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居酒屋「とら」にて…(※友人視点)
世間の盆休みも終盤の8月15日。東 親信(あずま ちかのぶ)、チカは大学時代の友人との飲み会に参加していた。メンバーは飲み会の発起人の茶界 惇嗣、彼と同じ高校出身の加田 喜勇、今瀬 澄(いませ とおる)、それから大学で知り合った仲光 峰岳(なかみつ みねたけ)だ。
飲み会の会場は、澄の両親が経営している居酒屋「とら」。今年は夏休みを利用したバイトがいないために、澄は盆休みが取れないと予定調整のグループトークでお盆休みがないと泣きついてきた。そこで「とら」で飲めばいいんじゃないかと提案したのがチカだった。
「とら」はカウンター席が5つ、4人掛けのテーブル席が2つ、小上がりの座敷が2卓あるだけの小さな店だ。駅からさほど離れていないが客層は地元住民ばかり。チカが店に入った時には、澄の父親の知り合いらしい年配男性が2人、カウンターで飲んでいるだけだった。
「惇嗣何飲む」
「あー……レモンサワー。喜勇は」
「とりまビール」
「チカと峰岳は?」
座敷の座卓を挟んだ目の前に、大学時代の友人が2人座っている。茶界 惇嗣と、加田 喜勇だ。惇嗣の持ったメニュー表を、喜勇が横から覗き込んでいた。その距離が、妙に近い。
それを眺めながら、問いかけられた言葉にはビールでいいと返事をした。峰岳はウーロン茶だ。彼は酒が飲めない。
「ん」
「うん、……何食うかなぁ」
短い一言で惇嗣がメニュー表を喜勇に渡し、配られたおしぼりで手だけではなく顔も拭きだした。喜勇は喜勇で、渡されたメニュー表を惇嗣にも見える角度で開いて見ている。
自分の隣に座る峰岳は気づいていないのか、気にしていないだけなのか2人の距離感について何も言わない。
皆で食事に行くと、大抵の場合背の高い喜勇と、体格のいい峰岳は正面に座る。2人が隣同士で座ると狭くなるからだ。そうなると、平均的な体格をしている残りの3人がばらけることになる。この席順はいつもと何ら変わりない。妥当な席順のはずだ。
「澄ー!ビール2つとレモンサワーとウーロン茶!」
「ちょ、お通し持ってくから待っててよぉ!」
「俺が持ってく。お前は飲み物作ってくれ」
惇嗣が大きな声で言うと、店の名前が入ったTシャツとエプロンを身に着けた澄がカウンター側で盆の上に小鉢を並べながらこっちに言う。勝手知ったる、とばかりに峰岳がその盆を取りに行き、こちらへ戻ってきた。
卯の花が盛り付けられた小鉢と割り箸は、各自が手を伸ばして盆から取っていく。メニューを見るのに必死な喜勇の分は、惇嗣が取ってやっていた。そしてその流れで、2人はまた一緒にメニュー表を覗き込む。
「俺ホッケの開き」
「いいな。俺ポテトフライとうめおにぎり。あと唐揚げ」
「おにぎりは早いって」
やいのやいの言っている惇嗣と喜勇を、チカはじぃっと見つめた。やはり近い。肩を寄せ合って、というレベルではない。喜勇はほぼ半身を、惇嗣の背中にべったりくっつけている。おそらく惇嗣の尻の側に手をついているような体勢だ。
「惇嗣、喜勇。お前らなんか近くね?」
そう指摘すると、2人は顔を見合わせる。そして同時に口を開いた。
「そうか?」
「別に普通だろ」
その返答に、違和感は強くなる。そうやって答えるくせに、2人が同時に身を離したからだ。喜勇はまたメニューに視線を落とし、惇嗣はカウンター上にあるテレビの方へ視線をやった。まるで、わざとそうしているようだった。
「峰岳、今って減量中?」
「いや、今日は大丈夫だ」
「お、じゃあ何食う?」
喜勇から差し出されたメニューを、峰岳が受け取る。
ジムトレーナーを職業としている峰岳は、度々体を絞っている。筋肉増強のための食事制限を行うため、その期間は決められたメニューしか食べられないらしい。
「……、うん。俺はからあげとポテトフライ。あとおにぎりも食いたい」
「お前、それさっき俺が言ったろ」
「だからおにぎりははえーって」
峰岳のボケに惇嗣がツッコんで、喜勇が混ぜ返す。その様子はいつもと何も変わらないはずなのに、やはりどこか違和感がある。具体的には、2人の親密さが増している気がした。
そもそも惇嗣と喜勇は高校時代からの友人で、付き合いは長い。惇嗣と澄は高校1年生から同じクラスだったらしいが、喜勇も2年生の時には同じクラスだったと聞いている。
家も近いから今日も一緒に店まで来ていたし、最近も2人で金沢旅行へ行っていたらしい。チカも澄も峰岳も土産をもらったから覚えている。
だが今、チカが感じる親密さはそういうものではない。違和感に気づいたのは肩が触れ合っているというところだったが、恐らく物理的な話ではない。
「俺は梅水晶と南蛮漬けがいい」
「チカもなんか頼むか?」
聞いてくる惇嗣をじっと見つめるが、ん?と不思議そうな顔をしている彼からは何も読み取れそうにない。仕方なく、峰岳の差し出したメニュー表に視線を落とした。
「辛子蓮根とチーズフライ」
「あーい、お待ちどうさま」
ジョッキを両手に持ってやってきた澄が、ビールをチカと喜勇の前に、レモンチューハイを惇嗣に、ウーロン茶を峰岳の前に置く。最後に残ったのは自分のビールらしく、座敷に膝だけ乗り上げた。
「じゃあまあ」
「とりあえず」
「かんぱーい」
ガチン、とジョッキのぶつかる音をさせて、皆がそれぞれ口をつける。一気に半分ほど飲み干すのは自分と惇嗣で、喜勇と峰岳はまるでお愛想のように一口飲んでジョッキを置いた。そして、未だ仕事中であり乾杯しても飲んではいけないはずの澄は、自分や惇嗣と同様グイグイとジョッキを傾けている。
「っかー!美味い美味い!で、注文は?」
「からあげぽてとふらいうめずいしょうなんばんづけからしれんこんちーずふらい」
「何て?呪文?」
「注文」
「もっかい!チーズフライしか分からんかった」
ゲラゲラ笑っている惇嗣の隣で、喜勇がすました顔でもう一度呪文を詠唱する。やっぱり聞き取れなかった澄は適当に持ってくるから!と座敷から降りて行った。
「なあ、お前らさ」
そう口を開いた瞬間だった。ガシャン!と大きな音を立てて何かが割れる音がした。驚いて音のした方を振り返って見ると、澄が何か落として割っていた。何やってんのアンタはもー、とか言われている澄を冷やかしていたら、その先は何となく聞けなくなってしまった。
酒が入って飲み始めると、酔いのせいか違和感はしばらく感じなくなった。ある程度料理が出揃うと澄もエプロンを外して座敷に上がり込み、一緒に飲み始める。いつもの事だ。
入った時の客2人は帰り、今はテーブル席に3人家族が1組だけ。まだ早い時間だし、小さな女の子は特別に作られたお子様ランチもどきに大層喜んでいた。
「いやだから大学入って……あれ授業始まったばっかりだから4月だよな。あの、学食棟の前庭で峰岳が腕立てしててさ」
「そうそう、チカがその背中に乗ってスマホで電話してて」
「何アレ怖い!いじめ?!つって澄が俺たちに言いに来て」
飲み会で集まると2回に1回は出会いの話になる。つまりは年1回その話を繰り返していた。それほどに衝撃的だったんだろうと思うし、当事者の自分も何やってたんだろうと今でも思う。
「面白そうって昼飯買って見に行ったら、マジで背中にチカ乗っけて腕立てしてる峰岳がいて」
「惇嗣が思いっきりお茶噴き出してたもんな」
「あれはパフォーマンスを兼ねたトレーニングの一環だ。チカの体重がちょうどいい負荷だと思ったから」
「山岳部の?」
峰岳は登山家のサラブレッドだ。大学の登山部で出会った夫婦の間に生まれ、峰岳と名付けられた。結婚後も登山を趣味としていた夫婦は、峰岳が自分で歩けるようになったころから一緒に四季折々の山を登りまわっていたらしい。峰岳も峰岳で登山やそれに付随するトレーニング、キャンプが好きだったらしく、大学では活動が活発な山岳部のある大学を選んで入学し早々に入部していた。
そしてその部にいた先輩から言われて、4月の昼間、まだ入学したばかりで浮ついている新入生の多い学食前で山岳部のアピールをしにきたというのが事の発端だった。
「そう。山岳部に入ると心身が鍛えられるというアピールを、」
「いや、山岳部っていうか」
「入っただけじゃ無理だろ。つか峰岳は生まれた時から山岳部所属みたいなもんじゃん」
「朝のロードワーク家族全員でやってんだろ?親も今でもやってんの?」
「当たり前だ。母も父もまだ50になったばかりだからな」
以前会った峰岳の両親を思い出して、残りの4人で頷く。峰岳の両親は峰岳と同じく、決して派手ではないが誠実そうで信頼感のある見た目をしていた。2人とも一見して分かるほど鍛えているわけではないが、穏やかでどっしりとした安定感を感じさせる雰囲気があった。
「え、じゃあ結婚したらカナコちゃんもロードワーク参加すんの?」
辛さマシマシ豚キムチを頬張った澄が、2杯目のライムチューハイでそれを流し込んだ後、峰岳に問いかけた。
峰岳は来年春に結婚することが決まっている。高校時代から付き合っている人生初の彼女とだ。具体的な話が出たのは最近だが、峰岳の中では高校2年生の冬から決めていたらしい。子供の頃から、童貞を捧げた女と結婚すると決めていたという。それが今度結婚するカナコだった。ちょっと変わった性質の男である。そこがおもしろいとチカは思っていた。
「カナコは負荷を落としてやっている。ダイエットになると喜んでたな」
「でもカナコちゃんは登山しないんだろ?寂しくないの」
「いや?カナコはカナコでちゃんと生き甲斐がある。俺はそんなカナコが好きになったんだ」
こういう、山のように大らかでまっすぐな男が峰岳という男だった。特にカナコの話になると、最終的には惇嗣と澄がいつも羨ましそうな顔をしていた。2人ともそれぞれ大学時代に女の子に振り回された過去がある。特に惇嗣は峰岳と同じように高校時代から付き合った彼女と一悶着あったから、余計に思う所があるようだった。
「いやー相変わらずすごいねえ。もう何年?」
「8年だ」
「そっかぁ」
「いーよなあ」
峰岳は彼女にベタ惚れだ。以前に、登山とカナコどっちを取ると意地悪な質問をした時に、間髪容れずカナコと答えるような男前だった。
「澄だってまだハナ先輩と繋がってるんだろ、結婚しないのか」
「あ、ばか、峰岳それシーだって!」
「は!?お前まだ繋がってんの?」
「俺便所」
向かい合った親信と惇嗣の間、お誕生日席の澄に対して惇嗣がテーブルに肘をついて身を乗り出す。その隣で、喜勇が立ち上がった。惇嗣の肩を掴んで支えにして、だ。惇嗣は気にも留めてないのか、澄の話に食いついている。
「この間2人で歩いてる時に偶然会ったんだ」
「へええ、いつぶりよ、半年?」
「……4ヶ月ぶり。こないだ日本に帰ってきたからご飯行こうって」
ハナというのは澄が大学時代に振り回された相手だ。チカたちが入学当時に大学4年生だったハナは、黒髪ストレートの地味系女子に擬態した童貞ハンターの肉食系女子だった。所謂セフレの関係を1年間続け、ハナの卒業と同時に疎遠になったと聞いていた。付き合ってほしいと澄が何度懇願しても、絶対に頷かなかった女の子だ。
確か、チカたちが3年生になった頃に、海外へ移住したから全く会えなくなったと聞いていたはずだが。
「ハナちゃんめっちゃ綺麗になってた……」
「お前さぁ、もうさぁ、諦めろってぇ」
「だってさ、向こうでも彼氏できなかったって……言ってたしぃ」
飼い殺し状態にされていた澄は立派にこじらせて、ハナが海外へ行くと聞くまでは新しい彼女も作れなかった。その後も良い感じになった女の子はいたが、短い期間で別れている。
肩を落とす澄の肩に腕を回した惇嗣が、ぐっと顔を近づけてニヤニヤと囁いた。
「で、ヤッたの」
「……うん……」
「あーあ」
ずるずると中途半端な関係を続ける澄に、峰岳は呆れ顔をしていた。チカは澄が純情すぎるのではと思っている。惇嗣は奔放なハナと振り回される澄の話を面白がっているし、今はトイレに行っている喜勇はあまり興味なさそうだ。
「今何してんのあの人」
「海外でアンティークの家具の買い付け」
スッと惇嗣の視線がカウンターの方へ向いた。正確には、カウンターの側にあるトイレの出入り口から出てきた喜勇を見たようだった。途端、惇嗣は澄の肩から腕を離した。
「お前英語できる?」
「……授業で習ったぐらいなら」
「ダメじゃん、一緒に海外行けないじゃん」
「う゛ぅ゛……ハナちゃぁん……」
座敷に戻ってきた喜勇が、また惇嗣の肩に手を置いて座る。次の瞬間、グラ、と惇嗣の体が喜勇の方に揺れた。座卓に隠れて見えなかったが、チカには喜勇の腕が惇嗣の腰を自分の方へ引き寄せたように見えた。
「ばっ……!?」
「え?」
「あ?」
喜勇の方を振り返った惇嗣が、何か言いかけて口を閉ざす。対して喜勇は、素知らぬ顔で惇嗣を見て首を傾げている。両腕は既に座卓の上で、おしぼりで手を拭いていた。
「どした?惇嗣」
「いや、何でも……」
澄に問いかけられて、惇嗣はもごもごと口ごもる。喜勇は彼から視線を逸らし、揚げ出し豆腐を自分の取り皿に取っていた。チカの隣では、峰岳も不思議そうな顔をしている。気に留めない喜勇が、あまりにも不自然だった。
「そうそう、惇嗣。ミサちゃんも結婚したって」
その名前が出た途端、惇嗣がテーブルから身を起こした。レモンチューハイのグラスを持ったまま背後の壁に凭れて、ふーんと言いながら口を付ける。
「結婚もするだろ。俺らもう24だし」
「何で澄が知ってんの」
澄に聞いたのは喜勇だった。表情に出てないが、口調が少し強くなった。澄もそれを感じたのか、うろ、と視線を泳がせてから答える。
「え?いや……、あの子と中学一緒だから。この辺の子なんだよ。それで、旦那と一緒に帰省してきててこないだうちに食いに来たんだ」
「んで、惇嗣になんか用だったの」
「旦那がいるのに元カレの話なんかせんでしょ。普通に飯食って帰ってったよ。結婚したのー、皆によろしくーって嬉しそうに笑ってた」
澄の表情には少し嫌悪が見て取れる。喜勇はもうあからさまに顔をしかめているし、峰岳すら、肩を竦めてため息をついていた。元カレの惇嗣だけが、どうでも良さそうな顔をしている。
「よく言えたな」
「あの子にとってはもう過去のことなんだろ」
「あんな大騒ぎしといて?」
「まー……事故った時も見舞いすら来なかったからそんなもんじゃん?」
ミサという女の子は、大学時代の惇嗣を振り回した元カノだ。高校3年生から付き合っていたらしい。進路は同じ大学ではなく専門学生だとか言っていた。大学が違うのになぜミサの事を知っているかと言えば、ミサが妊娠を盾に惇嗣との結婚を迫ってきたからだ。しかも、突然大学の正門前まで押しかけてチカたちがいる前で妊娠を暴露し、結婚しようと輝かんばかりの笑顔で告げた。その時のことをよく覚えている。
戸惑ってはいたものの、とりあえず話を聞こうと言う事で移動したカフェで、彼女がホットコーヒーを注文した時点で結末は見えていた。
その後、惇嗣とミサは家族も巻き込んで揉めに揉めた。最終的には妊娠は虚偽だったとバレて、結婚はなしになった。新生活の不満と疲労で嫌になった彼女が、逃避の手段として結婚を目論んだらしい。
「まあ俺はもう気にしてないし、どっちでもいいよ」
「お前はもっと怒ってもいいと思うぞ俺は」
「いいのいいの」
全部バレた後も、ミサは惇嗣と付き合いを続けたいと言ったらしい。当然拒んだし、ミサの家族でさえ彼女を諫めた。大事な場面で嘘をつく人と付き合っていけるわけがない。当たり前のことだが、ミサ本人はなかなか納得しなかった。
「変な噂まで流されてさぁ」
「あれはなぁ」
澄の言葉に、あまり人悪く言わない峰岳も苦い顔をして相槌を打った。
惇嗣とミサの家族同伴の話し合いに決着がついた頃、大学で変な噂が流れ始めた。惇嗣が妊娠したミサを一方的に捨てたとか、そういう噂だ。
遠巻きにひそひそされるのに腹が立ったのは親信や峰岳で、惇嗣はただ静観していた。学校には報告してる、放っておけば収まるからと。澄は憤っていても行動を起こせる性格ではない。
喜勇は常に惇嗣と一緒にいた。元より同じ学部で取っている授業は色々と被っていたらしいが、違う授業だった時はダッシュで惇嗣が授業を受けている教室まで向かっていた。学校の行き帰りは勿論、昼休みだってずっと一緒だった。
「同じ頃に喜勇も彼女と別れてたじゃん」
「いやだって、惇嗣の噂信じてたから。違うって言っても聞いてくれないし、何か、話してるうちに冷めてきて」
「あの噂はマジで悪質だったよな」
その噂を流していたのは、ミサの友人だった。ミサから一方的に話を聞かされていて、同情した挙句の行動らしい。ある日突撃してきたその友人が、自分から全て暴露し惇嗣を罵倒してくれた。
その時に、一番食ってかかっていたのは喜勇だった。珍しく、澄も言い返していたのをみると2人とも腹に据えかねていたのだろう。惇嗣はやっぱり静観し、むしろ喜勇と澄を止めていた。情に訴えて泣きながら言い募る元カノの友人に、惇嗣は去り際に言った。
『原因と動機はどうあれ君のしたことは、訴えることもできるぐらいに酷いことだから。これ以上エスカレートするなら俺も考える』
その言葉で、惇嗣は学校を含めた第三者に相談しているのだろうと察した。そもそも犯人が誰だかは既に分かっていたうえで、名乗り出るまで待っていただけだった。それでも、人の噂というのは一度広がるとなかなか消えない。同学年のデリカシーも面識もない人間に揶揄われたりと、面倒な思いは何度かしていた。
「そんであれじゃん、倫理学の竹中さん」
学部の違うチカは詳しく知らないが、倫理学の竹中という教授が惇嗣の噂を例に取り上げて授業をした。その後から噂は次第に流れなくなり、知らない内に消えてしまった。
「澄はあの授業出た?」
「いや、倫理取ってたのは惇嗣と喜勇だけじゃん」
「あの人にはあの時だいぶお世話になったから、すごい感謝してる。今でも時々連絡とるし、うちの母さんも未だにお歳暮とお中元送ってる」
そこで惇嗣と喜勇を見た信親は、あ、と思った。喜勇の顔を見て、全部の疑問が繋がってしまった。繋がって、けれどすぐには納得できなくて無意識に眉間にしわを寄せる。
「俺より怒ってたしな、竹中教授」
「へえ、そっかー……」
隣で、その話全く面白くないです不満です、と顔に出ている男には気づかず、惇嗣はちょっと嬉しそうな顔で語っている。同年代の自分たちだけでなく、家族でもない、人生経験豊富な大人に親身になって相談に乗ってもらったり庇ってもらえたことが支えになっていたのだろう。それが大学側の人間で、色々と配慮してくれたこともあるらしい。
それはチカも良かったなと思う。惇嗣は問題に振り回されながらも授業を休んだりすることなく真面目に通っていたし、勉強もそれなりにやっていた。それでも、ストレスは半端なものではなかったと思う。正直自分が同じ立場に立たされたら、どこかのタイミングでブチ切れていた気がする。
「でもほんとあの後ですぐ噂収まったよな」
だが今はそうじゃない。その、惇嗣の隣の男の顔だ。頬杖をついて、ポテトフライをまとめて頬張ってもぐもぐやって黙っている喜勇だ。それはあの頃、噂に振り回される惇嗣を一番親身になって支えていた男の顔ではない。
完全に拗ねた男のそれだ。
「そうそう。俺安心しちゃったもんなぁ」
「俺もだ」
澄と峰岳が和やかに話を締めてくれたおかげで、喜勇が何か言い出すことはなかった。
あらかた食べつくして腹が膨れた頃、喜勇が実家でもらってきたスイカが出てきた。先に切り分けて冷蔵庫に入れてくれていたらしく、冷たいスイカは塩気や油の多い食事と酒で荒れた口を癒すような瑞々しさだった。
さすがに大玉のスイカを男5人で食べきることはできず、この後に来る客にも出してもらうと言う事で引き取り先ができた喜勇は安心していた。チカにも身に覚えがあるが、実家に帰ると親は色々なものを持たせて来るものだ。
「それじゃ、俺はこっちだから」
酒の入っていない峰岳は、食べたカロリーの消費を促すためここから家まで走って帰るのだとか。真夏の暑い中よくやるよとは思うが、これはもう彼の性分なのだろう。
「惇嗣と喜勇は?」
「俺ら自転車」
店の前に止められたママチャリの鍵を開けた惇嗣が、当たり前のように荷台に座る。喜勇がサドルに跨って、そのまま帰るらしい。
「飲酒運転」
「事故んなよ」
「だーいじょぶだって、俺そんな飲んでないし」
確かに、喜勇は2杯ほどでソフトドリンクに切り替えていた。むしろ心配なのは惇嗣の方で、チューハイやらカクテルやら果実酒やらと甘い酒ばかりちゃんぽんしていた。今も、上機嫌でヘラヘラ笑っている。
「途中で惇嗣のこと落とすなよー」
同じぐらいの杯数のビールを飲んでいた澄も割と上機嫌だが、彼はこの後店の片づけがあるらしく早々に店に戻っていった。
「チカは駅まで?」
「うん。歩き」
「じゃーそこまで一緒に行こうぜ」
喜勇が自転車に跨ったまま、足で地面を蹴って進ませる隣を歩く。惇嗣は既に後輪の中心部に足を置いて、スマホを弄っていた。
「なあ喜勇」
「んー?」
「暑くねえの、それ」
「あー……」
喜勇の腰に回った惇嗣の片腕を視線だけで見下ろす。同じように見下ろした喜勇は、別に、と嘯いた。
「あのさぁ」
「うん?」
もう目の前に駅は近づいている。白々と明るい街灯に照らされながら、チカは2人を見た。
「何か、言いたい事とか報告とか、あんのか」
はっきり聞くことができなかったのは、触れていいかどうかを迷ったからだ。飲み会の時にごまかしたのは、澄や峰岳がいたからかもしれないが、彼らが隠したかったとしたらと考えてしまった。
2人を傷つけたいわけじゃないし、下世話な好奇心でもない。だから、はぐらかされてもいいと思っていた。
だけど、『そう』なったのなら、それなりの気の遣い方もあるわけで。出来ればチカははっきりさせておきたかった。
「んー……」
喜勇は少し、笑った。面映ゆいような表情に見えた。話を聞いていないのか、惇嗣は喜勇の背中に額を押し付けてまだスマホを触っている。
「まだちょっと、報告できないと思う」
「…………」
その顔が妙に幸せそうだったから、チカは大きく舌打ちした。褒められた行為ではないが路上に唾も吐いてやった。喜勇の表情や声音から、独占欲のようなものを感じたからだ。
そしてそれで、確信してしまった。こいつらヤってる。付き合ってるのか付き合ってないんだかは知らないが、この喜勇と後ろで酔っぱらっている惇嗣は確実にセックスしている仲になった。で、喜勇が妙な独占欲を露わにしている。
妙に近い距離感も、澄と肩を組んでいた惇嗣がそれを喜勇に見られて体を離したのも、竹中教授の話に喜勇が不満そうな顔をしていたのも。全部全部そのせいだ。
「色ボケしてんじゃねぇよクソがよ」
「いきなり口悪いじゃん何だよぉ」
「うるせぇ俺は彼女だっていねぇんだぞ」
自分だって、将来の目標がある。庭付き一戸建てで愛する嫁と子供2人、大型犬を飼って暮らすのだ。未だ相手も見つからないし、資金だって当然貯まっていないが。
「帰る!じゃあな!」
「おー、またなー」
「ばいばーい」
手を振る喜勇とスマホを振る惇嗣に見送られ、チカは煌々と明るい駅へと向かった。改札手前で振り返ると、2人が自転車を方向転換しているのが見える。彼らはそのまま2人乗りで自宅まで帰るようで、喜勇が何事か後ろに向かって話しかけていた。
「あ」
後ろから伸びてきた惇嗣の手が、喜勇の前髪を横に撫で付けた。あまり友人同士でもしないその仕草に、一方的なものでもないのだと悟る。そしてそれを受け入れた喜勇の顔と言ったら。
惇嗣も喜勇も、それなりに欠点はあるものの悪い人間ではない。2人がそれで幸せだと言うなら、チカには文句はない。だが、しかし。
「はー、クッソあいつらだけ幸せになりやがって」
湧き上がる怒涛の羨ましさに、チカは勢いよくICカードを叩き付けて改札を通り抜けた。
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