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■3-3 ノア編:揺れる街灯と、半分ずつの工具箱

俺はタブレットを閉じかけて、画面の端を見た。 小さな街灯マークが光っている。 「……来てるな」 そう呟いてから、少しだけ引っかかった。 来てるな、って何だ。 通知だろ。 俺は誤魔化すように街灯マークを押した。 【低ランク巡回クエスト】 対象プリンス:ノア 街灯出力確認 場所:下町東区・パン屋裏通り 画面には、見覚えのある街灯が映っていた。 街灯番号E-042。 俺とノアの名前を入れた魔導プレートが、根元で淡く光っている。 ただ、今日は街灯の光が少し揺れていた。 強くなったり、弱くなったり。 画面の中で、ノアが工具箱を持って立っている。 『巡回兵ノアです。街灯番号E-042の出力が少し不安定になっています』 声は落ち着いている。 でも、工具箱が少し重そうだった。 『点灯はしていますが、念のため、霧晶石と補助灯の確認を行います』 ノアは街灯を見上げる。 『晴人。もしよろしければ、確認に付き合っていただけますか』 その声が、前より少しだけ近く聞こえた。 街灯の光が画面の外へ伸びる。 次の瞬間、俺は下町の裏通りに立っていた。 **** 下町東区の夜は、相変わらずパンの匂いがした。 パン屋の裏口から、焼きたてではないけれど甘い残り香が流れてくる。 蒸気管が白く鳴って、街灯の淡い光が石畳に映っていた。 「晴人、こちらです」 ノアの声がした。 見ると、ノアは街灯の下で工具箱を持っていた。 昨日より少し慣れた顔で、でも俺を見つけた瞬間、ぱっと表情が明るくなる。 そのあとすぐ、真面目な顔に戻った。 「街灯の出力が安定しません。霧晶石の接続を確認します」 「来て早々仕事だな」 「巡回中ですので」 「便利な言い訳、まだ使ってるのか」 「はい」 ノアは少しだけ笑った。 その笑い方が、前より遠慮なく見えた。 「工具箱、重そうだな」 「いつもは大丈夫です」 「今日は?」 ノアは一拍だけ黙る。 「少し、重いです」 「じゃあ半分持つ」 「え」 「二人で持てば軽いだろ」 ノアは工具箱と俺を交互に見た。 それから、少しだけ頬を赤くする。 「よろしいのですか」 「重いんだろ」 「はい」 「なら持つ」 俺は工具箱の片側を掴んだ。 ノアも、もう片側を持つ。 思ったより重い。 金属の工具と霧晶石の部品が、箱の中で小さく鳴った。 「これ、一人で持ち歩いてたのか」 「巡回兵なので」 「それ理由になってない」 ノアが小さく笑う。 工具箱の持ち手のところで、指が少し触れた。 ノアの指が一瞬だけ動く。 でも、今日はすぐに離さなかった。 俺も何も言わなかった。 二人で工具箱を持って、街灯の根元まで運ぶ。 たった数歩なのに、ノアはやけに嬉しそうだった。 「どうした」 「いえ」 「何か笑ってるぞ」 「工具箱が、少し軽いと思って」 「物理的にそうだろ」 「はい」 ノアは真面目に頷く。 「でも、それだけではない気がします」 そういうことを、普通に言う。 俺は返しに困って、工具箱を地面に置いた。 「作業するぞ」 「はい」 ノアは嬉しそうに返事をした。 **** 街灯の根元を開けると、霧晶石が小さく震えていた。 光が強くなる。 弱くなる。 そのたび、石畳に映る影も揺れる。 「壊れてるのか」 「壊れてはいません。出力の調整が少しずれています」 「また専門用語だな」 「ええと、明るさの呼吸が乱れているようなものです」 「最初からそれでいい」 「はい」 ノアは補助灯を取り出す。 俺は工具箱を支えながら、言われた部品を渡していく。 レンチ。 小さな管。 固定具。 今日は記録ペンと間違えなかった。 「晴人、覚えてくださったんですね」 「何を」 「工具です」 「昨日、間違えたからな」 「はい。昨日は三回ほど」 「数えるな」 「すみません」 「謝るな」 ノアは口元を押さえて笑った。 作業は思ったより早く終わった。 ノアが霧晶石の角度を少し直し、俺が補助灯の光を当てる。 街灯の灯りは一度ふっと暗くなり、すぐに柔らかく戻った。 今度は揺れない。 「安定したな」 「はい。大丈夫です」 空中に表示が浮かぶ。 【街灯出力:安定】 【補助灯接続:完了】 【巡回記録:更新】 表示の端が、一瞬だけ薄く揺れた。 だが、すぐに戻る。 「また少し揺れたな」 「古い記録盤なので、ときどき反応が遅れるようです」 「そういうものか」 「はい。点灯に問題はありません」 「ならいいか」 俺は街灯を見上げた。 昨日より安定した光が、パン屋裏の道を照らしている。 ノアは魔導プレートを確認して、ほっと息を吐いた。 「終わりか」 「はい。巡回記録としては完了です」 「じゃあ帰るか」 俺が言うと、ノアが少しだけ視線を動かした。 パン屋の角。 そこから、香ばしい匂いが流れてくる。 「何だ?」 「いえ」 「言えよ」 ノアは少し困ったように笑った。 「巡回区域内に、夜だけ出る焼き栗の露店があります」 「焼き栗」 「はい。街灯の確認が終わった後に、いつも通るのですが」 「食べたいのか」 ノアは固まった。 「勤務中ですので」 「巡回区域内なんだろ」 「はい」 「じゃあ巡回だろ」 「……なるほど」 「納得するのかよ」 ノアは真面目な顔で頷いた。 「晴人がそう言うなら、少しだけ」 「俺のせいにするな」 「はい」 けれど、ノアは嬉しそうだった。 俺たちは工具箱を片付けて、パン屋の角を曲がった。 **** 露店の明かりは、街灯より少し赤かった。 小さな鉄鍋の中で、栗がころころ転がっている。 湯気と一緒に、甘く焦げた匂いが立ち上る。 店主の老人がノアを見るなり、笑った。 「ノアくん、今日は連れがいるのかい」 ノアがぴたりと止まる。 「巡回の協力者です」 「友達かい?」 ノアがさらに固まった。 俺は横から言う。 「違うのか?」 ノアは、ゆっくりこっちを見た。 「……違いません」 声が小さい。 けれど、ちゃんと聞こえた。 「そうか」 「はい」 店主はにこにこしながら、紙袋に焼き栗を入れてくれた。 「友達割りだ」 「そんなのあるのか」 「今作った」 「雑だな」 ノアが小さく笑う。 俺たちは露店の横の低い石段に座った。 紙袋の中の焼き栗は熱い。 俺が一つ取ろうとすると、思ったより熱くて指先を引っ込める。 「熱っ」 「大丈夫ですか」 「大丈夫」 ノアは真面目な顔で栗を一つ取り、丁寧に殻を割ろうとした。 しかし、こちらも熱かったらしい。 指先を少し跳ねさせる。 「お前も熱いんじゃないか」 「熱くありません」 「嘘つけ」 「少しだけです」 「真面目に嘘をつくな」 ノアは耳を赤くして、栗を半分に割った。 中身を少し冷ましてから、俺へ差し出す。 「どうぞ」 「お前が食べたいんじゃなかったのか」 「晴人も一緒なので」 「理由になってるか?」 「僕には、なっています」 またそれだ。 こいつの中では、俺がいると、いろいろ理由になるらしい。 俺は受け取って食べた。 甘い。 熱い。 「うまいな」 「はい」 ノアが嬉しそうに笑った。 自分が作ったわけでもないのに、やたら嬉しそうだった。 「ノア」 「はい」 「お前、こういうの好きなのか」 「焼き栗ですか」 「こういう寄り道」 ノアは少し考えた。 「好き、だと思います」 「思います?」 「一人の時は、あまり寄りませんでした」 「何で」 「巡回中なので」 「真面目すぎる」 「よく言われます」 「俺以外にも言われるのか」 「店主さんに」 ノアは小さく笑う。 「今日は、晴人がいたので寄れました」 「また俺のせいか」 「はい」 「そこは否定しろ」 「できません」 ノアはまた笑った。 その笑顔は、街灯を直した時とは少し違う。 仕事がうまくいった笑顔じゃない。 ただ、楽しい時の顔だった。 俺は紙袋からもう一つ栗を取った。 今度は、少し冷ましてから半分に割る。 ノアに渡す。 「ほら」 ノアは目を丸くした。 「僕にですか」 「お前の焼き栗だろ」 「ありがとうございます」 ノアは両手で受け取った。 それから、なぜか大事そうに食べた。 たかが焼き栗だ。 でも、悪くない時間だった。 **** 露店を離れて、街灯の下まで戻る。 工具箱はノアが持とうとしたが、俺も片側を掴んだ。 ノアはもう驚かなかった。 少しだけ嬉しそうに、同じ持ち手を握る。 「次からも、重い時は呼べ」 「はい」 「重くなくても、半分持つくらいならできる」 ノアが、ぱっとこちらを見る。 「晴人」 「何」 「それは、困っていなくても呼んでいい、という意味ですか」 言われて、自分で少し詰まった。 「……巡回区域内ならな」 「はい」 ノアは嬉しそうに頷いた。 その瞬間、街灯の光がふわりと広がる。 空中に表示が浮かんだ。 【ナイトステイが発生しました】 「栗食ったからか?」 「街灯出力の確認が終わったので」 ノアは赤くなりながら、真面目に言った。 「あと、焼き栗をいただきました」 「それも理由なのか」 「僕には、とても楽しかったので」 そう言われると、また返しに困る。 街灯の光が、小さな休憩室みたいな空間を作る。 外の音が遠くなる。 露店の赤い明かりも、パン屋の匂いも、少し薄くなる。 けれど、焼き栗の甘い匂いだけは、まだ指先に残っていた。 空中に表示が浮かぶ。 【ナイトステイ】 対象プリンス:ノア 帰還条件:対象プリンスとのキス ※条件達成後、現実世界への帰還選択が可能になります 「今日も出たな」 「はい」 ノアは耳まで赤くしている。 でも、前より慌てていない。 俺も、前みたいに驚きはしなかった。 表示が出る。 ノアが赤くなる。 俺が少し近づく。 そういう流れを、もう身体が少し覚えている。 「晴人は」 ノアが言いかける。 「嫌なら言う」 俺が先に言うと、ノアは一瞬だけ目を丸くした。 それから、少しだけ笑う。 「はい」 「嫌ではない」 「僕もです」 返事が早かった。 その早さに、俺の方が少しだけ意識してしまう。 ノアが一歩近づく。 俺も少し身をかがめる。 今日のキスは、前よりまた少し長かった。 最初は、いつもみたいに触れるだけ。 でも、離れるタイミングが少し遅れる。 ノアの息が近い。 焼き栗の甘い匂いが、なぜかまだ残っている。 唇の温度が、前よりはっきり分かった。 離れると、ノアは目を伏せていた。 顔が赤い。 でも、逃げない。 「晴人」 「何」 「今日も、少し長かったです」 「毎回言うな」 「すみません」 「謝るな」 「はい」 ノアは笑った。 笑われると、怒れない。 空中に表示が浮かぶ。 【帰還条件を満たしました】 現実世界へ戻りますか? YES/NO 押せるのに、俺はすぐには押さなかった。 ノアは工具箱の横に立っている。 さっき二人で持った工具箱。 露店の紙袋は空になって、きちんと畳まれている。 街灯は安定して光っている。 帰る理由はある。 残る理由は、たぶんない。 でも、ノアがまだ楽しそうにしていると、少しだけ指が止まる。 「焼き栗、また食うか」 俺が言うと、ノアが顔を上げた。 「はい」 目が少し輝く。 「次も、巡回区域内なら」 「便利な言い訳だな」 「晴人が教えてくれました」 「俺のせいにするな」 「はい」 ノアは嬉しそうに笑った。 俺は少し遅れてYESを押した。 街灯の光が白く広がる。 最後に、ノアの声が聞こえた。 「晴人。次も、半分持ってください」 **** 現実に戻ると、タブレットには下町の街灯が映っていた。 街灯番号E-042。 光は安定している。 根元には工具箱。 その横に、小さな紙袋が置かれていた。 焼き栗の露店の袋だ。 ノアの姿はない。 でも、画面の端に露店の赤い明かりがちらっと映っている。 俺はしばらくそれを見ていた。 工具箱を半分持った感触。 熱い焼き栗を割った時の指先。 ノアが「友達」を否定しなかった声。 「……あいつ、焼き栗食うの下手だったな」 口に出してから、少しだけ固まった。 何を思い出しているんだ、俺は。 ただの低ランククエストだろ。 でも、まあ。 このゲーム、下町の作り込みが妙に細かい。 そういうことにして、俺はタブレットを閉じた。

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