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第6話(※)
――それは不思議な感覚だった。
自分の中に他人の体温があって、好きだと囁かれるたびになぜか涙が出た。
幼い頃、家に棲みついた男から暴力を受けたことを母親に打ち明けた。あの人は自分を殴るから嫌いだ、家に呼ばないでと泣いて頼んだ。けれど母親は急に泣き出し、金切り声で自分を非難した。
「日晴鳥はお母さんがひとりぼっちで不幸になるのを望んでるの?そんな冷たい子だったの?」と責められた。母は自分のことなどどうでもいいのだと幼心にして理解した。自分がいるのにひとりぼっちだと言ってのけるこの人は一体自分の何なのか、考えると頭がおかしくなりそうで、自分自身がバラバラになってしまいそうだった。
「ごめんなさい」と告げると母は急に機嫌を直し鼻歌を歌いながら男が帰るのを心待ちにしていた。
それは至極異常な光景だった。
それから志水は外で過ごす時間がうんと増えるようになっていった。
「日晴鳥、大丈夫か?」
山女に名を呼ばれ、ぼんやり遠退いていた意識が戻される。過去の出来事と現実が曖昧になってしばらく志水は山女の瞳を眺めていた。
「惺厳――」
名前を呼ぶと山女はより一層優しく微笑みかけた。小さなこどもをあやすみたいに志水の髪を撫で、瞼や頰に口付ける。
志水はうっとりとそれを受け入れながら呟く。
「不思議だね」
「なに?」
「お互い嫌いあってた相手が、今は一番傍にいて、一番優しく俺を扱ってくれる。俺を好きだって言ってくれる。奇跡みたい」
「うん、きっとサンタがそう仕向けたんだよ。寂しいなら二人で一緒にいなさいって」
「そういうロマンチスト発言似合わないよ、惺厳」
きゃははと、さっきまで震えて泣いていたくせにまたいつもの志水に戻ったかのような能天気な声で笑ってみせた。少し腹が立って鼻の先を甘噛みすると変な声を出して志水は脱力した。そのまま口付けると嬉しそうに山女に抱きつく。
自分の中にある山女がゆっくりと少し奥に進む。志水は奥歯をカチカチ震わせながらその圧迫感に耐えていた。苦しそうにする志水に気が引けて山女は進むのを止め、体から離れようと動くと志水にしがみつかれて身動きが取れなくなる。
「日晴鳥、もう」
「いい、怖くない。大丈夫だから。離れないでよ」
「けど……お前、泣いてる」
言われて初めて自分の頰が涙で酷く濡れていることに気付く。
「悲しくて泣いてんじゃないよ、違うから。最後までしよう?」
鼻の頭を赤くした志水の体を抱き返して、ピッタリと体を添わせると腕の中の志水は山女の胸に顔を埋めた。
「今日は、いい。もう十分幸せだよ。お前の中に触れて、こうやってお互いで抱き合えて、すごく満たされるよ」
「惺厳……」
「ありがとう」
そう告げると山女は静かに口付けた。触れるだけの軽いキスだったけれど志水は胸の奥から形容しがたい感情が込み上げ、堪らなくなり声を出して泣きそうになる。
恥ずかしくて口を手で押さえ必死に声が出るのを飲み込んだ。肩を震わせる志水を抱きしめながら山女はその頭を何度も優しく撫でてやる。
二人は何も纏わないままで抱き合って眠った――。
山女は少し枕がわりにされている腕が痺れていたが、安心しきってこどものように腕の中で眠る志水の顔を見ているとそれくらいは我慢するべきだろうと小さく笑って目を閉じた。
恐ろしいくらいの快感も快楽もそこにはなかったけれど、ただひたすらに幸せに浸っていられる二人にとっては十分なものだった――。
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