覚悟を固め、裏では弟が兄を守るために冷徹な毒を盛る。
互いを想うあまりに歪んでいく兄弟愛の狭間で、僕は自らの手を黒く染めるべく、夜の静寂へと足を踏み出していった。
明くる日の夜半、屋敷の西側に位置する古い蔵は、虫の音だけが響く静寂に包まれていた。
僕は従者としての夜間の巡回を装い、ランタンを手に西蔵の陰へと身を潜めた。15歳という僕の年齢と小柄な身体は、夜陰に紛れるには好都合だった。二階の隙間から息を潜めて覗き込むと、蔵の中には二つの影があった。
「これだな……?広樹を始末する毒は」
「はい。酒に混ぜれば分からぬ代物です。心臓を急激に弱らせます。……ですが、本当によろしいので?万一、聡様に疑いが向かなければ……」
「心配いらん。あのバカな小僧はただの飾りだ。広樹さえ消えれば、分家の息がかかった長老どもを使って押し切る。罪はすべて、聡とその従者になすりつければいい」
総一郎叔父様の側近の男と、怪しげな薬種の売人。低い囁き声を聞きながら、僕は冷や汗を握りしめた。聡様のおっしゃった通り、浅はかで、そして恐ろしい企みだ。
売人が木箱から小さな硝子瓶を取り出し、側近に手渡す。男がそれを懐に収め、二人が蔵を立ち去るのを見届けると、僕は静かにその場を離れた。大人の刺客のように屋敷へ忍び込むなんて、15歳の僕には不可能だ。だからこそ——「屋敷の日常」を利用する。
翌日の夕刻。
総一郎叔父様は本家の離れにおられ、毎夜決まった時間に、屋敷の下男に晩酌の酒を運ばせていた。
僕は厨房の勝手口の陰で、酒の配膳準備が整うのを待った。運ぶのは、僕と同年代の幼い下男だ。
「あ、巧さん」
「お疲れ様。総一郎様へのお酒かい? ……あ、そうだ。先ほど旦那様が『離れの廊下の電灯が切れそうだから、配膳のついでに予備の電球を持っていくように』とおっしゃっていたよ」
「えっ、本当ですか?急いで納戸から取ってきます!」
素直な下男は、酒の載った盆を調理台に置いたまま、急いで奥の納戸へと走っていった。
誰もいなくなった勝手口。
僕はポケットから、昨夜聡様から手渡された「別の硝子瓶」を取り出した。聡様が、学習院のつてを頼りに闇のルートから手に入れ、大切に保管していた劇薬だ。
一息に命を奪うものではなく、数ヶ月かけてじわじわと身体を蝕み、持病の悪化に見せかける毒だ。
震える指で栓を抜き、叔父様の酒瓶へ数滴垂らす。そして、あらかじめ用意しておいた「叔父様の側近が密かに持ち込んだ毒の瓶」を、下男の運ぶ配膳盆の隅、ナプキンの下の隙間にそっと滑り込ませた。
下男が戻ってくる足音が聞こえ、僕は素早く何事もなかったかのようにその場を離れた。
15歳の少年にできるのは、錠前を破ることでも大人を力で伏せることでもない。屋敷の人間関係と配置を熟知し、ほんの数秒の「隙」を作ることだけだ。
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