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第10話「呼び捨て」
第十話「呼び捨て」
グラーツ部隊長に掴まれているエルンストの腕は、今やギチギチと音が鳴りそうな程だった。
「ま、待てって、本当に痛い!折れるってば!謝るから、ちょっ……全っ然離さないじゃん!」
最初は笑っていたエルンストも、グラーツ部隊長が本気で腕を掴んでいると気付いたのだろう。次第に表情を引き攣らせていく。
「お前、俺の前で呼び捨てにしたことなかったよな?いつからそういう仲になったんだ。どういう関係だ」
グラーツ部隊長の声は低く、それでいて酷く淡々としていた。まるで犯罪者を尋問しているような冷徹な雰囲気に、僕の背中がゾワっと震えた。
彼は、何をそこまで怒っているのだろうか。もしかしたら、王宮騎士団は人間関係を厳しく管理していて、事前の報告義務などがあるのだろうか。そうだとしたら、僕とエルンストの関係を早く彼に知ってもらわなければ。
「グラーツ部隊長。僕とエルンストの仲は、特に怪しいものではないよ」
「……そうですね。とても親しいように見えます」
グラーツ部隊長は、視線を落としたままこちらを向いた。なおも僕を疑っているようで、その表情はどこか沈んでいた。
「うん。僕たちは、俗にいう幼馴染というものだよ」
僕の言葉を聞いた途端、グラーツ部隊長はぎこちない動きでエルンストを振り返った。腕を解放されたエルンストは、真っ赤になった手首を摩りながら、困ったような表情で僕の言葉に続いた。
「そういうこと!俺とアベルのお兄さんが同じ歳で仲良かったから、アベルとも昔からの知り合いってだけ」
「領地も隣で親同士の交流が多かったからね。しかし、僕はあまり一緒に遊んでもらわなかったな」
「逆でしょ?アベルが俺たちの遊びに付き合わなかったんだよ〜。アベルの遊びはなんと言うか……俺には難しかったんだ」
「そうだったかな?……まあ、そういうことで、僕がエルンストに危害を加えることはないから安心してほしい」
「……はい、それは十分に理解しています」
グラーツ部隊長は僕に困惑した表情を向けた。しかし、すぐに彼はエルンストに向き直り口を開いた。
「俺はその事実を知らなかったんだが?」
「も〜!そんな怒るなよ。いつかタイミングをみて話して驚かせようと思ってたの!大人になってからは、アベルと会う機会も少ないから安心してよ」
「呼び捨て……」
先ほどから、グラーツ部隊長は呼び方について妙に引っかかっているようだ。呼び方、か……。彼は敬意を払って正式な呼び名で呼んでくれているのだろうが、毎回『ヴァイス魔法薬士様』と呼ぶのも大変だろう。
「グラーツ部隊長も僕のことを呼び捨てにしてもらって構わないよ」
「え!!?」
グラーツ部隊長は弾かれたように立ち上がり、重厚な机にぶつかると、ガチャンとコーヒーカップが派手な音を立てた。
「そんなに驚くことかな。そもそも、僕は年下なのだし、敬語を使わなくて問題ないよ」
「しかし、あなたは伯爵家のご子息で、私は家格が下なので……」
「確かに僕は伯爵家の出身だけど、その肩書は、僕自身を測る物差しにはなり得ないと思っている。中身のない血統よりも、個人の実績や成果を重視するべきだ。そうだろう?グラーツ騎士団第三部隊長殿」
真っ直ぐ見つめながら告げると、彼は一瞬息を呑んだ。
「……はい、その通りです。私は、爵位ではなく、魔法薬士としてのあなたを尊敬しています」
「それならば、僕のことを呼び捨てにしてくれないかな?はっきり言って、『ヴァイス魔法薬士様』と呼ばれるのは時間の無駄だと思うんだ」
『アベル』に対して『ヴァイス魔法薬士様』はあまりにも長い。必要性がないのであれば、それは非効率だ。これから頻繁に会うことを考えれば、こういった些細なことから効率化していくべきだろう。
「そんな……いきなり、呼び捨てなど……」
「僕もヴァルターと呼んでもいいかな?」
「ゔぁっ、ゆ、ゔぁあ!!??」
「ヴァルター、驚きすぎて気持ち悪くなってるよ。……ほら、アベルが呼び捨てにして欲しいって言ってるんだから、叶えてあげないと〜」
エルンストがニヤニヤと笑みを浮かべながら、背後からヴァルターの肩を揺さぶる。ヴァルターは火炎石のように顔面を真っ赤に染め、何度も口をパクパクと開閉させていた。呼び捨てにするのは、そんなにも難しいことだっただろうか。
「私のことは、好きに呼んでください。その……ア、アベ……アベル様」
「『様』もいらないよ?」
「ぐっ……アベル………………様。ああ!駄目です!どうしても呼び捨てにできません!!」
「ブハッ!!!」
頭を抱えてソファーに沈み込んだヴァルターを見て、後ろから見ていたエルンストが盛大に吹き出した。
立派な体躯をした彼が、今は目の前で体を縮めて震えている。真面目な彼にとって、爵位が上の者を呼び捨てにすることは、僕が考えるよりも難しい問題だったようだ。
「もう少し砕けた話し方の方が、僕としては嬉しいんだけど……。まあ、これから少しずつ慣れてくれたらいいよ。グラーツ部隊長──いや、ヴァルター」
ヴァルターは顔を上げると、僕の表情を見て固まっていた。僕は彼の様子を見て、優しく笑いかけた。
「あー……アベル。それは、逆効果だよ」
エルンストが小さな声で何か言っていたけれど、僕は理解できず小首を傾げた。
「それより、ヴァルターはそろそろ会議の時間だろ?」
エルンストの声で、掛け時計に目をやると約束の時間をとうに過ぎていた。僕はすぐに立ち上がり、上着の皺を軽く撫でた。
「すまない、時間を忘れてしまっていたようだ。ヴァルター、貴重な時間をありがとう。」
「はい。こちらこそありがとうございました。研究室までお送りします」
ヴァルターがソファーから立ち上がると、エルンストが慌てたようにその肩を掴んだ。
「いや、ヴァルターはこれから重要な会議だって言ってるだろ。アベルは俺が送っていくよ」
エルンストにそう言われると、ヴァルターは眉間に皺を寄せた。すると、エルンストを見てぼそっと呟いた。
「…………会議はエルンストが出ろ」
「無理だって!毎回それ言うのやめろ!」
「まったく……ヴァルターはアベルが絡むとすぐに仕事を放棄したがるね」
騎士団第三部隊の執務室を後にした僕は、エルンストに付き添われ騎士団訓練棟の廊下を歩いていた。エルンストは、やれやれと言わんばかりにため息を吐いているが、その表情は同期への親しみが感じられる。
「そうかな?僕はヴァルターがとても仕事熱心な人だと感じているのだけど」
僕が知っているヴァルターはいつも真面目だ。しかも、魔法薬に興味を持ってくれている。きっと、僕と魔法薬について議論することが、彼にとっての楽しみになっているのだろう。それは、本当に嬉しいことだ。
「アベルがそう思ってくれてるなら、俺は何も言うことはないけどね。ま、真面目かどうかは置いといて、ヴァルターはいい奴だよ」
エルンストが僕を見てニヤリと笑った。僕も、ヴァルターには助けてもらっている身だ。もちろん、いい人だと思っている。
僕もエルンストを見上げて小さく笑った。
すると、エルンストが不意に廊下の先を見据え、スッと目を細めた。僕もつられてエルンストの視線の先を見ると、そこには真っ直ぐこちらに歩いてくる集団がいた。
先頭を歩くのは真っ赤な髪をなびかせ、同じ色のドレスに身を包んだ女性だった。四人の侍女を侍らせ、騎士団の埃っぽい廊下をゆったりと歩く姿は、遠くから見ても威圧感を放っていた。
「……ロザリーネ王女殿下」
エルンストの声で、僕は彼の後ろに一歩身を隠した。
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