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第3話
「ここだな」
柊一さんの後をおとなしくついてきて、昭和から続いてそうな古そうな雑居ビルの前についた。
入り口には色褪せた真鍮 の看板と、今夜演奏するメンバーの名前が手書きで書いてある黒板スタンドが出ていた。そこに美也子と書いてある、間違いなくここだ。
「このビルの地下一階がクレセント、昭和からやってるジャズバーだ」
「すげー!」
今は令和の時代。このビルと同様に古い。俺の生まれる前からあったってことだな、ここは。
「老舗のジャズバーで美也子さんも居る。七瀬、やらかすなよ」
「わかってるよ、酒は飲まないし大人しくしてる」
俺だって空気を読む。柊一さんから念を押されなくても、三年前のような事はしないし、今日はなんたって柊一さんとの初デート、記念日にしたくなる日を自分で台無しにしたくない。
人生で二度目のジャズバー。今度こそはスマートな大人であり続ける。
俺と柊一さんは地下へと続く狭い階段を下り、重厚な扉の前に来た。よく見ると、長年、多くの客やミュージシャンが触れてきたためか、取っ手の部分だけピカピカに擦り切れている。
「じゃ入るぞ、七瀬」
「うん」
柊一さんが扉を開くと、タバコのヤニの匂いが俺の鼻をさす。そして何十年分の熱気でセピア色に燻された壁に過去にこの店で演奏しただろうミュージシャンたちのサイン入り写真や、古いレコードのジャケットが隙間なく飾られている。照明は極限まで落とされていて、各テーブルのキャンドルの灯りと、ステージを照らす暗めのスポットライトだけが浮かび上がっている。
ライトに入れるスタバとは違い、人を選ぶ大人の空間だ。俺はその雰囲気に圧倒される。
「俺、大丈夫なのかな…浮かないかな…柊一さん」
「大人しくしてれば平気だ、酒は飲むなよ」
圧倒されて酒どころの話じゃないんだけど。俺はキョロキョロと辺りを見回す。
「いらっしゃいませ、お客様は二名様ですか」
「予約した関根です、二名でお願いします」
入り口に立っていたスタッフが持っていたノートで何やら確認している。なんか一流のレストランに来たみたいだ。俺、場違いじゃなければいいけど…。
「はい、先週電話で予約された関根様ですね。どうぞこちらへ」
スタッフはノートを閉じ、柊一さんと俺を予約席へエスコートしてくれる。柊一さんは至って普通にしているが、俺は浮足立っている。
二度目とはいえ、一度目のジャズバーは記憶がほとんど無い。今日が初めてといってもいいくらいだ。
柊一さんとのデートだと喜んでいたけれど、まさかここまで本格的なところだとは思ってもみなかった。大人しくしてれば平気と柊一さんは言ってたけど…。
「お席はこちらになります」
「ありがとうございます」
柊一さんは軽くスタッフと言葉を交わす。
案内された席は、ステージから少し引いた中央のボックス席。そこには小さな「RESERVED」と書かれた使い込まれた木製のプレートが置かれていて、店のロゴがかすれた厚手の布製のコースターが、主を待つようにちょこんとセットされていた。
「七瀬何してる、座れよ」
「う、う、うん」
柊一さんは何も気にしていない。かくいう俺は身の丈以上の大人の娯楽場に緊張しっぱなで、カクカクと人形のように動く。
どうにか座ったソファは柊一さんの家とは違い、何十年もの間、客のタバコの煙や酒の香りが染みついた深い色した本革製の物。ソファまでも俺の居所のなさを助長する。
「どうした、七瀬」
「え、え、な、な、何でもないよ」
「何でもないことはないだろ、お前緊張してンのか」
「べ、べ、別に…」
きっと彼は笑っているだろう。誰が見ても一目瞭然。俺は気後れして、まごついている。
「お飲み物などのご注文は」
「デュワーズのハイボールで、レモンピールを落とした物を、彼にオレンジジュース。それとミックスナッツを」
柊一さんが勝手にオレンジジュースを決めていた。それに文句はないが、どうも落ち着かない。
オーダーを取ったら、スタッフは去っていった。
「仕方ねえな、今日だけだぞ」
「……!」
年季の入った木製テーブルの下、彼の手が俺の両手をそっと包む。
冷たいけど、柔らかい手。俺は頬を赤く染める。
「安心しろ、今日は俺が居る」
俺は柊一さんの顔を見る。
「大人しく音楽を聴いてればいい、ただそれだけでいいから」
俺は黙って何度も頷く。それを見て彼は笑んだ。
テーブルに置かれてる琥珀色のシェードランプが温かく照らし、スタッフや客が歩くたび、かすかに床のウッドが鳴る。
ここは老舗のジャズバー、クレセント。
直筆サイン入りのモノクロ写真や、往年の名盤のレコードジャケットが額縁に入れられ、ステージと違うライトを浴びている。
「ここのオレンジジュースはバーテンダーがその場でオレンジを搾ってくれるから美味い。俺のおススメ」
「そ、そうなんだ。柊一さんのおススメなんだ」
柊一さんは口が肥えていて、グルメだ。その柊一さんが言うのだから間違いない。俺はオレンジジュースが楽しみになった。
「デュワーズのハイボールで、レモンピール落とすって?」
「デュワーズ、スコッチのハイボールで、レモンピールは皮の香り付けしたやつ。七瀬は飲むなよ」
「うん。飲まないよ、オレンジジュース美味しそうだもん」
「それならいい」
「うん」
今日は何処までもついていけそうな気がする。彼の手がある。俺の中で、安心と胸の高鳴りが同居する。
今なら柊一さんに笑われてもいい。この時間、この空間だけでかなり甘いシチュエーションだ。いつもソファベッドで寝て、柊一さんに終始からかわれて終わるだけの時間じゃない。まだライブは始まる前だが、俺の中ではかなり盛り上がってきている。素晴らしきかな、人生…って大袈裟か。
店内にはグラスの触れ合う音、氷の音、客たちの低めの話し声で満たされている。オーダーしたばかりなので、俺と柊一さんの席には何もないけれど、待っている時間もそれはそれで良い。
店はそんなに広くはなく、客とスタッフ、ステージとの距離が近く、同じ席の柊一さんとは手だけじゃなく、肩が触れ合う距離だ。
「七瀬、他の客の視線はステージや自分のテーブルに釘付けだ。誰も俺たちの事は見てない」
「え…そ、そうなの?」
「七瀬が大失態しなきゃな、案外そんなもんだ」
「う、うん」
「演奏が始まれば特に、他の客なんて気にしてない」
「うん」
「ステージが始まる今だって、賑やかさが最高の「防音壁」になる、気にするな」
「ぼ、ぼうおんへき…?」
「ぼうおんへきだ、防音壁!音の出入りや響きをコントロールするための壁、建材の事!」
あ、俺自爆した。柊一さんはため息をつく。
「へきって言うから、なにか癖かと思った。性癖とかいうじゃん」
ああ、更に柊一さんはため息つく。俺ってやはりバカなのかも。思考回路がとっ散らかり過ぎている。これでは甘い時間が逃げていく…。
「お待たせいたしました」
俺の窮地を見計らったかのように、スタッフからオーダーしたハイボールとオレンジジュース、ミックスナッツが届く。
琥珀色のシェードランプに照らされ、オレンジ色の中をきらきらと光る氷。その様子が綺麗で俺は静かにスタッフが俺の手前にあるコースターに置いていくのを見ていた。
「とりあえず乾杯だな」
「あ、う、うん」
柊一さんは手を放し、俺はオレンジジュースを入れたグラスに手をやる。
「乾杯」
二人で声を合わせ、お互いのグラスを軽くぶつける。
三年の間もこうしてグラスを傾けることはあったが、今日は違う。俺の手には柊一さんのぬくもりが残っている。いつもの乾杯とは明らかに違うのだ。今日は特別な日、だ。
「お客様、そろそろ開演のお時間になりますが、追加のご注文はありますか」
俺は首を横に振る。それを見た柊一さんがスタッフに声を掛ける。
「ありません」
「承知いたしました、ごゆっくりお楽しみください」
そう言うと、スタッフは去って行く。
俺は手に持ったオレンジジュースを一口飲む。
「うまー!何これすげーうまいんですけどー!」
柊一さんおススメのオレンジジュース。その場でバーテンダーが作ってくれた搾りたてのオレンジ。俺が良く知っているスーパー特売の紙パックのジュースとは味が全然違う。それにとても冷えてて美味い。
「俺が勧めるだけあるだろ」
「うん、美味しすぎてヤバい、飛ぶ」
「飛ぶってどこにだよ」
柊一さんは柔らかく笑う。いつもの柊一さんじゃないみたいだ。これも特別な日だからか?
ありがとう、神様。できればこの甘い時間が長く続きますように。
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