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第10話①
春先の気候のいい頃だった。夜は少し冷えるが、晴れた日には半袖でも過ごしやすくなった季節だった。
就職活動の息抜きに、と惇嗣は澄とよくツーリングに出かけていた。バイクに詳しくない喜勇はよく知らないが、お気に入りの一台をようやく手に入れたとかで惇嗣と澄は二人でよく話していた。
『あつしがじこった』
だから、メッセージアプリのグループ画面に澄がそれだけを送ってきたときは、全身から血の気が引いた。すぐに既読がついてチカが一部始終を聞き出したところ、今は病院に搬送され手術を受けているらしい。
不安で仕方ないから話し相手になってほしいと澄は言っていたが、すぐさま喜勇は病院へ向かった。状況の不明な現状で余り大勢で押しかけても迷惑だからと、峰岳は来なかった。その代わり、喜勇が移動している最中ずっと、峰岳が通るのはない相手になってくれていたらしい。チカは迷った挙句、やっぱり行く、と言い出した。
あの時の病院の静けさも薄暗さも、今でもすぐに思い出せる。青白い光に照らされただけの救急の入り口。受付の小窓だけが明るく、面倒くさそうな顔の守衛に声をかけるより先に澄が駆け寄ってきた。
登りの山道で、カーブを曲がるときに下ってきた車が車線をはみ出してきたらしい。惇嗣はとっさにそれを避けて、ガードレールにぶつかった。勢いを殺すこともできずガードレールの向こうに吹っ飛ばされるのを、少し後ろを走っていた澄は見たらしい。バイクを停めて慌てて覗き込むと、崖下に倒れているのが見えたのだとか。
「ぁ、惇嗣さー、めちゃくちゃ、ふっとんでってさ、人形みたいにさぁ」
「おい澄!」
「やめろチカ!」
一部始終を離しながら、澄はずっとへらへら笑っていた。その態度にイラついたチカが、胸ぐらを掴んで凄むぐらいには軽薄な話し方だった。慌てて喜勇が二人を引き離したら、澄はもう立ってもいられなかった。尻もちをつくように廊下に座り込んで、両手で顔を覆ってしまった。
「惇嗣動かなくて……俺が呼んでも、全然……」
手どころじゃなく、全身震えている。しばらく呆れたようにそれを見下ろしていたチカは、深いため息をつきながら澄の腕を引っ張って引き起こした。
「家族は?」
「まだ……俺、救急車に一緒に乗って、ここまで」
なら、澄は事故った惇嗣を間近に見ながらここまで来たと言うことだ。呼んでも返事をしない、動くことさえない友人と、その周りを慌ただしく動き回る救急隊と一緒にだ。剥き出しの傷を見たかもしれない。ふざけた調子ででもいないと、自分を保っていられなかったのだろうと想像がつく。現に今、澄はひたすら泣きじゃくりながら、惇嗣の心配を繰り返していた。
そのあとすぐに惇嗣の家族が来て、澄は帰宅することになった。あまりにふらふらしていたから、事情を聴きに来た惇嗣の家族にさえも心配されていた。
手術は成功したけど、意識が戻らない。そう聞いたのはそれから3日後だった。
それも数日で意識は戻ったらしいが、事故に遭ったことを惇嗣は覚えていなかったらしい。
この辺りは、澄が惇嗣の家族に何度も電話して聞いたのだとか、ただでさえ大変なのに迷惑をかけるなと、峰岳が珍しく怒っていた。
喜勇がちゃんと惇嗣に会ったのは、事故って1週間ぐらい経った頃だ。集中治療室から普通の病室に移されて、面会もできるようになったタイミングで喜勇は見舞いに行った。
一人だったのは、多分たまたまだった。澄はほぼ寝込んでいたし、チカと峰岳はまだ就職活動があった。早々に就職活動を終えていた喜勇だけ、割と時間に余裕があった。
病室は個室だった。大部屋が空いてなかったらしいとあとで惇嗣が言っていた。ノックをしても返事がなかったから、ちょっと心配になって開けたら惇嗣はリクライニングを少し起こした体勢で寝ていた。骨折した右足が、ドラマやなんかでよく見る入院患者のように吊られていた。
その時の惇嗣の顔を見るまで、喜勇は事態を楽観視していた。想像が追い付いていなかったのかもしれない。重体で、意識不明だと言っても、手術は成功したし意識も戻った。だから、見舞いに行ったらいつもの調子で笑ってくれるものだと思い込んでいた。思い込んでいたのだと自覚したのでさえ、この時だった。
青白いのに、変に浮腫んだ惇嗣の顔は、頬と額に大きなガーゼが貼られていた。首筋にも絆創膏が貼られていて、点滴の針を入れるために捲り上げられた左腕にも包帯が巻かれていた。胸元が微かに上下するから、乾いた唇が薄く開いて寝息を立てているから、生きているのだと分かる。それ以外に、惇嗣の生死を確かめる手段がなかった。
その姿に、喜勇は動揺した。最後に会ったときは、いつもみたいに笑って、酒を飲んで、バカみたいなことをしてふざけ合っていたのに。
「惇嗣……」
返事はない。当たり前だ、眠っているのだから。けれども、それで澄の恐怖の一端を見たような気がした。
ほんの少し前まで、いつも通りだった友人が傷だらけになり意識が失われる。喜勇は治療後の惇嗣を見ただけだが、事故の衝撃も傷も色濃く残った剥き出しのままの惇嗣を見た澄のショックは計り知れないだろう。
「…………」
堪らなくなって、投げ出されたままの惇嗣の手に触れた。冷たい手だった。それで余計にゾッとして、その手を温めようと握り込んだときだった。
「き、ゆぅ……?」
ガサガサの声で呼ばれて、手が握り返された。こんな風に手を繋いだことなんて、今まで皆無だったのに茶化しもできずに惇嗣が握り返してきた。
「目、覚めたか?」
「……ん」
活発で良く喋る惇嗣が、焦点が合っているかも危うい目でこちらを見ている。緩慢に瞬きを繰り返し、あぁ、とため息みたいな声を出した。
「何?」
「ぃた、い……」
「どこが?」
「ぜ……んぶ。し、んどぃ……」
弱音を吐いている所なんて、これまで見たことがなかった。元カノの騒動の時だって、自分たちには元カノの愚痴すら言わなかった。その惇嗣が、弱々しい声で呟いた。
「でも、生きてて良かった」
どんな返事をしていいか分からなくて、喜勇はそれだけを伝えた。少しの間ジッとこっちを見ていた惇嗣は、黙って握り返してくる手の力を強めた。その手の力の弱さに、僅かに緩んだひび割れた唇に、喜勇は心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
それが、惇嗣を好きになったきっかけだった。
「つまり、死にかけの惇嗣を見て好きになったと」
「いや語弊しかない」
飲みに行こうぜ、とチカから連絡があったのは2月半ばのことだった。まずは乾杯、ということでビールでお互い喉を潤し、お通しを摘まみながら何を頼むか話しているときに、チカが唐突に言った。
お前、惇嗣のことどう思ってんの、と。
何を今さら、気付いているくせに。気づいているのにあの日止めなかったくせに、と少しばかり恨み交じりで言ってやったらチカはすぐに謝った。惇嗣にはない美点だ。
惇嗣のことは好きだ、と言えば、いつから、何で、どこが、と矢継ぎ早に質問が飛んでくる。だから喜勇にとって大事な思い出の一つを話してやったというのに、ついでに年末の揉め事もちゃんと顛末を話してやったのに、言いがかりもいい所だ。もちろん、性的ななんやかんやは喜勇のなけなしの気遣いでぼかしてやった。
「ギャップ萌え?いや、……歴代彼女に儚い系はいなかったはずだよな」
「別にギャップとか好みとかそんなんじゃないし」
「そうなの?んまあ、そう言うこともあるか」
「チカこそ、俺が惇嗣のこと好きって聞いて、何か思わんの」
お通しの金平ゴボウはもうなくなってしまった。タッチパネルを操作しながら話していたチカは、注文ボタンを押してから顔を上げる。
「最初に感じたのは違和感。何かいつもと距離感違うなって。んで、多分惇嗣は無意識で、お前は意識してた」
「あぁ……うん」
「距離感が近すぎんなって気づいて。そんで多分、いや絶対ヤッてんなこいつらって思ったけど、まあそれだけかな」
「それだけ」
復唱しながら、ビールジョッキを煽るチカを眺める。ドン、とジョッキをテーブルの上に置いたチカは、盛大に息を吐き出してまた口を開いた。
「嘘!それだけじゃねえよ!なーんだよ盆の時のお前の顔!幸せそうなツラしやがって!自分だけ!」
「うわ、急に沸騰すんじゃん」
「アイツもアイツだわ!あんなことしてやがってよ、そんで何だ?セフレだって?嘘ついてんじゃねえよバカがよ!」
妬み嫉み僻み満載の恨み言に、二人の関係を疎ましがるような嫌悪するような言葉は一つもなかった。ただただ、二人に恋人ができたことが羨ましい、と言った様子だ。
だが喜勇には聞き捨てならない言葉があった。
「何?あんなことって」
「あぁ?何、お前も無自覚なの。っかー!バカップルがよぉ、ぉお?見せつけてんじゃねえのよマジで」
「何だよ、変なことしてないだろ」
お待たせしましたー、とテーブルに並ぶ料理に話を遮られ、ついでに自分とチカの二杯目のビールを注文する。枝豆、揚げ出し豆腐、出汁巻き、海鮮ユッケ、焼き鳥の盛り合わせが並び、チカは枝豆に手を伸ばし、喜勇は出汁巻きをとった。
「喜勇、お前さ、トレーニング後の峰岳の髪の毛、素手で触れるか?」
「は?絶対嫌だろ。アイツの汗の量尋常じゃねえじゃん」
「じゃあ澄でもいい。俺でもいい」
「ヤダよ。汚い」
それはそれでむかつくな、というくせにチカは満足げに笑っている。食べた枝豆の鞘を自分の取り皿に落とし、ビールを最後まで飲み干してテーブルの端っこにジョッキを移動させた。
「じゃあ、惇嗣には?」
「……別に、やれって言われればやれる、けど」
やれる、どころの話ではないが、喜勇は少しばかり濁して答えた。普段ならともかく、セックスの最中には汗どころか唾液だってザーメンだって当たり前に口にするのに思い至ったからだ。かと言って、全然平気ですとは言いにくい。
「別れ際にやってたろ、惇嗣が、お前に」
思い返して浮かんでくるのは、チカと別れたすぐ後のことだ。自転車を漕ぎ出す前に振り返って一声かけた喜勇の前髪が目元にかかっていたのに気付いた惇嗣が、その前髪を払ってくれた。割と当たり前過ぎて気にも留めていなかったが、言われてみれば確かに、だった。
「真夏のさ、酒飲んだ後の男のデコなんて誰も触りたくないわけよ。びしょびしょのギトギトだろどうせ」
「それはそれで失礼」
「それを躊躇いなく触れるのは、俺は愛だと思うぜ」
「カッコつけんなし」
言われてみればそうだ。セックスするような関係になって距離感が近くなったと言っても、友人だと思っている男の汗にまみれて額に張り付いた前髪を払ってやろうなんて思うだろうか。友人だった時代には、重たい前髪を切れと言われたことはあっても、あんなふうに触れられたことはなかった。ただ一度も。
追加のビールが届いて、喜勇はそれを一口、チカの方はまた一気に煽る。
「まあでも……脈がないとは思ってない、かも」
「あー、うっぜ。爛れた関係のくせによぉ。どうせあのアホ自分で気付いてないだけだろ」
「やっぱそう思う!?」
自分でも薄々思っていたことを誰かに言われて、つい前のめりになる。白けた顔をしているチカは、ねぎまを手に取るとネギと鶏肉をまとめて齧り取った。ふてくされたような顔で咀嚼し、ビールで流し込む。
「少なくとも俺から見た感じは十分そう」
「そっかぁ……」
「お前が怒って帰った後、アイツめっちゃ慌てて出てったしな。女の子に何の言い訳もしねえし無視だし、俺らにだけ帰るつって追いかけてったわ」
「へ、へえ……」
自分では知り得なかった、きっと惇嗣に聞いても一生答えないだろうことをチカの視点で聞かされる。思わずニヤけそうになる口元を覆い隠して、チカに嫌そうな顔をされた。
「喜んでんじゃねーよ」
「だってさぁ、はっきり友達だって言われたから……」
そうだ、そんなに慌てて追いかけてきたはずの惇嗣は、喜勇に言い放った。酷い話だ。喜勇が自分を好きだと知っているのに、知っていて何度もセックスしたのに、なのに自分は喜勇を友達だと思っているだなんて。
「ひどくない?」
「だったら切ればいいじゃん。友達に戻ろうって。確か惇嗣、そう言うのできる奴だよな」
「そ、うだけどさ……」
惇嗣の元カノの中には、完全に縁を切らず友人関係に戻った女性も少数だがいる。1年ほど付き合って、友達に戻り、その後彼女は結婚してしまったため今は没交渉らしいが、普通に遊びに行ったりしていた。好奇心モリモリで話を聞いたが、別れてから肉体関係は一切持っていないらしい。
「それはお前が嫌なんだろ」
「うん……」
「そりゃそうだよな。好きな奴とエッチできんなら俺だって続けるわ」
「だろ?」
「その内こっちに落ちてくれるかも知んねーし」
「そうそう!」
チカの話に大きく頷いていると、出汁巻きに醤油をかけたチカがそれを一口で頬張った。もごもごと口を動かしているのを眺めながら、喜勇は鳥皮串にに手を伸ばす。
「だったらさ」
「ん?」
パリッと焼かれた鳥皮は、噛むともちもちしている。塩加減も絶妙で、ビールが進む味だ。噛めば噛むほど油が染み出して、それをビールでさっぱり洗い流す。いつの間にか出汁巻きを飲み込んだチカが、行儀悪く箸の先をこちらに向けた。
「ちゃんと話し合えよ、お前ら」
「う……」
「アイツはあーだこーだ理由つけて謝んねーけどさ、お前は真剣に話し合うの苦手だろ」
「……押し付けは、良くないだろ」
逃げている自覚はあった。自分と惇嗣の関係が、拗れそうになっているのも分かっている。正月からこっち、二人の関係は元に戻ったと言っても、二人して必死で取り繕っているようなものだ。惇嗣も自分も、腹の底では何にも納得していない。惇嗣はどうか分からないが、少なくとも自分はそれに気づいている。
もともと、喜勇は家族以外に自分の気持ちを人に伝えるのは苦手だ。特に、負の感情は、できるだけ自分の中に留めて押し殺して消してしまう癖がある。
「話し合いって押し付けじゃねえんだよ」
「でも、誰だって重い話よりは楽しい話の方がいいじゃん」
「付き合ってくなら、楽しいだけじゃ続かねぇよな」
「……そんな人だと思わなかったって、言われたら嫌じゃん」
真面目に話せば話すほど、自分の思いを伝えれば伝えるほど、そう言われることが多かった。曰く、穏やかで実直そうに見えるのだとか。黙っていれば上品そうだよね、も普段からよく聞く。黙っていた例はないのだが、異性が持つ自分へのイメージは大抵かけ離れていた。
連絡やデートの頻度とか、自分以外の人と出かけるときだとか、セックスのやり方とか。不満があったら教えてほしいし自分も改善をお願いしたいときは伝えたい。けれど大体の女性はみんな、何でわかってくれないの、と頬を膨らませる。言ってほしいとお願いしても、そう言うことじゃない、とそっぽを向かれる。
ならもう、我慢できるだけ我慢して、嫌になったときに別れるしか手段はなかった。
「バカじゃん」
「だぁってさぁ!」
そうだ。惇嗣に、お前そんな奴だったの、と引かれるのが一番怖い。重くて煮詰まった気持ちを吐き出して、同じ気持ちを返してもらえないのはまだいい、でもドン引きされて気安い関係にさえ戻れないのは嫌だ。
「惇嗣だって知ってんだろうよ。もう何年の付き合いよ。俺だって分かってんだから」
「うぅ゛……」
「澄だってあのザ・鈍感の峰岳だって、お前が付き合う相手には真面目に接してんのは知ってんだよ。セフレだとかいう今の方が異常事態なんだってのもな」
そうだ。セフレなんて持ったことがなかった。ワンナイトだって考えもしなかった。だって怖い。見知らぬ女性とだなんて、何があるか分かったもんじゃない。
これまでの自分のスタンスを捻じ曲げてまで関係を続けているのは、惇嗣だからだ。
「そんで、俺は惇嗣がバカで後先考えないヤツだけど、相手の気持ちを利用できるほどクズじゃないことも知ってる」
「…………」
「だったら、お前らがすれ違ってるだけだろ」
ゴツ、と喜勇はとうとうテーブルに額を打ち付けた。頭の上に振ってくるチカのため息も、ごもっとも、と思うしかない。思いながら、スマホを取り出してメッセージアプリを立ち上げる。
性欲に流され過ぎるのは良くないな、と思う。けれど、惇嗣が積極的すぎるのも悪い、と同時に思う。惚れた相手が迫ってくれば、あるいは自分が迫っても絶対に断らないと言う安心感があれば、ついつい楽な方に気持ちのいい方に流されてしまう。男ならそうだろうと喜勇は思う。
「あ、でも」
「え?」
さて何て送ろう、考え込んでいた喜勇にチカが声をかけた。顔を上げると、何とも嫌そうな顔をした友人と目が合う。
「今後、俺らの前でイチャついたら殴るからな」
「お前……」
「何が悲しくて友達同士のイチャイチャ見せられなきゃなんねーんだよ。俺は独り身だぞ。罰ゲームかよ」
ケッ、と吐き捨てるチカは、うまく行かないなんて微塵も思っていないようだった。彼なりの後押しだと思うことにして、喜勇は惇嗣に送るメッセージを入力し始めた。
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