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第11話「ロザリーネ王女」
訓練場を囲うように続く廊下は、太陽の位置が高くなると日陰となり、ひんやりとした風が通り抜けた。無機質な石造りの廊下に、女性たちの靴音が鈍く響いて、その音は僕たちに近づくにつれ大きくなっていった。
僕の隣でエルンストが頭を下げ、略式の礼をとった。僕も彼にならい頭を下げた。
カツン、カツンと近くまで足音が迫り、僕たちの目の前でピタリと止まった。その直後、この場所に似合わない香水の香りがふわりと鼻をかすめた。
「ご機嫌よう、ケルナー副隊長」
王女が一言発しただけで、廊下に漂う空気が張り詰めた。初めて至近距離で聞く王女の声は、柔らかく耳に届くのに、決して逆らってはいけないような強さがあった。
「ご機嫌麗しく存じます、ロザリーネ王女殿下。本日は、このような場所に足を運んでいただき大変有難く思います。会議でしたら、騎士団本部になりますので、よろしければ私がご案内いたします」
声をかけられたエルンストは、胸に手を当て挨拶を返した。貴族然とした佇まいに、彼の培ってきた経験を感じる。さすが、エルンストだ。僕には、こんな上品な挨拶はできなかっただろう。
「ここが会議場でないことはわかっております、ケルナー副隊長。わたくしは、グラーツ部隊長にご挨拶してから、本部に向かおうと思っておりましたの。部隊長はお部屋にいらっしゃるかしら?」
「いえ、隊長は既に本部に向かい、ここにはいません」
「あら、それは残念だわ。もう少し早く来られたらよかったですわね」
僕はエルンストの少し後ろからロザリーネ王女の横顔を見ていた。確か、王女は18歳になったばかりだったはず。しかし、王女は成人したばかりとは思えないほど圧倒的な貫禄を纏っていた。
なんだか、この空間だけが──息苦しい。
二人が言葉を交わしていると、王女の視線がふと僕に向けられた。すると、その表情が僅かに揺らいだ。
「……もしや、あなたはアベル・ヴァイス魔法薬士様ではなくて?」
言葉を返そうとして王女と目が合った瞬間、僕の体は固まった。長く艶やかな睫毛に縁取られた瞳は、緑色に輝いていた。
王女は、僕と同じ──高魔力持ちだ。硬直した体の奥で、どくんと心臓が跳ねた。僕は声を出すこともできず、ただ王女の瞳を見つめていた。
ひんやりと風が吹き抜けると、ようやく僕は我に返った。慌てて頭を下げ、言葉を探した。
「……ご機嫌麗しく存じます。ヴァイス伯爵家三男、アベル・ヴァイスと申します」
喉の奥がきゅっと締め付けられたが、なんとか最後まで言い切ることができた。
「もちろん存じ上げておりますわ。ですが、ここでお会いできるとは思っていませんでした」
王女は僕に一歩近づくと、優雅な所作で扇子を開き、口元を隠した。
「あなたには、とても期待していますのよ。魔法薬の研究成果を楽しみにしておりますわ」
ねっとりと絡みつくような囁きに、僕の背中がぞくりと震えた。ゆっくりと顔を上げ、王女を見ると、扇子から覗く緑の瞳がうっすらと細められていた。
「……もったいなきお言葉、光栄に存じます」
僕は声を振り絞るように返し、深く頭を下げた。王女は満足げに、ぱたんと扇子を閉じた。
「ここでお会いできて光栄でしたわ。それでは、わたくしは失礼いたしますね」
別れの挨拶を済ませると、王女たちは颯爽と石造りの廊下を進み、やがて姿を消した。
まるで瞬く間に過ぎ去った嵐のようだった。僕は胸に手を当て乱れた鼓動を落ち着かせ、隣に立つエルンストを見上げた。
「エルンストは王女と面識があったんだね。僕一人ではきっと対応できなかったから、とても助かったよ」
すると、エルンストは眉尻を下げて王女が消えた廊下の先を見据えた。
「理由はわからないけど、昨年あたりからよく視察にいらっしゃるんだ。俺はそのたび案内役を任されているせいで、顔見知りなんだよ」
その声は、いつものエルンストより僅かに暗いように感じた。あまりいい話ではないのかもしれない。
「今日、王女がここに来たのは、祝賀会の護衛についての会議に出席するためさ」
「……祝賀会?」
最近よく耳にするその言葉に、僕はつい反応してしまった。
「もう公に発表されている話だけど、今年の祝賀会に、フィルゼタッシュの王族を招くことは知っているか?」
エルンストの言葉に、僕は首を横に振った。
──フィルゼタッシュ帝国。セレステ王国の東側に位置する大国で、国土の三分の一を砂漠地帯が占める国だ。宗教国家で、魔道具の生産に長け、他国との貿易によって栄えている。昨年からセレステ王国とも貿易が盛んになり、最近では市場でフィルゼ産の魔道具をよく見かけるようになっていた。
「話によると、かなりの大所帯で来るらしいぞ? 要するに……」
そこでエルンストは一瞬、間を置くと、大げさに嫌そうな表情を作って僕を見た。
「第一、第二部隊だけじゃ警護の人員が足りないって話なんだよ……」
「じゃあ、エルンストたちも当日は警護に当たらなきゃならないのかい?」
「そういうこと〜。まあ、王宮内に配属されるのは貴族出身者だけになるだろうけどね」
「それならヴァルターは重要な警護につくだろうね」
僕が何気なく言った言葉に、エルンストは眉間にしわを寄せた。
「そうだね……俺の予想では、そのことで王女が会議に出席するんだと思ってる」
「……どういう意味だい?」
するとエルンストは、僕の質問には答えず、困ったように小さく笑った。
「ここからは機密事項さ。さて、今はアベルの護衛任務を遂行しなくちゃ!」
そう言うと、エルンストは再びゆっくりと歩き始めた。
エルンストに話をはぐらかされてしまった。けれど、機密事項と言われては、これ以上の追求はできなかった。
僕も慌てて、先を行くエルンストを追った。歩きながらも、僕の頭の中はロザリーネ王女にかけられた言葉でいっぱいだった。
『魔法薬の研究成果を楽しみにしておりますわ』
あの一言だけが、いつまでも胸に引っかかっていた。もしかすると──王女は催淫剤の依頼に関係しているのかもしれない。
そこまで考えて、僕は思考を止めた。
深入りは、厳禁だ。これ以上知ると、研究に支障が出るかもしれない。
「待ってくれ、エルンスト」
少し先で振り返った彼のもとへ、僕は足を速めた。
今はただ、纏わりつくような香水の香りから早く逃げ出したい一心だった。
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