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第2話「ズボン問題」

──コツーン、コツーン 無駄に天井が高い廊下に、僕の足音だけが小さく響く。頑丈なレンガ造りの壁には一定の間隔で小窓が設置されているが、北に面した廊下は薄暗く、仄かに薬品の匂いが漂っている。 僕が所属している魔法薬研究室は、五年前に王宮内に新設された部署だ。15名ほどの魔法薬士と数名の研究助手が在籍している。研究室の中で個室を持っている魔法薬士は少ない。僕の部屋は一番奥で、一番狭く、一番薬士長室から遠い。つまり、呼び出された時だけ効率が悪く、それ以外はとても使い勝手がいい部屋だ。 薬士長室を出てから中庭や温室の横を通り、僕はようやく自分の研究室の近くまで来ていた。 すると、後ろから僕のものとは違う足音がこちらに近づいてきた。足音だけではなく、カチャンと金属が触れ合う硬質な音まで聞こえる。誰かと思い、後ろを振り返ると、そこには窓から差し込む光を受けて一人の騎士が立っていた。 王宮騎士団第三部隊長──ヴァルター・グラーツ。銀髪に銀の瞳。体格のいい、いかにも騎士といったような男だ。魔法薬研究室によく顔を出す彼のことは、人に関心のない僕でも知っている。部隊長ともなれば毎日忙しいはずだが、たびたび自ら書類を届けに来ている。おそらく、仕事を他人に任せない完璧主義者か。あるいは、仕事を抜け出す口実にしている怠け者か。……まぁ、彼の様子を見る限り十中八九前者だろう。 「やあ、グラーツ部隊長」 声をかけると、彼は歩を早めて僕の目の前で立ち止まった。 「ヴァイス魔法薬士様。ご無沙汰しております」 無表情でやけに丁寧な挨拶をする彼に、僕は小さく笑ってしまった。 「ご無沙汰ってほどでもないよ。2日前にもここで会ったじゃないか。それより、前回騎士団に渡した魔力増強剤は問題なく使用できてるかな?」 「はい、問題なく。魔法薬の効果は十分に出ておりますが、人体への悪影響は出ていません」 僕の問いかけに、彼は簡潔に答えた。 僕は、彼の要点を押さえた話し方がとても気に入っている。最初は世間話のつもりで魔法薬の感想を聞いただけだったが、彼の話が研究の参考になると気がついてからは、会えばこうして話を聞いている。騎士というのは、彼のように生真面目な人が多いのだろうか。 「実は来週実地訓練がありまして、補充の申請に来たところです」 彼は魔法薬の補充申請書を僕に見せた。魔法薬は国が管理している重要薬品のため手続きが非常に面倒だ。 「それなら、僕が製造部に伝えておこう」 僕は申請書を受け取ると、折りたたんでそのまま白衣のポケットにしまった。 そろそろ話を切り上げようと思い彼を見上げると、僕の足元を凝視して固まっていた。やがて、困惑の色を浮かべた瞳を僕に向けたが、すぐにいつもの無表情へ戻った。一瞬ではあったが、感情を表に出さない彼にしては珍しい反応だと思い、僕は尋ねた。 「何か問題があったかな?」 僕の声に反応して、彼の肩がびくりと跳ねる。大きく息を吸い、スッと姿勢を正した彼は、僅かに唇を動かした。 「…………いえ」 大きな体に似合わない消え入るような声で答えた彼は、会釈をすると一度も振り返らないまま元来た廊下を早足に行ってしまった。そして、その場には僕一人だけが残された。 何を言おうとしたのだろう。もしかしたら魔法薬について思うところがあったのかもしれない。 そう結論づけた僕は、そのまま研究室の扉を開けた。 部屋に入った途端、コーヒーの落ち着く香りに包まれた。僕が机に書類を置くと、部屋の奥から声がかかる。 「おー、やっと帰ってきたか」 「お疲れ様です、アベルさん」 そこには丸椅子に腰掛けて本を開いている男性と、慌ててコーヒーを注ぐ小柄な女性がいた。 「レオン、それにミレイユも。僕を待っていたの?」 「ああ、ミレイユからアベルが薬士長に呼び出されたって聞いて、気になってさ」 レオンは、癖のある明るい茶髪を撫で付けながら立ち上がる。 「そろそろ戻って来るかと思ってここで待ってた……って、お前!」 突然、形相を変えて叫んだかと思うと、レオンは勢いよく本を閉じて僕に詰め寄ってきた。 「あー、レオン。本は丁寧に扱ってく……っうあ」 レオンに白衣の胸元を掴まれ、僕は驚きに声を上げる。 「またこんな格好で出歩いてるのか!研究室から出るときは、せめてズボンは履けって言ってるだろーが!魔法薬士の品位が疑われるだろ!」 血管が切れそうなほど憤慨する彼の手を優しく解きながら、僕は穏やかに笑った。 「レオン、それは見当違いだ」 「どこがだよ!」 「僕はズボンを履いていないんじゃない。正確には、白衣の下はパンツしか身につけていない。しかも、ズボンについては薬士長に“支障はない”と伝えてある」 「支障はない、じゃねえぇぇ!アホか!なんで服着ねーんだよ!?」 「うるさいですよ、レオンさん」 すると、小柄なミレイユがコーヒーカップを手に僕たちの間に割って入った。 「まったく……アホだなんて、アベルさんに失礼です。彼はこの国を救った英雄。アホなのはレオンさんですよ」 「アホ……って、今はそういう話をしてるんじゃ」 「いいえ!」 ミレイユは、身を乗り出して食い気味に反応した。その勢いに、さすがのレオンも僅かに後退りをする。 「アベルさんのこれまでの偉業を思い出してください!不可能とされてきた副作用なしの魔法薬の開発。革命となった魔力増強剤の発明。これによって、討伐困難とされていた大型魔獣にも対抗できるようになったのです!」 「……出たよ、ミレイユのアベル崇拝」 「見てください!誰もが振り返るこの美貌!初めてお会いしたときは、豊穣の女神セレスが顕現したのかと思いました!」 「僕は男性だよ、ミレイユ」 「王都周辺の平和は、アベルさんのおかげと言っても過言ではありません!もちろん、王国主催の祝賀会にも毎年招待される魔法薬士界の一等星!服なんか着なくとも、その輝きが失われることは未来永劫ありません!!!」 「…………」 「おー、素晴らしい熱量だ」 拳を突き上げて言い切ったミレイユに、レオンはポカンと口を開き、僕は小さく拍手した。 「いや、アベルの凄さはわかってるけど……俺はただ、服を着てくれって話を……」 先ほどの勢いはどこへ行ったのか、レオンの反論は蚊の鳴くような声だった。僕はわざとらしく咳払いをして、熱くなっている二人に声をかける。 「二人とも、落ち着いてくれ。まずは、なぜ服を着ないかというレオンの質問に答えるよ。それは、週末にまとめて家事をこなすことが効率的だと考えたからさ」 「それは服を着ない理由になっていない」 「確かに。正しくは、週末になると着られる服がなくなるからだ。そして、王都は一年通して薄着で過ごしやすいというのも理由の一つだ。服を買い足したいのは山々だが、今は時間が惜しくてね。時間に余裕ができたら調達に行くことを約束するよ」 僕の言葉に、レオンは絶望したかのように額に手を当てた。 「なんで俺が論破されかけてんだよ……くそぉ……」 「素晴らしい考えです、アベルさん。私も参考にします」 「ミレイユ、お前は真似するな!」 レオンの必死な説得は、ミレイユの耳には届いていないようだった。僕は賑やかな二人の隣で、温かいコーヒーに口をつけた。

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