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第2話
柊一さんの後ろをついていくと、黄色いタクシーがいた。運転手は初老の65前後の男性だった。
「待たせてしまってすみません。新宿三丁目のクレセントっていうジャズバー近くまで」
乗り込んだ矢先、柊一さんが行き先を告げる。
「ええと、新宿三丁目のクレセントね。お客さん電話番号わかるかな?番号さえあればナビで行けるんだけども」
柊一さんはスマホを手に取り、画面を何度かタップしている。
「ああ、それなら…」
柊一さんの低い声がタクシーという狭いスペースに響く。俺は横でそれをただ聞いていた。
「はい大丈夫。ちょっと土曜の新宿だから渋滞に巻き込まれるかもしれないけど」
それを見越して、十九時半からのライブなのに早く行くのか。柊一さんは「それでいいです」と伝えている。
「じゃ行きましょうか」
車はビル街の中ゆっくり発進する。
「美也子さん待ってるかなー。ね、柊一さん今日はどれぐらい美也子さん歌うの?」
俺は、すぐ傍にいる柊一さんに聞く。
「だいたいアンコールも含めて10曲ぐらいじゃねえかな、ジャズは長い曲もあるからな」
「そうなんだ」
「ファースト・セットと休憩時間、セカンド・セットとアンコール一曲ぐらいか」
「ふむふむ」
「お前、三年前ジャズバーに来て何にも憶えてねえんだな」
「…う」
俺は物珍しい酒とその酒の美味さに惹かれて酒に溺れた。ジャズなんて聞いてるどころじゃなかった。
「そうだよなー。一人で大泣きしてたもんな、七瀬」
「い、言わないでよ…」
三年前の雨の日。柊一さんと出会ったあの日。俺はジャズの記憶もロクに残っていない。
介抱してくれた柊一さんの綺麗な顔と低くて艶のある声、冷えたスポーツドリンク、柔らかいソファーベッド。それだけがあの日の記憶だ。
「ま、七瀬の事だから」
「またそれかよ!」
柊一さんはすぐにそれを言う。七瀬はバカだとも言う。それを言っている柊一さんはやけに嬉しそうなので、余計腹立たしい。
俺だって少しは学んでる。三年前よりは随分ジャズという音楽を理解している。
それまで音楽なんて適当に流してた俺がサブスクで毎日何らかのジャズソングを聴いている。これから会うジャズボーカリストとして頑張る美也子さんの域までは及ばないとしても。
「あーお客さん、捕まっちゃいましたねえ」
運転手がため息交じりに言う。
土曜の夜の新宿は大混雑だ。東京都庁もある副都心、新宿。人もそれだけ多い。
なかなか進まない車内でカチカチとメーターが動く。俺はただ窓に映る景色を眺めている。タクシーの中に流れるラジオのニュース。雑多な新宿に似合う雑多なニュース。最近はネットで見ることが多くなったニュースだけど、今もこうやって放送されてるんだな。普段ラジオとは無縁の生活をしているから新鮮だ。
「新宿で強盗だってさ、治安悪いね。同じ都内なのに、俺のとこは全然違うね」
「七瀬は都下だろう。区内は違うさ。特に新宿はな…」
「流石は副都心、人多いよねー。便利だろうけどさあ」
「そう言いながら、毎週来てるじゃねえか。七瀬、新宿に。仕事場全然違うのに」
柊一さんは俺に視線を合わせる。俺はたまらず視線を逸らす。
「そ、それは…い、色々とあるから…」
「ふうん」
俺の反応を楽しむような声。わかっているくせに、彼はわざとこんな事を言う。
三年前から続いている、俺が毎週柊一さんのマンションに行く事。
常にからかわれて終わるだけの日々だったが、先週は手のひらにキスされた。その時のことを思い出すとわずかに体温が上がる。
「ちっとも進まないね!俺車なんて普段乗らないからわからなかったよ!」
俺はごまかすように大声を出す。
「はいはい。七瀬顔を赤くしていう事じゃないな」
俺はびくっとして、真横の柊一さんを見る。…笑っている。ニヤケてるとも言う。俺は言い当てられて更に顔が赤くなる。
何で柊一さんはわかるんだろう。俺がそれだけわかりやすいって事なのか?それとも日常茶飯事、人間観察している作家だからわかるのか?前者じゃないことを祈るけれど。
「六時半か。思ったよりも混んでるな」
「早く出てきてよかったね。ライブには間に合うよね」
「そうだな。そこまではかからないだろ」
美也子さんの歌声は三年前にも聞いている。まるで記憶にないので、俺は初めて聞く感じだ。どういう声で何を歌うんだろう。普段は柊一さんのマネージャーの美也子さん。俺は新たな面を見るわけだ、ちょっとだけ楽しみ。
美也子さんは俺と柊一さんを繋いでくれた女神様は今、何をしているのかな。
新宿紀伊国屋書店の前を抜け、車は伊勢丹の方へ。
「そろそろだ、降りるぞ七瀬」
「え?どこどこ?」
全くジャズバーらしきものは見えない。柊一さんは運転手に言い、車を止め、料金を払う。
「ほら、七瀬降りるぞ」
柊一さんに急かされ、俺はタクシーを降りる。
「この先は道が狭いから、歩くぞ」
「へ?」
「へ…じゃねえ、歩くぞ、七瀬」
俺は何が何だかわからないまま、大通りでタクシーを降り、柊一さんの後をついていく。
どんどん道幅が狭くなり、いつの間にかネオンが光る路地裏を歩いていた。
そう言われてみれば、三年前行ったジャズバーも表通りではなかったような気がする。行く手前で迷子になりかけて、グーグルマップとGPSに救ってもらった気もする。…あまりにあいまいな記憶だから断言はできないけど。
だが今回は迷わない。柊一さんという絶対的なナビゲーターが居る。
「七瀬、遅れるなよ。ちゃんとついて来いよ」
「任せて、それなら心配しないで」
俺は柊一さんの腕に手を伸ばすが、ペシンと柊一さんに叩かれる。
「ったく、どこのお子様だよ。ちゃんと俺の後をついてくればいいんだよ、お前は」
「ケチ。少し位いいじゃん」
「お前みたいなのは甘やかすと、すぐつけあがるからな」
ぶうたれた俺は思いっきり下唇を突き出し、不満を顔に書いた表情を浮かべる。
少し位いいのに。少し位見逃してくれてもいいのに。
今日は初デートなんだから、甘い夢見せてくれてもいいのに。
月明かりとネオンの灯りが照らす中、俺は仕方なく柊一さんの後をついていく。
せめて隣に居させてよと願うが、それは叶わず。とぼとぼと暗い道を彼の足取りを頼りに歩いていく。
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